この人はこの体を「私」と思っているのか

背景としての自覚

背景としての自覚が出てきますと、、、この体を「私」と勘違いして話かけてくる人々を面白く感じるようになります。こちらはこの体が見えませんので背景として会話ができるのですが相手(画像)はこの体の中の私に向かって話しかけてきますから話が微妙にすれ違うのです。そのすれ違いは相手の反応でも見て取れますからそれが『面白い』となるのです。

所詮は背景の一部だが

これは本当に面白いのですが、、相手は背景の一部でしかありません、ですがその反応は間違いなく背景から起こっているのです。勘違いした発言であったとしてもそれも背景から起こっているのです。真の安らぎの中でこの勘違いのコミュニケーションが起こるのです。相手がどれほど勘違いのコミュニケーションをしてこようとそれが真の安らぎの中で起こるので面白いのです。

神が話しかけてくる

自身がこの体ではなく背景であるという自覚が芽生えてきますと、、真の安らぎの中に居ることができるようになります。同時に背景中の相手(画像)から話しかけられた時、、それも背景からの声かけであることを見抜けるのです。画像を通じて背景がこの私(背景)に話しかけてくるわけです。これは神と神の話し合いなのです。そして我々は最初から神と神の話し合いしかしたことがなかったことも分かります。その時これまでの緊張感が伴うコミュニケーションすらもコントだったことが分かるのです。

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