災害

パニック

多くの人が災害を恐れていますよね。。。災害になれば、、、あらゆる苦しみが発生するのが分かっているからです。どういう苦しみですか????????そりゃ職を失い、家庭を失い、財産を失えば苦しいに決まっているじゃないですか!!!!!!!!何を言っているんですか?????????「職を失う=苦しみ」っていうのは誰が決めたんですか??????誰ですか??????????

違う

職を失い、財産を失い、家庭を失った時に現れ出る「思考」なんとかしなければという「思考」これが現れる時「苦しみ」が起こります。逆に言えば、、、、このような状況をなんとかしなきゃ、、と「思わなければ」苦しみはありません。違いは分かりますか?????????状況が苦しみを作り出すのは不可能なのです。状況を「私」がなんとかしなくては!!!!!!という思考が起こった時「苦しみ」が起こります。

それって何の意味があるんですか???????

誰だって、、、誰だって「なんとかしなきゃ」なんていう思考を好きで起こすのではないのだから、、、これって勝手に勝手に湧くのだから、、、その講釈ってなんの意味があるんですか????????????いやいや、、あなた、、今答えを言ったんです。そうです、、、勝手に勝手に思考が湧くのだから、、、放っておけばいいのです。その勝手に勝手に湧く思考は災害対策として勝手に勝手に湧く「自分」なんていう存在とは無縁の思考でしかないんです。

だから

災害と呼ばれる状況になれば「何の努力もしなくても」勝手に勝手に対応すべき思考が湧きます。だから何も気にしなくていいんです。もしも私が災害に巻き込まれたら???????勝手に勝手に対応すべき思考が現れでてくるだけです。それで終わりです。将来の何かに備えて????????その将来何かが起これば、、その時にその状況に即した思考が勝手に湧きます。

パニック

何???????

パニックとは「パニック現象」が起こることではありません。パニックとはある出来事が起こった際にその出来事に次いで「期待していない思考」が起こり続けることです。「退職要請」という書類が会社から届いた時「その出来事」の次に「期待しない思考」が次々次々と起こります。「え?????俺何した?????」「営業成績か??????」「上司への横柄な態度か???????」「会社の業績???????」「外資乗っ取り???????」この思考は望ましい思考ではないのです。この思考は不快感があるのです。これがパニック現象と呼ばれる真実です。

止まらない

事件の背景、、、、パニック現象と呼ばれる現象が起こった時、、、、その事件の背景を読もうとうする動きが起こります。ここで「納得!!!!」という思考が湧くまで「読むための思考」が起こり続けるのです。「事件を読むための思考」が起こり続ければ「納得!!!!」という思考がどこかで起こるのですが、、、、そのことが最初から分かった時「事件を読むための思考が起こる必要がない」という気づきが起こります。「期待しない思考」の連続の後にはいずれ「納得!!!!」が起こるならば、、そしてそこまではエンドレスに思考が起こり続けるならば、、、、「最初から思考しない」という気づきが起こるのです。

重要なこと

「納得!!!!!」という思考が起こるまではただひたすらに「期待しない思考」が起こり続けます。ならばならば最初からその思考は必要ないのです。というよりも「その思考」だけが不快感を作ります。事件自体はそのままであり、、、ただの自然現象であり、、、、その背景を探るための「期待しない思考」これだけが不快感、分離感、孤独感、悲壮感、無力感を起こします。ならば最初からその思考を起こさない、、、という自覚が起こります。その時、、パニック現象と呼ばれる現象は「現象」になるのです。

言葉をないことにするという愚行

違う

ワンネス、WE ARE THE ONE、大いなる存在、、、空、、、、そうです、、本当にそうなんです、、、今まさに我々の本質はそれ、、であり、、、それ以外にはなることができません。生まれた時から死ぬまでこの体が朽ち果てるまで、、、「それ」です。ですから悟りを開くとか、、、本当は意味不明なんです。だって最初からそうであってそれ以外にはなれないのですから。

言葉

「それ」の中、その中に自然現象として言葉が生まれました。言葉は空間に生まれたんではありません、、「それ」が言葉となって現れでたのです、、、その時「認識」が起こり、、、、「認識のままの感情」が起こります。「それ」が「そうなった」のです。言葉は言葉のままにイメージを起こしますから、、なんでも作れます。「この宇宙の中の小さな私」という言葉が起これば、、、、「そのままに」イメージが起こります。そのイメージが起こることで「縁」次の言葉が飛び出し、次なる「イメージ」が起こるのです。

この奇跡

全ては奇跡です、、だから言葉も奇跡です、、、、この奇跡に自覚がないから「言葉」が次から次へと現れ出し、、言葉のままに「感情」が起こり続けているのです。種も仕掛けもなく、、起こる言葉起こる思考のままに、、、認識が生まれ、、、その認識が次の言葉、思考を生み出し続けているだけです。そこに気づいた時、、ビックリします。完全に完全に分かっていなかったと。

完璧な勘違い

完全無欠な勘違いが起こっていたのです、、完全無欠な「思考」の認識だけが起こっていたのです。「思い込み」という現象がただ起こり続けていたのです。「思い込み」が「思い込み」を作り続けていただけ、「思い込み」に「思い込み」が反応していただけなのです。そのことに気づいた時「思い込み」の次に「思い込み」が起こりません。だって「思い込み」が起こった瞬間「思い込み」と気づかれるからです。

悟り

悟りとは「言葉」が生み出した「思い込み」を「思い込み」と気づくことです。「思い込み」という経験だけが起こり、、その経験を「思い込み」と気づいた時、、、もう「思い込み」が起こらなくなります。その時、、真の静寂、真の平和、真の安らぎそのものだけが残ります。本当は真の安らぎの中に「思い込み」という経験だけが起こっていたのだ、、、、という気づきに至ります。

言葉遊び

なぜ社会人やるの?????

なぜ??????だって社会人をしっかりやらないと結婚してまともな生活できないですよね???????社会人になるのが結婚するためならば、、結婚できれば社会人やらなくてもいいということですか??????もしそうならば、、社会人じゃなくても結婚できる相手を見つければそれで終わりですよね?????そしてなぜ結婚しないといけないのか????????結婚で手に入れるのは何か??????もしも幸福ならば、、最初から幸福ならばそれで終わりです。

条件で幸福になっていく?????????

条件を満たせば幸福になれるならば、、、条件を満たさなくては幸福にはなれないということになります。幸福になるには条件が必要となると人は生まれたままでは不幸だったということになります。そうなると人はデフォルトが「不幸」となります。いやいやいや、、、、なんですか???????人は不幸がデフォルトって??????不幸がデフォルトならば誰一人「幸福を目指す」という行為をしないはずなです。ところが人は「幸福」になりたいと願っています、、それを願うならば、、その状態を知っているということになるんです。

そうです

我々は最初から幸福として生まれてきているのです。幸福として生まれてきているにも関わらず「概念」を増やしていくことで「不幸」になったのです。概念こそが不幸生産機です。誰が概念を増やしたんですか??????誰も増やしたんではないんです。概念だけが増えていったのです。概念だけが増え続け、、、そこに分離感、孤独感、無力感が増えていき、、今があるのです。

気を使う??????

使うべき相手

居ません、、、この視界から消えた瞬間その「人」は存在せず、、居なくなります。この視界に現れた瞬間だけその「人」は存在するように見えますが、、、実際には存在しません。ですが見かけ上は、、「気を使うべき」状況は起こります。目上の人との会食、クライアントとの会談、、、などなど、、、、ですが、、、、、、、これはゲームです、、、楽しめる範囲でやればいいのです。仮に無礼に映り、相手が怒ったように見えようとも、、それもそう見えるだけのことです。真実では何も起こってはいないのです。

頭で考えて

誰も居ないのだから、、、無礼講でも何も問題はない。。そうです、、、そうなんですが、、、頭の中でそう信じてもこれは駄目です。「周囲には人が居る」のだとこれまでが信じていたのです、、、、だからそれが概念に過ぎなかった、、、ということを見抜きます。「周囲には人は居ないんだと信じる」のではなく、、、「居る」というのが概念に過ぎないことを悟るのです。ここは大きな違いです。

悟りのメッセージ

悟りのメッセージは概念ではありません。今までの全てが概念に過ぎないことを悟るのが悟りです。何もない、全ては一つ、時間も空間もない、、、、これを暗記しても新しい概念が起こるだけです、イメージが起こるのです。そうではなく、、、、、これまでの全てがイメージに過ぎなかったと悟ることが悟りなのです。その時、、、気づきとして、、、何もない、全ては一つ、、時間も空間もない、、、という気づきが起こるのです。

地獄

とは????

地獄とは、、、、実は、、、思考が作り出したものです。状況に「何かをしなくてはならない」は一切なく、、よって「何かをしなくてはならい」というのは思考が作り出した幻想です。本当はただこの画像が移り変わるのみでありそこには何も起こっていないのです。その画像を切り抜いてこれが「起こった」と想像して勝手にこちらで苦しんでいるだけです。

四面楚歌

ですがそんなこと言っていたら四面楚歌、孤立無援になりませんか????????なりません、、、四面楚歌、孤立無援とは、、、周囲に「人」が実在して初めてそうなるのであって「人」が実在しないにも関わらずどうやってそうなれるというのでしょうか????????四面楚歌も完全な空想、妄想です。つまり地獄とはこちらの空想、妄想なのです。

何も起こっていない

本当は本当は何も何も起こっていません、、、、何も起こることができないのです。だから全ては放っておけばいいのです。全てを放っておいても、、何も起こりません、、、、最初から何も起こっておらず、、そしてこれからも何も起こらない。。。。起こっているというのは完全な空想、妄想です。

ストーリーの中での瞑想

ストーリーの中でのヨガ

瞑想にしてもヨガにしても、、、これは方便です。方便ですが効果があります。瞑想をする個人、ヨガをする個人が確実に居るのです。今日は私は二時間瞑想をしました。今日は私は二時間ヨガをしました。。。。この発言そのものから「孤独感、無力感、分離感、悲壮感」が湧くのですが、、そこには気づいていません。ですがそれでいいのです、、、そのことがどこかで確実に分かる日が来ますから。仮に来なくてもいいのです、そういう自然現象だったという話です。

関心は作れない

明日から俺は女性じゃなくて男に興味を持って生きることにします。明日から俺はパチンコに興味が湧くように生きようと思います。明日から俺はブラジル人の生態に興味を持てるよう心がけます。。。。全部構想的に不可能です。興味とは持つものではなく持たされることだからです。ヨガ、瞑想を全く同じ、、そこに興味が湧くならば湧かされたのです、、、、だからそこには選択肢が存在しません。

悟り

「明日から俺は悟り一択悟りのみに関心を持つよう努力します!!!!!!!」無理無理無理、、、無い無い無い。。。。。。悟りも関心を持たされるのであって、、、持つものではありません。だから不可能、無理です。逆に言えば今悟りに興味があるならば、、、「持たされましたね」おもでとうございます。。。。。。。錯覚解放に興味が出ちゃうと、、、楽ですよ。だってそこには中毒性は全く無く、、、ただ安らぎの状態しかないからです。

お隣の太郎くん、、慶應受かったらしいわよ!!

なにを!!!!!

なぜ????なぜ???????なぜ隣の太郎くんが慶應に受かることで「我が家」にショックが起こるのか?????なぜなんかソワソワするのか??????なぜですか?????????簡単です、簡単過ぎます、、、「我が息子」というデータが、、、「太郎くんの下」というデータに書き換わったのです。つまり我が息子が『「太郎くんの下」の農大』というデータに切り替わったのです。これによって父三郎が、、、うちの息子は、、、、、と飲み屋で語る時に、、、惨めな感情が生まれます。

データの書き換え

ところが朝新聞のニュースで、、、「農大が各業界から再評価されている」と報じられれば、、、「おおお!!!!」となります。息子のデータが書き変わります。「太郎くんの慶應よりも下だと思っていたが、、再評価されている農大出身の息子」に変わるのです。つまりつまりこれただのデータ認識の話です。息子に関するデータがただ変わる、、これによって起こる感情が変わる、、、これが起こっているのです。

親孝行の息子

社会的には全く評価されていない息子だが、、、、月に一回は実家に顔を出してくれる、、こうなった時「お宅の息子さんは本当に親孝行ね、なんでそんなに立派に育てれたの?????」と評価されました。。その時、、、、「嬉しい、やったぞ、、俺は素晴らしい父なんだ、、」というデータに書き換わります。こうやって自分、息子、、、、というデータが上書き保存され続けて、、人生が終わります。

釈迦

見かけ上の釈迦は「我々は本当はそのデータではない」「我々はそのデータを認識する存在だ」「データは日々更新され続け止まることはないがそのことと我々の本質とは何も関係がない」「データ更新に気づく、、その気づきこそが我々の本質だ」と2500年前に気づいたのです。私をただの上書き保存されるデータであると気づくと、、、真の平和が訪れます。

勘違い

悟りの勉強してるのに、、、、

「悟りのことを勉強しているんですが、、全く心が穏やかにならないんですよ、、、、全然だめですね、、まだまだです」この発想自体が勘違いです、、、、「心が穏やかじゃない」という状態、、、これを「悪い」と判断するこのことが勘違いです。心が激しく激昂しようとも心が激しく落ち込んでも、、何があっても、、、それこそが自然現象である、、、、という気づきです。台風レベルの激動が精神的に起こっても、、、それがまさに自然現象に過ぎないという気づきです。

台風があっていい

精神的に台風のように吹き荒れても、、、、それでいいのです、だって自然現象ですから。。。すべての感情的台風、暴風雨、ハリケーンを、、、、ただの自然現象と見抜けた時、、、何も問題がないという気づきが起こります。そうです、、、、何がここで起こっても問題はないのです。責任を取れる個人が存在しないのですから。コントロール可能な誰かが居ないんです。

混乱

超能力

テレポーテーション、遠隔ヒーリング、透視、クリアリング、、、様々なスピリチュアル能力って実際に存在します。私もTVなどを観て一時期夢中になったことありました。ですがこれらと悟りとは直接的には全く関係がありません。悟りとは能力を所有しているとされる個人が実は概念でしかなかったという真実です。だから個人があらゆる能力を身につけ、、そして悟る、、、という個人ストーリーとは真逆なのです。

ですが

ですが同時に個人(本当は居ないが)がリラックスし、、緊張が抜け、、、、とストーリー上で緩みに緩んでいった時、、、悟りへの関心が目覚めていくのは事実です。個人が物語の中で、、ストレスが解消していくことで、、、本当のストレス解消とは何だ?????と目覚めていくのです。ですからある時期、、スピリチュアル能力に興味が出ることは遠回りでも全くなくそれも自然現象として起こります。

混乱してもいい

あらゆるスピ能力を身につけた延長線上に確実に「悟り」があるということではなく、、、全ての道の先には「悟り」があります。「悟り」に繋がらない、「悟り」に遠ざかるような道は存在しません。真実はその道だと思っていたその道が、、、道ではなく、、、まさかの「全て」だった、、、、歩いていたこの道が、、、道というプロセスではなく、、、その場所こそが「ホーム」「全体」「究極の自己」そのものだったという気づきです。