毎晩見る夢の傍観者は誰だ?

もしも私じゃなかったら

もしも毎晩見ている夢の傍観者が、、私ではなかったらあれは一体誰が見ているんでしょうか?????気になりますよね。。。じつはあれ私ではないんですが、、、じゃあいったい誰が見ているんでしょうか????全体です、大いなる存在です、、、存在があの夢を作り出し、そしてあの夢を見ています。もっとももっと究極の話をすれば夢自体が夢を見ているんです。さてではこの現実という夢を見ているのは誰でしょうか????そうです、同じです、、大いなる存在です。大いなる存在がこの夢(現実)を作り出しこの夢を大いなる存在自体が見ているんです。もっと究極を言えばこの夢は夢自体が見ているんです。

じゃあこの私は?????

その私がこの夢自体です、、この夢を毎日見ている私こそが夢を作り出し夢を見る存在です、もっと究極を言えば夢(私)が夢(私)を見ているんです。この私という感覚はこの夢自体の感覚です、、夢自体の私なのです。だからこの私はいつもいつも存在に気づかれていますよね、、、意識を失うことはないですよね。在るというこの感覚、、これが私の本性です。その在るという感覚がこの夢(現実)を作り出しそのまま夢を見ているんです。

出演者も私なのに

このドラマに出てくる出演者も当然私の中に出てきます、私の変容体です、ですが彼らは名を名乗り全くの別人と宣うから混乱するんです。ですが100%私が作り出した出演者であり、、私自身です。私が居ないところでは彼らは存在できませんし、、私が居る場所でしか登場できません。夢の中で、、味覚痛覚触覚視覚聴覚を作り出せるのは、、夢の創造主だからです。ではこの現実(夢)の中でもそれを作り出せるのは創造主だけです。だからこの世界には五感が登場するのです。

漫画を読み始めたその瞬間

棚にあるコミック本

棚にあるコミック本は、、読み始めるまではそこに在るだけです、ただ在るだけです。コミック本に時間空間は存在するのか???あるわけがない、、微動だにしないコミック本には時間空間は存在しません。ところがこのコミックを読み始めた瞬間に何が起きるか、、突如脳内に空間時間が広がります、、、主人公が動き出す空間時間が起こるのです、、そして読み始めていくことで様々な感情が起こるのです。コミック本が棚にある時点ではこれらは何も起きていません。本を開き、、意識をそこに向けた瞬間に時間空間感情が起こるのです。

意識を体に向けた瞬間に

意識をこの体に向けたその瞬間、、、突如この世界に時間と空間が起こるのです。そして思考が湧き上がり感情も湧き上がる、、、もっと詳細に伝えれば、、、この体に意識が向いた瞬間に緊張と分離感が起こります。この感覚が不快なので、、次に何かをしてこの緊張と分離感を解消しようとする動きが始まるのです。その動きが人生ストーリーを作り出すのです。

バスケットボールプレイヤー

プロのバスケットプレイヤーは、、、ボールを持った瞬間に意識がボールに行き、、そこから時間と空間が広がります。ボールを持つまではただの背景が、、持った瞬間その場所に相手プレイヤー、コートが広がるのです。つまり意識が向くことでその世界が広がります。目が覚めてこの体に意識が向いた瞬間に時間、空間が広がります。

背景として意識的に体を意織する

この体に意織を向けないで社会生活をするのは不可能です。ですが今までは無意識に体に意識が行っていました。つまり体に意識が向くことに無意識だったのです。ですがこれからは意織的に体に意識が向くことを意織できます。つまり時間、空間が広がることに意織できるのです。時間空間がイリュージョンであることを自覚的に意織できます。これによって背景としての自分を忘れないことができるのです。これは真の安らぎ(背景)の中でこの人間ドラマを楽しめることが証明されます。

背景としての自覚

鳥が鳴く

背景としての自覚がでてきますと、、鳥が鳴くだけで、、自分の中で自分が鳴いているような愛を感じます、この愛は対象への愛ではなく、、存在そのものから声そのものへ起こる愛です。この体の私から出る愛ではなく声そのもに存在から愛が起こるのです。そして今まではこの体の私から感情が起こっていたのも分かります。ですが背景としての自覚が起きますと背景から直接感情とは違う何かが起こるのです。

光が背景で輝く

光が背景で輝きます、それまでは光がこの体である私に向かって輝いていたのが光が背景で輝き背景がこれを感じます。同じ光なのに全く違う光を感じます。それはそのはず光を感じる主体が違うのですから。ですが本当のことを言えば光を感じていたのは最初から背景でした、ですがその後の体の「私」が私に向かってるというストーリーをその場で作っていたのです。ですからそれももう思考のフィルター越しの光なのです。

花が咲いていても

花が咲いていても、、その花は、、人が所有する花である、、、この思考が瞬時に湧きます。ですが背景としての自覚が湧きますと、、花はそのまま背景で咲いているのが分かります。背景が感じる花は誰からも所有されずただ花として咲きます。そしてほのかに愛が生まれます、その場から。

この人はこの体を「私」と思っているのか

背景としての自覚

背景としての自覚が出てきますと、、、この体を「私」と勘違いして話かけてくる人々を面白く感じるようになります。こちらはこの体が見えませんので背景として会話ができるのですが相手(画像)はこの体の中の私に向かって話しかけてきますから話が微妙にすれ違うのです。そのすれ違いは相手の反応でも見て取れますからそれが『面白い』となるのです。

所詮は背景の一部だが

これは本当に面白いのですが、、相手は背景の一部でしかありません、ですがその反応は間違いなく背景から起こっているのです。勘違いした発言であったとしてもそれも背景から起こっているのです。真の安らぎの中でこの勘違いのコミュニケーションが起こるのです。相手がどれほど勘違いのコミュニケーションをしてこようとそれが真の安らぎの中で起こるので面白いのです。

神が話しかけてくる

自身がこの体ではなく背景であるという自覚が芽生えてきますと、、真の安らぎの中に居ることができるようになります。同時に背景中の相手(画像)から話しかけられた時、、それも背景からの声かけであることを見抜けるのです。画像を通じて背景がこの私(背景)に話しかけてくるわけです。これは神と神の話し合いなのです。そして我々は最初から神と神の話し合いしかしたことがなかったことも分かります。その時これまでの緊張感が伴うコミュニケーションすらもコントだったことが分かるのです。

働き気がなくなってヤバくないですか????

野生動物に労働意欲はない

世界中の野生動物で労働意欲がある生物は皆無でしょう、ですがその野生動物はお腹が空けばまず間違いなく全生命が捕獲の動きをします。労働意欲などなくても必要であれば動くのです、そこに意気込みとか、気合とかそんなものはないのです。人間も同じ、自身がこの体ではなく背景であるという気づきが起きたとしてもお腹が空けば動くのです。

人間からHUMAN BEINGへ

ほとんどの人間はHUMANという自覚はあてもHUMAN BEINGという自覚はないでしょう、、BEINGとは何か???まさに背景です。この体であり背景です。これが人間の真の姿なのです。アボリジニーなどの原始的な生活をしている民族は、、自己所有という概念がなく、、自然と一体化して生きています。自然無為、タオ、大周天あらゆる宗教、哲学が求めるのは全体としての私なのです。

答えは最初からここにあった

ラスベガスのマジックショーもそうですがネタを教えてもらえなければ一万回見ても仕掛けが分からないでしょう。それと同じでこの神が作り出したマジックもネタが分からないと見抜けません。そして仕掛けが分かればその場でここに全部があったことが分かります。仕掛けの見抜き方も無限にあり方法に制限はないのです。

背景に見栄も見栄えもない

背景とは全部、神

我々は背景です、背景の中の体の画像は一部です。そのたった一部を自分自身と思い込むという逆をお互いの画像同士で行うことで、、ギャグのつもりが真実と思われるほどに深刻化したのがこの人間ゲームです。背景同士のコミュニケーションが人物(画像)同士のコミュニケーションになり緊張と分離感に臨場感が半端ない状態になりました。私はこの体であるという錯覚は世界に緊張感を生み出し、、その緊張感が苦しいからお酒を飲み、食事を食べ、ギャンブル異性に狂い、この緊張を忘れようとします。もしくは自分がちっぽけな存在であるという錯覚が、大きく見せようという衝動になり高級車、高級マンション、高級アクセサリーと身を固めていきます。

ほとんどの時間は、、、

人間活動のほとんどの時間は実はこの緊張の緩和、もしくは自身を大きくめるために行われています。事実世の中で一番大きなお金が流れるのは美容や不動産、株、ファッション、インテイリアなどでしょう。本当に必要な電気水道ガス、食費などは実はもうお金の流れのメインではないのです。ですから自身が実は背景であるという気づきは人間活動の多くを断捨離できます。そして真の安らぎ(背景)の中で本当にやりたいことをやれるようになるのです。

私たちはただ背景(真の安心)を求めていた

私たちが本当に求めていたのは緊張の緩和や大きく見せようではなく、、、真の安らぎです。事実幼稚園児で見栄っ張り、マッサージ狂いはいないのです。それは知能が弱いからではなく人物ではなく背景としての活動をしているからです。まだこの体を自分自身であるとする感覚が薄いがために背景の感覚が残っているのです、ですから将来不安も過度なマッサージも全く要らないのです。

背景と背景の騙し合い

背景が「私」に話しかけてくる

この世界はイリュージョンです、マジックです。ではそのマジックの種明かしをします。街を歩いていると友人(画像)が話しかけてくる、これって背景(主人)が友人(画像)を通じてこの「私」という画像に話しかけているんです。ですが話しかけている本当の私とは背景ですからこれは騙しなんです。ですが話しかけられた背景(主人)はまんまと騙されこの「私」になり切って答えるとなります。そして「私」は友人という画像に話しかけるわけですがすると向こうの背景(主人)がまんまと騙されて友人(画像)として答えるという流れです。

向かい合った主人同士

本当は背景(主人)と背景(主人)がしっかりと向き合っているにも関わらず初動の勘違いで勘違い合戦が起きているのです。背景VS背景が画像VS画像に急遽切り替わったのです。画像になりきった背景は緊張と分離感全開ですからこのコミュニケーションは苦しいのです。ここの部分が理解できますともう何も失うことがないことが分かってきます。

金持ち同士が貧乏人ごっこをしている

背景とはつまり全部なんです、背景に映るポルシェもマンションもアクセサリーも全部です。ですから超リッチ、超裕福、超金持ちです。その背景(金持ちが)が相手の背景ではなく(人物)画像という何もない存在に話しかけあうことで途端に貧乏人同士の会話になるのです。この勘違いは滑稽以外のなにものでもありません。だから人は本当はもっと豊かなのになーという感覚を忘れずにいるため、、、リッチに憧れるわけです。ですが本当は最初から背景(全部)ですから裕福どころじゃないのです。

なぜ背景が生きるために必死なのか????

なぜ背景である主人が生きるために必死なのか????それはこの人物という画像を自分と勘違いし何も持っていないと焦っているからです。ですがそれは真実ではなく勘違いですから本来必要のないものです。背景は全部ですから何もしなくても裕福なのです。でもその中の体は食べなくては生きていけませんよね???その通りです、ですが=必死に頑張る必要はなく、、ただこの体を生き伸ばしていけばいいのです。

顔なしお化けの人生

私とは顔なしお化け

私って実はこの人生で顔を持ったことがありません、、、こんなことを病院で言えば即入院でしょう。ですが真実ベース、ノンデュアリティ ベースで説明しますとこれが本当です。デマではないんです。顔を持ったことがない????そうです、顔をこの世界で現象化するためには、、この視界に顔が登場しないといけないんですが構造上それが不可能なのです。ですから現象化するわけがないんです。鏡に写ったのは顔そのものではないですよね、あくまで画像です。

私の顔を私と勘違いするシステム

集合写真、、あ!!私が居る、、、、ですがこれも画像です。画像とすれはいくらでもこの世界に登場します。モデルさんならば1日何百枚とこの世界に登場できます。ですが実際の顔はこの世界には一度も現象化したことがないんです。たった一度も。最近顔が痩せたね!最近顔が太ったね!!!、、、なんか目が充血してるよ、、顔に関する話題は常に友人から多くもらいますが、、、現象化じゃないんです、、情報のみです。

友人は嘘を付いているのか???

少なくともこの世界では私の顔は存在しないのです。。今もいつも。ですがもしかしたらその友人には友人の人生があるのかもしれない、、それは誰にも分からないのです。少なくともその証拠はゼロなんです。ノンデュアリティ は真実しか相手にしませんから、、今は確実に私の顔が現象化していないということになります。

お互いがお互いの幻を見ている

友人の世界にはこの私の顔が現象化しているかもしれません、仮にそうだとしたら、、それはこの顔という幻です。幻影です。友人は幻のこの私の顔に向かってさもこの顔の中に私が居るという錯覚を起こし話しかけているのです。そしてその幻から声が聞こえることでお互いに関係が成り立つのです。一番重要なこと、、それは私の世界ではこの顔は絶対に現象化していないということです。そこを押さえないと幻想の自我延命戦略から抜け出ることはありません。

両親の話しかけ作戦

毎日毎日

幼少期、毎日毎日、、この体に話しかけてくる両親、、、これも真実ベースでお話しすれば、、、、全く現象化していないこの体に、、両親は毎日毎日話しかけてくるわけです。完全にトリックです、、何者でもない、存在もしていないこの体に話しかけてくるなんてどう考えてもおかしいのです。これが全体が行なっている最初の自我形成作戦です。これによってこの体がどうやら存在するという思考錯覚が生まれ始めました。どうやらこの体が「〇〇」と呼ばれる存在なんだなと。

私は〇〇ちゃん

私は〇〇ちゃん、、そういう認識がここで起きた時に、、それが存在の大元に記憶され、、目を覚ますと「私は〇〇ちゃん」が起きる、、、周囲は全くの顔なしお化けに、、何度もその名前を呼びかけることで、、、この世界には〇〇ちゃんが実在するんだ!!!という思考が起きます。目を覚ますたびにその思考が立ち上がり、、〇〇ちゃんというストーリーが展開するのです。PCを立ち上げた時に勝手に起動しちゃうソフトってありますよね、、それです!!!

顔なしお化けの〇〇ちゃんストーリー

この顔はこの世界では全く確認することはできません、鏡を見た時にだけ、、鏡の中で現象化するだけです。つまり我々は完全な顔なしお化けなのです。にも関わらず毎日毎日お店に行けば店員さんが話しかけてくる、、これってクレイジーなんです、どうかんがえても狂ってるんです。ですがこの私ストーリーでは最重要ポイントです。これで全員騙されるんです、この体の存在、この私の存在があるって。全体はどうやらこの体という現象を使ってこれ(人生ストーリー)をやりたいようです。

会話のトリック

今私の体が存在しないのに

会話って最大最強のトリックなんです。例えばあなたが道を歩いている際に、、向こうから友人から声をかけられる、、「鈴木さん、お久しぶり!!!」です。これって当たり前、常識、普遍的原理ですよね?????残念!!!!!これトリックです。道を歩いている時「私の顔」が見えていますか????見えていませんよね!!!つまりこの世界に私の顔は現象化していないのです。ところが友人が声をかけてくるということはおかしい、完全におかしい、、となります。これ多くの人は死ぬまで騙され続けるトリックです。

三人での会話

友人A友人Bとの楽しい会話、、会話中「鈴木さんは最近どう??」と話かけてくるAとB、、ですがこの会話中も私の顔って自分で見えていませんよね????つまりこの世界に存在していないんです、この顔は。にも関わらず話しかけてくるって狂っているんです、おかしいんです。どう考えても。つまりこれも最強のトリックです、イリュージョンです、マジックです。

何のために話しかけてくるのか?????

ではなんのために顔なしお化けに友人たちは話しかけてくるのでしょうか???それはこの体の中には私が居るという観念が反映されたからです。だから話しかけてきたのです、幻影が。この体は常に常にこの世界に存在しこの体には顔がしっかりと出現していると確信しているから、、それを証明する反映が起こったのです、幻想として。