悲劇から喜劇へ

悲劇は体になりきった状態

この体は絶対に私だ、そしてこの思考も間違いなく私だ、、、この緊張状態、密着状態が、、緊張感と分離感を激しく作るのですが、、、この時人は全てが悲劇になります。面白いことに密着すれば密着するほどにこの私はこの体の動きに完全に振り回されるのです。コントロールしようと思えば思うほどに暴れ馬感覚になるのです。それはそのはず右に行くぞ!!!と意気込んでもそれとは全く関係なく勝手に動くからです。自分自身が全くコントロール不可であることからストレスも激しく、、ゆえにこの状態は悲劇です。

体と距離を置く

この体のやることはもう分からん、体に任せちゃえ!!!やる気があるときはやる気に任せやる気が出ないならばそのやる気に任せる、、風任せ運任せだ!!この諦めがある程度ついてきますと、、、悲劇は喜劇になっていきます。こういう人生じゃなきゃ嫌だ、こういう人生以外は歩みたくない、、という理想は崩れ去り、、体に任せてしまうということです。要は馬(体)の動きに「私」が合わせるという感覚です。もう勝手にしてくれ!!です。

そのそも自由意志も自己も無いじゃないか!!!

そして最後は、、そもそもさー自分も自由意志も見せかけで、、本当はないじゃないか!!です。構造的にありよがないのです。この現象は全て空の影、幻、反映ですから、、独立した何かなんて存在するわけないしい、その何かに自由意志があるなんていうのも錯覚に決まっている、、、です。これが喜劇からの解放です。究極の諦め、、あとは馬の動きをただ観察し、、馬になりきり(あるがまま)生きていくが続きます。もうそここには馬(体)に乗る自分は居ないことが分かっています。

空の揺らぎ

色とは影

色とは空の影揺らぎです、、我々は全体で空の影、揺らぎをやっています。空から影が現れるその根源が大いなる存在、存在、我あり、気づきの意織などと呼ばれます。そこでは常に意識が起こります。そしてその意識は我々の根源に常にあり、、その感覚は我々が起きている間存在している「在る」という感覚です。そして我々は影でありますからそこには自由意志はないし(ある感覚はある)、自己という分離独立した(あるという感覚はある)存在もいません。だから時間はないし空間もないのです。

分離と緊張

我々はこの体の中に自己が存在するという錯覚を持った瞬間に(分離と緊張)を生み出します。この分離と緊張が苦しいので、、我々は、、この感覚を振り払うためにあらゆる活動をするわけです。ですがその活動の全ては自己が行うことであり、、根本の分離感緊張感が抜けることは絶対にありません。ですから途中疲れ果てその活動に疑いを持つことから悟りに関心を寄せるのです。

影に自由意志があったら

我々は空の影です、、空の影ですから本来はたった一つのエネルギーです。たった一つのエネルギーの影の一部に自由意志があるとしたら、、それは分離であり、、そうなるとたった一つのエネルギーはたった一つではなくなってしまいます。あくまでこの影の中で起こるのは分離ではなく分離感です、自由意思感です。分離という錯覚、自由意志という錯覚です。自由意思感という錯覚を所有する自分という錯覚が歩むドラマがマイライフでという錯覚です。

ある時この錯覚に気づく

ある時この私、この自由意志が錯覚だという気づきが起きます、そしてこれは空の影、反映であることにも気づきます。この気づきはこの私ではなく気づきの意織、大いなる存在、我ありから起こるのです。その時同時にもう何も抗わなくていい、影の動きに身を委ねよう、どうせこの身が滅びても影に吸収されるだけだという気づきが起きます。影はどこまでいっても影でありこれが空に影響を与えることはないのですからこれほど気楽な活動はありません。「私」の活動は最初から最後まで遊びです。

非二元を二元の言葉で説明する矛盾

言葉とは二元の世界

言葉は二元の世界を表すツールです、この言葉で非二元を表現するのは実は矛盾があります。二元の世界とはつまり分離の世界です。非二元とはその分離が嘘、間違い、勘違いであるという世界です。全くもって真逆の世界なのです。ですが言葉は分離世界のツールですからこのツールで非二元(非分離)を証明するという矛盾にぶち当たるのです。

言葉こそが二元を作り出した

二元性の世界にあるのが言葉ではなく言葉こそが二元の世界を作り出しました。もしも人類が言葉を使っていなければ今現在も非二元の世界に人類は住んでいます。つまり人類は言葉を覚え活用することで二元の世界(幻想)を作り出し、、その幻想に住うという荒技を生み出したのです。ところがこの二元の世界は分離緊張の世界でもあり、、、これが苦しいので、、、本当は非二元(非分離)だ!!!と言い出したのです。そしてそれは真実です。

一生懸命言葉(分離ツール)で非二元を説明する滑稽さ

わざわざ言葉で二元(分離)の世界を作り出し、、文明を進化させてきた人類が、、この世界に住っていれば真の幸福には至れないと気づき、、今言葉(分離ツール)を用いて本当はこの世界は非二元なんだ、分離していないんだと説いています。皮肉にも分離を作り出した道具を用いて今度は分離は錯覚だと説いているのです。ですがこれは退化ではなく進化です。人類は分離世界を一旦作り出し、、次はそれを超越しようとしているのです。分離が悪いということではなく、、分離を作り出した故の苦しみを、、、今終わらせようとする次のステージに人類が進もうとしてるわけです。

自由意志の否定は輪廻転生を崩壊させる

そもそも

輪廻転生とは、、人間が行った誤った行為を来世で解消するために何度も生まれ変わり霊的成長をしていくことが前提で起こった考え方です。ところが人間には自由意志がなく、、全ての行動言動は自動反応であるというのが真実です。つまり人間の全行動はワンネスから起こる現象に過ぎないことからそこに間違いなどあろうはずがないのです。自由意志を行使した結果時に過ちを犯し、それを改善するために生まれ変わるという概念は完全に勘違いであることが分かります。

解脱とは勘違いからの目覚め

つまり解脱とはそれらの勘違いからの目覚めであるということです、人間には自由意志もないし自我も存在しないという気づきが起こりまでこの自我ストーリーが続いていたというだけの話です。今世で犯した罪は来世で償います、、という考え方は、、真実ではなく大誤解です。輪廻転生とは大誤解をベースにした概念に過ぎないということです。そういった大誤解から目覚めて真実に目覚める時、、そこにはワンネスしかなく、、最初から悟っていたという気づきが起こります。

自我を前提にしたストーリーの消滅

解放、目覚め、解脱とは、、、自我を基本にしたストーリーの消滅です。本当は自我は現象幻でしかなくつまり現れて消える概念です。この概念が分離と緊張という「苦しみ」を起こし、それをこのストーリー上で解消しようとする動きが人生であり輪廻転生なのです。そもそも自我は幻であり実在はしていなかったという気づきは自我をベースにしたストーリー全てを崩壊しその後に残るのは自我が存在しない現象のみです。そこには分離と緊張は存在せず真の安らぎが残ります。

未来思考は決してポジティブではない

前だけを向いて

前だけを向いて行きましょう!!今は苦しくても。。。こういったスローガン多いですよね!!!実際私もこの手のスローガンに肖っていた時期もありました。前へ前へ前へ!!!ですが実はこれは自我の常套手段です。自我に依存している状態は基本今が苦しいのです、今は分離感全開です。今が苦しいので自我はとにかく先には幸福が待っているというスローガンを作るのです。今はとにかく苦しいだけどいつかこの苦しみからは解放される日がくるはずだ、、です。ですがどう考えてもいままでこのやり方が成功したことがない。

前に素敵なセルフイメージを作って

自我は前に素敵なセルフイメージを作ってこれを達成したらこんな幸福な自分に、これを叶えたらこんな素敵な自分に、これが成就したら最高の自分に、、、と人参を常に垂らしてきます。ですがなぜこれを垂らさないといけないのか????それは今は苦しいからです、今が不足だからです、今が孤独だからです。だから前に素敵な自我イメージを作りこの延長線上にはいつかは、、、という夢を置くのです。

叶える先にあるのは自分

この作戦の問題点はどれほど素敵な夢を叶えようとそれを享受するのが自分だということです。この自分がこのストーリーの主人公であることに変わりはないのです。ところがところが、、、この自分が分離感、不足感を生み出している張本人ですから、、、素敵な夢を分離感全開で叶えるだけなのです。つまりこの作戦の問題点とは、、絶対に至福になれない自分がこのドラマの主人公であるということです。

全く魅力のないメッセージ

絶望の終わり

自我とは分離感です、自我=分離感です。この枠からは絶対に絶対に自我は抜け出ることができません。自我が向かうところ分離感しかないのです。ですから自我は絶望的な存在なのです、そしてそのことを自我の向こうの何かは気づいています。ですから覚者は自我の終焉以外にこの苦しみを終わらせることはできないと断言するのです。ですがこのメッセージは自我を維持しようとする動きにとっては全くもって魅力のないメッセージなのです。何かを埋めれば何かを足せば、何かに気づけば、、いずれ私は幸福になれると信じて何十年間も走ってきた自我にとって、、、自我の消滅ほど不快なメッセージはないのです。

何かが幸福になるのではない

この世界にある何かは全部現象です、ですからその何かは幸福になるということは不可能なのです。今回の何かとはこの自分ですがこの自分もご多分に漏れず、、現象です、、つまり現れては消える幻想です、幻です。幻は幻ゆえに幸福になるということは不可能なのです。これが自我が絶望的な存在である理由です。自我という現象自体は完璧です、現象は完璧の表現であり自我は完璧なのです。ですが至福という観点から言えば自我は絶望的なのです。

絶望的な存在を終わらせるしかない

もしも出来ることがあるとすればそれは自我(絶望的存在)を終わらせることです、絶望的存在が終われば何が残るか、、、真の安心感、真の安らぎ、真の喜びです。自我とは引き換えにこれを手に入れるしか方法はないのです。自我とは引き換えに????誰が自我とは引き換えに真の安らぎを手に入れるのか????誰が自我とは引き換えに真の喜びを手に入れるのか????それは真の安らぎ、真の喜び、大いなる存在そのものです。

空(至福)の中で雲(一過性の幸福)を探すというギャグ

偽りの私(雲)は空(至福)に気づかない

我々(雲)が存在できるのは空(至福)があるからです。空(至福)がなければ雲(我々)が誕生することもありません。我々はこの空(至福)で生まれ最初はこの空(至福)を感じていました。徐々に徐々に自我が形成されこの空(至福)を感じることができなくなり結果この空(至福)の中で空(至福)の代替品(雲)を日々探すという愚かな行為をしているのです。

空(至福)から閉ざした存在『私』

私とはこの空(至福)から完全分離(錯覚)していると思い込む存在です。ゆえに至福に飢え、、私はあらゆる雲(一過性の幸福)を探し回っているのです。ですがこの私が得ることができる雲(一過性の幸福)は雲ゆえに現れては消えていく運命にあるのです。私は何か対象(雲)を探すことが習慣になっているために車、家、マンション、パートナー、地位、名誉、家族、、、と対象を次々に求めは次にいくという道を歩みます。本当はこの雲(対象)が存在する場(空)にこそ至福があることをすっかり忘れてしまったからです。

私が消えれば

結論から言えば私(雲)が消えれば即空(至福)に戻るのです。私とはそもそも存在などせずあると思い込む思考、感覚でしかありませんからないことが証明されれば存続できないのです。私がないことを証明するという前代未聞の行動がこの空で起きた時、、、私が消えるのは間近です。この空に存在している雲は全部が全部現象幻であって実在する存在は皆無なのです。そのことが分かってきますと私(雲)だけが実在するという理屈が無理があることが分かります。

有名人に憧れる本当の理由

エゴの集大成

有名人になるというのはエゴにとっては最大限の安心です。誰もが自分(エゴ)を知っているという状況は自分がこの世界に確実に存在すると証明できるからです。ですがなぜそこまでして存在を証明したいのか????それは自我エゴとは非連続性の存在現れては消える儚い存在なのです。だからこそこれを常に意織したい、、という衝動が有名人への憧れになるのです。自我最強バージョンです。

実際は

エゴにとっては有名人になることは素晴らしいことでしょう、ですが実際にそうなってしまったら、、さあ大変、、常に常に自分、エゴが現れるのです、、、その瞬間「本当は誰だ????」という憤りが生まれます。安心するエゴの動きと常に苦しいが湧き上がるという二重構造の感情に支配され苦しみ続けることになるのです。

有名人とはエゴの大肯定

有名人とはエゴを大肯定する動きです、、本当は非連続の幻であるエゴが完全に存在すると周囲から認められることになります。ですからこれからも有名人ビジネスはなくなることは絶対にないでしょう。有名サッカー選手が子供たちの憧れになるのは既に子供の中に自我が芽生えてきている証拠なのです。何者でもない存在では心許ない、有名になって存在を証明したいというエゴの動きです。

病気になりたがるエゴ

エゴの延命作用

信じられない話かもしれませんがエゴは病気を手放そうとしません、エゴは病気になることで周囲から構ってもらえると、、自身の存在を証明できます。すると病気を手放そうとはせず逆に病気にしがみつくのです。エゴは本当は非連続性の存在であり現れては消える儚い存在なのです、よって確実に永続するためには病気にしがみついて存在を証明したがるわけです。

治るわけがない

つまり病気でもってエゴを確立している人は、、病気を手放すわけがないのです。もしも手放してしまったら大変次は何か他の方法で自身を証明しなくてはならなくなるのです。ということで周囲から心配してもらえる病気はエゴの大好物なのです。万が一病気が進みすぎて命を落とす危険性がある、、そこまで病気が進行した時には本気を出して治そうとします。

この手法に気づく

本当は治したいんだ、、その気持ちが強くなってきた時にはこのエゴの手法を完全に俯瞰します。周囲から構ってもらいがために病気になるという手口をエゴは利用する、、するとエゴはこの手法を使わなくなります。エゴの動きを見抜くのは誰でしょうか?????エゴではないですよね?????エゴではないとすると大いなる存在、本当の自分です。つまりこの手法を見抜く時真の安らぎを手に入れることができるのです。

渡す世間は鬼(雲)ばかり

自我(雲)の延命作用

自我はこのドラマでは好んで被害者になろうとします。被害者になるということはこの私は確実に居ることを証明できるからです。医療ミス、金銭トラブル、ストーキング、、、なんでもいいのですが被害者という周囲から間違いなく認められる地位を獲得したいのです。何かを達成して地位を得るよりもはるかに簡単に自己を証明できるのです。自我は幻ゆえに、、その存在を証明してくれることならば何にでもしがみ付くのです。渡る世間は鬼ばかりというドラマがありますが毎週毎週誰かが被害者、加害者になることで自我の存在を明確にしているのです。そしてなぜそこまでしなくてはならないかと言えば自我とは非連続性の存在つまり雲なのです。

時に加害者(雲)、時に被害者(雲)

渡る世間は鬼ばかりでは出演者が上手に交代しながら、、加害者被害者役を繰り返していきます。時に加害者、時に被害者、、と回りに回っていくのです。重要なことは常にどちらかの役をやっていること、、やっていれば自分という存在を証明できるからです。ですがなぜ毎回毎回忙しくそれをやるかと言えば自分を証明し続ける必要があるからです。つまりドラマを引き起こしていないと自分を証明できないということこそが本当は幻想である証拠なのです。

空(本当の自分)以外は全員幻雲

この世界において空以外に絶対的な存在は居ません。空に浮かび上がる現象の全て(人、物、思考、感情)は現れては消えていく幻雲です。本当はそれが分かっているからこそ人はお互いの存在を記憶に留め、、幻ではなく絶対であると相互に錯覚しあっているのです。錯覚共同互助組合です。この動き(雲)が自我(雲)同士で起こるのです。

称賛されるよりも被害者は簡単

大谷翔平のようになれば自我は大大大満足で、、誰も大谷翔平の自我を幻とは思わないでしょう。ですがこれは最大限の努力が必要になり手間がかかるのです、そこで自我は被害者になり簡単に自身の存在を証明するということを学習したのです。あれ???私の存在薄いかも????そうだ被害者になろう!!!です。この動きを見抜いた時被害者になるという自我の動きが止まります。