赤ちゃんに戻って経験を整理する

自分がコップを触った、、はない

赤ちゃんに戻って経験を整理します、、、自分がコップを触っている、、、絶対にありえないことです。自分という存在は赤ちゃんには存在しません、そしてコップという存在もありません、、ただ触れたがある、、、触れるという動詞もない、、感覚だけが何かある、、、自分が目の前のバッタを見て触ってみた、、、これも絶対にない、、先ずバッタという存在は赤ちゃんの世界には居ません、、、景色が動いている、、という感覚だけ、、、そしてそれを触る自分という存在も居ません、、そして触ったという動詞もない、、ただ感覚だけがある、、

感覚だけがある、、、

赤ちゃんにとってこの世界はただ感覚だけがある世界、、それだけ、、起きて寝るまで感覚だけが在り続けるだけ、、、そこに名詞も動詞もない、、、感覚だけが確実に在る、、、、名詞の無い世界、動詞のない世界、自分という存在も居ない世界、、、これが本当の世界です。。そこには時間もない、、、ただ揺れ動く現象、生命がある、、あることに気づく存在だけが居る

徐々に名前を覚え、動詞を覚えていく

徐々に名前を覚えていくことで赤ちゃんの視界にそれが独立して登場する、そこに目の焦点が合う、、そしてそれを認識するのが「自分」だと教わる、、、徐々に見える世界が変わっていく、、自分がバッタを触る、、というストーリーが湧き出す、、、気づきの意識しかなかった世界に自分、バッタ、触るが生まれる、、これを繰り返し学んでいくことで自分の人生に多様性が生まれあらゆる自分活動が生じる、、、本当には何もない世界に、、自分劇場が広がっていく、、この自分劇場が苦しいのならば、、、気づきの意識しかなかったことを思い出す、、そこは至福の世界。

名前を付けない限り、、それは存在できない

独立分離した存在を作るためには名前をつける必要がある

人間は一度に二つの物をしっかりと認識することができません、、目の焦点をそこに集中しなければ、、しっかりとしれを認識できないのです。。これが「やかん」だという記憶を作らなければ視界に入ったやかんに焦点が合わないのです、焦点が合わないということはそれはこの視界に存在しないことになります。PCとTVを同時に焦点を合わせることができません、PCに焦点を合わせ、TVに焦点を合わせています。これがPCであるという認識がなければそこに焦点を合わせることができません。

これがエアフォースワンという認識

スニーカー好きはこれがエアフォースワンだと認識したことで、、街を歩くたびにエアフォースワンが登場します、そこに焦点が合います、、、これでこの世界にエアフォースワンが登場します。老人が一日中歩き回ってもエアフォースワンは登場しません、そこに焦点が定まらないからです。名前を覚えない限り実はそれはこの世界に登場できないのです。現象化しないということです。

老婆と若い娘は同時に登場できない

騙し絵で有名な老婆と若い娘の絵画、、、この二人は同時に登場できません、どちらに焦点を合わせるかだけです、、、我々は今全員が同じ景色を見てると思っていますが実は人によって全然違う景色を見ているのです。これがこの現象界の仕掛けです。本当はただ生命が揺れ動き、、そこに名前をつけることで独立区別された存在が登場しています。この仕掛けを見抜くことで生命の現れしかないことに気づくことが悟りです。

気づきの存在は気づきの存在であるために努力を必要としない

気づきの存在であることの安心感

全ては気づきの意識の中で起こっています、この自分という感覚も、、音も光も、会話の全ても、、気づきの存在の中で起きています、、、この事実に気づくことの大切なことはもう努力がいらないということです、自らが気づきの存在、全体であるという気づきに至った時、、ここからさらに努力して何かになる必要がなくなります。我々は個人として生きてきたので、、、努力を必要としてきました、、今が苦しいから、、努力して、、、明るい未来を手に入れようとしてきました、、ですが気づきの意識そのものであるという気づきが起きるともう努力のしようがないわけです。

自分の存在、思考が起きていなくても、、、

自分が居るという感覚がなくても、思考がなくても、、、ただ気づきの意識だけは確実に在ります、、、何かに没頭していても、、没頭していなくてもそれに気づく、気づきの意識があります。我々はこの気づきの意識なのです、、、それ以外であるわけがないのです。この気づきの意識の中に一時的に自分をこしらえただけ、、こしらえていない時もそれに気づく気づきの意識、、、

徹底的に気づきの意識になって起こりを楽しむ

私は気づきの意識だ、、この意識が芽生えてもそれでも自分は登場しますし、、友人も、仕事仲間も、、みんなこの気づきの意識の中で登場します、、それをただ気づきの意識として楽しみます。この体から出てくる思考、行動を楽しみます、、友人の体からでてくる言動を楽しみます、、、安心の場所で事の起こりを楽しむです。

言語を覚える前から気づきは確実にあった

自分など存在する前から気づきがあった

言葉を覚え、この体を自分と記憶するまえから、、、ずっと気づきの意識はありました、光を感じ、空腹を感じ、気温を感じる感覚は確実にありました、、、これが気づきの意識です。。。我々は恐らくこの気づきの意識の中にずっといます、、、この気づきの意識が無くなることは絶対にない、、、熟睡中もこの気づきの意識の中に居る、、、ただその記憶がないだけ、、、起きている最中は必ずあり、熟睡中もある、、、記憶があるかないかの違いだけです。

常に気づいている

この私が怒っている、、、これに気づいているのは気づきの意識です、、この私が幸福を感じている、、こレに気づくのは気づきの意識です。気づきの意識その外に我々は出たことがありません、常に気づきの意識の中で存在しています。だから全部気づけるのです。思考を覚えるはるか前から気づきの意識は確実にあり、、ただそれを記憶していないだけです、、

孤独感はこの気づきの意識の存在を忘れているだけ

孤独感とはこの気づきの意識の存在を忘れ自我に没頭している時に起きます、、あれたった一人しかここに居ない、、こうなります。違います、、、気づきの意識の中に全てが在ります、起き上がっています、、全ての経験は気づきの意識を通じて起きており、これは人といようが居まいとと同じことです。気づきの意識の感覚をもっていれば孤独感が湧いてきにくくなります。なぜならばそこは絶対的安心の場所だからです。

計画は人間を能動的な存在であるという錯覚を強化する

計画をしっかり立てて

人間という存在をしっかりと理解しますと計画はあまり意味がないことが分かります、、ただその体を通じて言動が起きていますから、、明日から二週間後まで予定をビッシリ埋める、、というのはこの人間のメカニズムに反しています。その瞬間瞬間やりたい衝動は異なるので、、予定でこの体をしっかりと縛りつければ苦しくなるはずなのです。ですが自我はそうは言いません、予定をしっかりと立て時間を無駄使いしないようにしよう。

計画は計画、、、この割り切りができるか

計画を立てようが全体から起こりますから計画を立てることが悪いのでは断じてありません、、ですがその瞬間瞬間にこの体を通じて衝動が起こるので計画通りにその衝動が起きるとは限らないのです。ですからあくまで計画は計画、、そしてそれを遂行するか否かはその日次第、、、こんな緩い感覚が事実に合っています。

そんなことでは仕事ができないのでは???

違います、、そんなことを今までもやってきたのです、、、この体には自由意志はなく、、、ただ起こるが起きていたのです。。この事実をしっかりと認めましょうという話です。さも自由意志がこの個人の中にあるかのような発想を持つと、、それだけで苦しくなりますよ、、という話です。ただ言動が全体から起こり続ける、、、この事実をしっかりと理解して計画を立てるのは問題が起きません。

無我make自我

無我が自我を起こした

無我が自我を起こしました、、、無我から自我は起きたのです、、、無我は至福、自我は苦しみです、、至福が苦しみをこしらえたのです、、そしてそれを感じるのは無我です。自我の完全活動中は無我は自我に成り切ります、、自我を意識するのではなく自我そのものになるのです無我が、、、この状態になって初めて苦しいが湧きます、、、そうしたら自我を観察する無我に戻るのです、、、自我の活動、思考、言動は完全に無我からただ湧いていることを把握します、、自我の活動を無我の活動であると意識します、、、これで無我に戻ります。自我を観察する無我になります。無我=自我から自我を見守る無我そのものになります。

私はこの体の中に存在する者である

私はこの体の中に存在し自由意志を発揮する者である、、、これが自我ですが、、、この言葉は一体どこから生まれたのでしょうか、、、この言葉がどこかから生まれなければこの自我は存在しません、、、どこから???無我からこの言葉がただ起きたのです、、このプログラム言語がただ無我から起きました、、、無我がこの言葉に成り切る、意識を集中しすぎると、、、苦しみが湧き上がります。無我=自我ではないからです。自我とはただの言語であり、、無我の一部でしかありません。

無我から起こった自我

自我は無我からただぽこっと起きた言語です、、この言語に無我の意識が向くと、、、このファンタイジーの世界が湧き起こります。そのファンタジーの世界は苦しいので、、、ファンタジーの世界の中で、、パチンコ、お酒、異性、食事、などを使って無我に帰ることをします。熟睡は完全なる無我、、、ゲーム熱中も無我、、仕事集中も無我、、です。そしてこれらは自身が実は自我ではなく無我であることを教えてくれるヒントです、無我から湧き出した。

無我を取り込む自我に無我が気づく

何かに集中して結果を出した

何かに集中し結果が出た時に、、これを上手くつかってやろうとする自我がむくっと起き出し、、この功績をフル活用しようとします。。。無我夢中になって何かしらの結果を出した時に、、、せっかく結果が出たのだから、、これで誰かにアピールしてやろうとする自我がシャシャリでてきます。この自我の動きに我々は意識的になれません、、、ですが今回これを意識することでこのカラクリを見抜くが起きます。

無我夢中になってサッカーボールを蹴っていたら、、、

無我夢中になってサッカーボールを蹴っていたら、、クラスの人気者になった、、、すると自我がムクっと起き出し、、これを自分功績にします、、、そしてこのクラスの人気者立ち位置を維持しよう、、人気があるのだからもっとこれをしてやろう、、、人気を利用して何かしてやろうと、、、自我は損得感情、算盤を弾くのです。ですがこれにって獲れる損得があっても至福感は全く無い、、なぜならばそこには無我が居ないからです。ですがこの事実をさらに観察する存在(無我)に気づきますと、、、無意識の自我活動は消え去ります、、、

自我の積極的活動は観察する無我の存在があると両立しない

自我の暴利、自我の無意識化の行動、、、これらは無我による観察を嫌います。無我が自我を観察すれば自我の活動は急速に衰えていきます、、、無我による自我の観察に意識が向けられることで、、強烈に自我を意識した行動が起きないのです。自我への無意識の集中から解放され、、自我を観察する無我に意識が向けられます。無我に意識を向けるということはそのままで至福ということです。自我に完全集中するとただ苦しいが湧いてきます。自我そのものではなく自我を観察する者(無我)になるのです。

抽象度を上げていくということ

上から見渡してみたら、、、

抽象度を上げるとは、、、この世界を上から眺めることで、、、実際には何が起きているかを知ることです。例えば我々は今住んでいる環境を上から眺めたことはないでしょう、、上から航空地図で眺めたらビックリ、、え、、こんな近くにこのお店が、、、え、、、こんな近くに、、あの人が、、、と必ず気づきが起きます。抽象度を上げるとはそういうこと、、、この名前が付きまくった現象の世界を全く違う概念でもう一度見直します。

最終的に全部を見渡す、、

悟りとはつまりこの現象界を完全に理解することです、、この現象界に取り込まれず、、ただそのままにこれを理解することです、、、あらゆる独立した風に見える物事は実は名前がないということ、、この体の中に自分が居ると思っているが、、これが事実ではないこと、、、ただ経験だけがあること、、、この時間は実は存在せず、、、記憶されたデータに過ぎないこと、、、

全部見えたら何もなかった

全部をしっかりと眺めていきますと、、、まさかの何もないという事実が突き刺さってきます、、、あれ、、、色々視界には写っているけど、、、これ映っているだけだぞ、、、この体はあらゆる経験を五感を通じてしているが、、、この体の存在は証明できないぞ、、ただ経験だけがあるぞ、、、え、、、何もないではないか???本当は経験しかなく、、、その経験に気づく存在しかいない、、、私はこの気づく存在なのか???それしかない、、

反省も、、、執着

いつも反省ばかりしている、、、

いつも反省ばかりしていて、、、人生が苦しい、、、なかなか自分の思い通りに行動できなくて、、、それで反省ばかりしている、、、、ここには大きな勘違いがあります、、、「自分で決めて動くことなど全体にできない」ということです、、我々は全部全体からの起こりをこの体を通じて表現しているだけです、見かけ上。反省するということはハッキリと「自由意思」があると信じ切っています、ですがありません「自由意思」は、、そしてこの体の中に居るはずの「自分」も居ません、本当は。ですから「自分の言動を反省する」というのは不可能なのです。

自我は反省すらも自我存続の道具にする

反省は自我の延命戦略です、、、反省のするのは誰か『自分』です。。自分を強烈に意識する行為「反省」です、、、大いなる意識が「自分」を意識するのです、、反省によって、、、すると自分は延命されます、、、、毎日毎日反省して、、大いなる意識に「自分」を意識させるのです。これが反省できなくなるとどうでしょう、、大いなる意識は「自分」を意識できません、、、自分が途端に居なくなってしまいます。

こんなことしちゃって、、あんなことしちゃって、、、

相談では無い、、、友人に「私こんなことしちゃって、、、あんなことしちゃって、、、困っている」これぞ相談風自我存続メソッドです、、、こんなことをしたのは誰、、あんなことをしたのは誰、、、、「自分」です、、、他人を使って自分を強烈に意識できます、、大いなる意識が、、、この自分を意識します、、、、はい、自分延命完了です、、、、いや「あなたは居ないよ」こんな回答を受けようものならば、、、怒り出して「私」は帰るでしょう。ここに色々な真実が隠れています。

あれ、、時間なんてあるわけがない、、、

今時間は絶対に存在しない

時間というのは今を記憶し、それを繋ぎ続けることで発生します、便宜上、、、時間を誰も時間を見たことがある人が居ないのは存在しないからです。今というこの瞬間、生命の現れ、、、ここには経験しか実は存在しません、、今画像が在る、、今音が在る、、今味覚がある、、今食感がある、、今触感がある、、今匂いがある、、、これだけです、、この体は、、、その画像が在るのみです、、ですからどこを探しても時間はないのです、、ただ経験だけがあります、、、これも見かけ上の脳が記憶し、、時間があるというアイデアが湧きました。

時間に取り込まれるデメリット

時間に取り込まれていくのはこの自分です、この自分が時間の中に取り込まれていきます、、時間は自分に依存し、自分は時間に依存します、共依存です、、、幻の存在同士が共依存で生き残ろうとするが全体から起きます。覚者は悟り、、時間がないことを見抜きます、、自我の終焉には重要なことです、、この自分がこの時間の中で何かをしなくてはならない、、、これが苦しみを作り出す強固なシステムです。

便宜上の時間に至福を邪魔させない

時間とは便宜上のものです、、この時間に取り込まれていきますと、、、至福感が消えていきます、、時間に追われるのはいつだってこの自分だからです。時間がない、時間が足りない、、、それは「自分」、、、だから苦しい、、忙しい、忙しい、、、忙しいのは誰??自分です、、、だから苦しい、、、時間はこの自分をストーリーの中に埋没させます、、時間というアイデアが、、自分を自分劇場に埋没させるのです、、だから覚者は何度も「時間なんてないんですよ」「今この瞬間しかないんですよ」を言います。。。