背景に見栄も見栄えもない

背景とは全部、神

我々は背景です、背景の中の体の画像は一部です。そのたった一部を自分自身と思い込むという逆をお互いの画像同士で行うことで、、ギャグのつもりが真実と思われるほどに深刻化したのがこの人間ゲームです。背景同士のコミュニケーションが人物(画像)同士のコミュニケーションになり緊張と分離感に臨場感が半端ない状態になりました。私はこの体であるという錯覚は世界に緊張感を生み出し、、その緊張感が苦しいからお酒を飲み、食事を食べ、ギャンブル異性に狂い、この緊張を忘れようとします。もしくは自分がちっぽけな存在であるという錯覚が、大きく見せようという衝動になり高級車、高級マンション、高級アクセサリーと身を固めていきます。

ほとんどの時間は、、、

人間活動のほとんどの時間は実はこの緊張の緩和、もしくは自身を大きくめるために行われています。事実世の中で一番大きなお金が流れるのは美容や不動産、株、ファッション、インテイリアなどでしょう。本当に必要な電気水道ガス、食費などは実はもうお金の流れのメインではないのです。ですから自身が実は背景であるという気づきは人間活動の多くを断捨離できます。そして真の安らぎ(背景)の中で本当にやりたいことをやれるようになるのです。

私たちはただ背景(真の安心)を求めていた

私たちが本当に求めていたのは緊張の緩和や大きく見せようではなく、、、真の安らぎです。事実幼稚園児で見栄っ張り、マッサージ狂いはいないのです。それは知能が弱いからではなく人物ではなく背景としての活動をしているからです。まだこの体を自分自身であるとする感覚が薄いがために背景の感覚が残っているのです、ですから将来不安も過度なマッサージも全く要らないのです。

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