自分の存在を全く疑わない現代人

自我を作るのに三年がかりにも関わらず

生まれてきた子供に三年がかりで自我を形成させる、、自分という存在を認識させるにも関わらず、、我々はこの自我が絶対的な存在、実在だといつの間にか信じ切っています。。おかしい、、、元々そんなものは絶対に無いことを両親は知っています、、、なぜこの後天的存在に全権力を持たせるのか????自我の形成に伴って湧いてくる思考、、行動も一緒にして「その人の言動」となっていきます、そしてそれを赤の他人から評価される、さらにこの自分も人を評価する、、、

自我を否定すると、、、拒絶反応???うそやん

三年がかりで自我を形成しといて、、、あとでそんものは無いんですよ、、、と言われると、、拒絶反応が起きる、、、何かがおかしい、、、、この拒絶反応は、、、、無いことを知っている、、実は分かっている、、確信犯の反応、、、そうです、、、確信犯なのです、、、誰が、、、全体です。全体から起きた架空の存在「私」は架空ゆえにその存在を否定されると、、、激情が起きます。

架空の存在であることを知っている全体

全体からこの自我は湧き出しています、、そしてその架空の存在を起こし続けています、、、そしてこの存在を起こし続けるのは苦しいのです、、、ですから全体は苦しいに気づき続けている、、、、だがここで「自我ってないよね」という発言が起こると、、、「パニック」が全体か起きます。鼻を触り続ける友人に、、さっきから鼻を1時間触っているよ、、と言えばパニックが起こる、、、自我の存在を否定されると「パニック」がす自然現象として起きるのです。

自我がなくても何も問題なく毎日が進む

もともと存在していなかった自我、、ですからこの存在を無視しても何も問題は起きません、、、そしてそもそも自分が自由意志で言動を決めていたというこの不文律が実は幻想であったという気づきが起きますと、、、さらに問題が起きず進んでいきます、、、いや、、、自分が居ないが腹落ちすると、、、この人生そのものが消えてなくなり、、、ただこれがある、、に変わる、、ただ経験だけがあるに変わる、、、何もない、、、全部が現象、、、空足是色、色即是空が腹落ちします、、腹は幻想ですが、、、

名前など何もついていない

つい騙される、、名前のマジック

この現象界に最初から名前がついている物など存在しません、、名前は後から暫定的に付けられたものであって、、この事実にしっかりと向き合うと、、、この見える世界には何も存在していないことがはっきりと分かります、、、あらゆる独立した物、人間は存在せず、、この体、この自分も勿論暫定的、便宜上付けられたものだという自覚が起こります。本当は何もないのです、、、にも関わらずしっかりと確実にそれが存在するという認識が便宜上起こり我々は人生を送っているのです、、、そりゃ苦しいのです。

本当に本当に不思議な現象

名前など一切無いにも関わらず、、、、なぜ我々はこの世界に完全独立した存在を信じるのでしょうか、、、名前さえついていなければそんな物は無いのです。。。例えば私の観葉植物、、、観葉植物は、、ここからここまでが観葉植物という決まりなどあるわけがない、、、人間が便宜上、、、そこから切り取り、、、そうしました、、ですが思考の中でしっかりと完全独立した存在になっています。

親から生まれた子は完全独立した存在

お腹から生まれ出た瞬間、、、親と子供は完全独立した別々の存在のになりました、、、ですがこれも本当はおかしなことで、、、、臍嚢で繋がっている時は同じ生命、、臍嚢をちょんぎったら全く別の別人格の存在になる、、、いや、、それはおかしい、、、便宜上違う存在とするなら分かる、、、ですがこの人間社会では、、、全く別人格な独立した存在として扱います。そしてなぜかその中に「自分」という存在がいつまにか登場し、、普通にそれを認識するのです。そうです、、自分とは後天的に便宜上、登場したのです。

よく考えたら自分など存在するわけがない

よく考えてみれば直ぐ分かる話、、、母親の子宮の中ではっきりとした別人格が最初からあったならば。自分の存在は信憑性があります、、ですが、、臍嚢をちょん切り、、、そこから何年か後に自我が形成される、、、いやいや、、絶対に後天的、、、絶対に便宜上形成されたものでしょう、、、、にも関わらず我々はいつの間にか絶対的な存在として自我を扱うのです、、あの人はこんな人だ、、、あの人はああいう人、、、いやいや、、、絶対に後天的、便宜上の存在やん、、、

悟りに興味が出るだけ奇跡

悟りに興味は起きない

見かけ上の私は、、とんでもない好奇心旺盛な人間で、、興味の湧くことは片っ端から極めていこうとしました、、幼少期は動物、昆虫遊び、、小学生になるとTVゲーム、、中学は受験勉強、、高校はスポーツ、大学は異性関係、就職後は自己実現、、一直線にそれを満たしていきたい、、そう思う人間でした、、、就職後にどうしても仕事が合わず、、かつ次にやりたいこともない、、、ここで八方塞がりに突入しました。この八方塞がりは見かけ上の私の人生史上最大の壁になり、、さすがに現実から逃げたいという欲求が渦まきました、、、結果仏教、善の悟り関連のメッセージに自然と救いを求めるが起きたのです。

趣味は徹底した、努力も徹底した

自己実現の壁に出会った時に、、、なかば諦めの境地が来ました、、、もしかしたら今回は不可能かもしれない、、何もやりたいことがない、、、、参った、、、その時に染み渡ったメッセージが釈迦、禅などの悟りメッセージだったのです、、ですがこの時は本当の意味など分かるわけがなく、、、ただそこに真実があることだけは分かっていました、、。最後はここに行けばいいのだという、、、

自由意志を手放すには

自由意志を手放すのは怖いものです、、、なぜならば自由意志でこの人生は守られていると本気で信じているからです。ですからこれは完全な人体実験が必要になります、、、何も考えず、、何も計画を立てず、、生きてみよう、、、やってみよう、、、すると不思議何も問題なく行動が起きるのです、、、何も準備なくしっかりと行動が起きます、、、え???本当だっ、、、という気づきが起きます。

悟りとは完全な諦め

サレンダーの本当の意味

サレンダー、諦め、、、悟りを学べばこれらの言葉は直ぐに登場してきますが、、、なかなかこれらの言葉の意味が分からない、、、それもそのはず、、、自我はこれらの理解を大変嫌がります。なぜならばこの諦めとは自我が完全に無意味であることの理解だからです。川の流れのように我々の行動は自分では全く決めることができないこと、、自分という存在が何かしらの経験を積んでいるというのが真っ赤な嘘であるということ、幻想であるということ、、、これを腹落ちさせることは、、自我にとっては諦めです。

そんなことはない、、、の猛反撃

普通に生きていたらこれはもう分かるわけがない、、、、この体の中に自分が居て自由意志でこの人生を切り開く、、、これはもう完璧な洗脳なのですが、、、これを見抜くのは容易なことではないのです。なぜならばあまりにもリアリティがあるから、、、あまりに実感があるからです。。ですが覚者の気づきをしっかりと学んでいきますと、、確かにこれは、、、錯覚であることが腹落ちしていきます。

1万回聞いても理解が起きない

内容はとんでもなくシンプルなのです、、ですが理解が起きないのです、、、理解が起きないから、、直ぐに日常に取り込まれてしまう、、自由意志をフル発揮しようが湧いてきてしまう、、、この繰り返しです、、、今経験しかない、、、この体が在るは錯覚、、、だから今しかない、、、、時間はない、、、これも直ぐに日常に取り込まれ時間を気にする毎日、、、、この繰り返しです。。

ある時ふと、、、腹落ちが起きる

ある時にふと腹落ちが起きます、、、あれ、、なんか分かった、、、本当に自由意志ってないよね、、、本当に経験しかないよね、、、本当にこの体の中に自分が居るって錯覚だよね、、本当に気づきだけがいつもあるしいままでも在ったよね、、、突然の腹落ちが起き始めます、、

自分が自由になることはできない

自分が居ないという気づきこそが自由

自分は自由を求めます、、、自由最高、、、ですが自分は自由になれない、、なぜか?この自分こそが自由を制限する存在だからです。自由とはなすがまま、、ですがこの自分は常に損得感情で生きる存在ですからなすがままと正反対の存在なのです。自由を憧れる自分こそがこの自由を遠ざける存在なのです。自分を大切にすればするほどに自由が遠ざかっていきます。

自分を自覚しながら自由になれない

自由最高、、それは本当です、、、ですが自分が自由になるはできない、、、この自分という世界と自らを分けた存在こそが全体(自由)を遠ざける存在そのものなのです。アメリカは自由、違います、、、この個人こそが自由を遠ざけているのです。自由とはなすがまま、ありのまま、自然無為、現象そのもの、、その中に自分をこしらえることで、、現象界に判断、分別を作り上げ自由がなくなるのです。

自分が自由になるのではない

本当の自由とは自分が自由になるのではなく、、自分が存在せず、、ただ全体の揺らぎだけがあることを悟ることです、自分が自由を獲得するのではなく、、、自由しか無かったことを悟ることです、、、個人が自由に憧れるのは、、、そもそも自由、全体、現象しかなかったからです、、、そこに自分をこしらえることで(これも自由)この体に自分が閉じ込められ自由への渇望が生まれたのです。

悟りとは教えではない

教えという時点で個人が出現する

師弟関係、、これは教える存在と教えをこう存在を生み出します。。ですが悟りにかんしては教える存在、教えを乞う存在の二者を全否定します、え????教えてもらえない????そうです、、教えてもらう自分が居ないというメッセージこそが悟りです。ですから悟りを自己啓発の延長線上に捉えると混乱します、全否定されるのです。

じゃあ、、悟りはどう学べばいいのか???

メッセージを淡々と理解していきます、、教えてもらうべき人も居ず、教えてもらう自分も居ないという滅茶苦茶な状況でことが進むわけです。これまでは教えを請う自分が確実に居ました、、、ですが悟りではこの自分が居ないというメッセージなのです。混乱しますよね、、、そうです、、この混乱こそが最重要、この混乱こそが価値があるのです、、この混乱に価値を置ける時に悟りが起きます。

悟りとは自分が居ないという事実を受け入れるということ

世の中の情報のほぼ全てはこの自分にとって重要か、重要じゃないかだけでしょう、、、ですが悟りはその情報を受ける自分が居ないというメッセージです。ベクトルが180度違うんですね、、でも空気を読まずにそれだけを発信するのが覚者です、、、事実に気づいちゃった以上それ以外できない、、、それが本音です。見かけ上の私もそれ以外したくない、、事実以外伝えたくないが今起きています。

あの人はあれさえしなければ、、、

清原元選手は覚醒剤さえ手を出さなければ、、、

違います、、、全体から清原選手を通じて覚醒剤に手を出すが起きたのです、、、これ以外の事実は起きようが無かったのです、、、清原選手はこれを酷く後悔し、、、違います、、、後悔できる自分など居ないのです。ただそれが起こりました、、そしてそれを後悔するが起きたのです、、、どれほど後悔しようと、、、先に何が起きるかは全く分からないのです。これが事実です。

彼の失敗で周囲が学ぶ????

彼の失敗で周囲は学んだ、、絶対に手を出してはいけない、、、全部を失ってしまう、、、この事件でどれほどの学ぶが起きようと、、、全体から起こりをコントロールできる自分は絶対に居ないのです。ただ事の起こりを観察するしかありません、観察者、傍観者になるしかありません、、、そんな無責任な人生ありますか???それは分別ある大人の発言ですか????違います、、、観察者、傍観者になってしまうと至福が包み込んでくるのです、、、当事者のポジションを諦めるとただそれだけで至福なのです。

当事者意識の欠落

当事者は辛い、、当事者の座を諦めるまでは、、、当事者はしんどいのです、、、当事者は成功しても苦しいのです、、成功しても苦しいならば当事者であるメリットってあるんですか???ありません、、、このことに気づく以外は。そうです、当事者の場から降りてしまうのです、、そして全ての事の起こりを見守る傍観者に戻るのです、、気づきの意識、全体の意識、神の意識に戻るのです。そこに至福があります。

至福(事実)から逃げることができる自我はいない

自我の苦しみ劇場はどこかで必ず終わる

自我の苦しみ劇場はどこかで終わります、、なぜならばこの劇場は至福(全体)の中で起きているからです。至福というスクリーンの中でこの劇場が起きているだけですから劇の最中もちょいちょいこの至福(事実)が顔をだすわけです、、何しろこの自分をこの自分ストーリーに埋没させ続けるのも至難の技だからです。不意に自分を忘れたら最後、至福に飲み込まれてしまうのです。

地獄に落ちることはできない、至福に落ちる

我々の劇場中に足を滑らせて舞台から転げ落ちる、、、至福がそれを救う、、、舞台から偶然落ちてしまったら、、至福がこれを救う、、、、火事になってしまった、、、、無我夢中で火事場を駆け抜けている時、、、何??この至福感は????母親が急病で入院、、、無我夢中になって実家に戻っている、、、あれ??なんか至福に包まれている、、、、そうです、、、大ピンチは大無我、大至福なのです。。。

常に至福に落ちる旅を歩んでいる

安全だと思っていたこの旅よりも旅から転げ落ちた先が至福だった、、、これが分かってきますともうそれほど怖さがなくなってきます、、、一生懸命旅を失敗しないように努めていたのに、、、失敗した時の方がしふくじゃねえか、、、安全第一の歩みの方がはるかに苦しい、、、、そうです、、、「自分」が安全を確保しながら慎重に歩んでいる時が一番苦しいのです、、、自分がでしゃばっています。苦しみと至福の逆転現象、、これを肌感覚で分かると楽になります。

彼が浮気しても、、、

ただそれが全体から起こった

彼が浮気したとしても、、ただそれが全体から起きました、、、それが事実です、、あの時に私が何かをしてしまったからか???もっと大切にしていれば、、、、あらゆる思考がそれでも湧くでしょう、、、事実は全体からそれが起こっただけです、、、因果関係は人間が理解できるようなシンプルなことではありません。この事実に向き合うしかありません、、、すると悲しみ続けることができない、、、

別れる別れないもただ起こる

別れるべきか、、別れないべきか、、、、三日三晩考え続けるでしょう、、、ですが事実はその判断すらも全体から起きます、、、二度と顔も見たくないが、、起きるかもしれない、、、今回は許そうが起きるかもしれない、、、これも全体からただ起きます、、、「決めるのは私でしょ」違います、、、決めることができる自分が居ないのです、、これも事実です。

彼の浮気に私は無力なのか????

見かけ上の私の言動が浮気に関係することも当然あるでしょう、、、見かけ上の私が仕事が忙しすぎることが影響するかもしれません、、、ですがその仕事が忙しいという事実は全体から起きているのです、、、そこをコントロールできる自分が居ないのです。ただ起こりを観賞するしか我々には選択肢がないのです、、、そして観賞する存在になることを諦めた時に突然至福に包まれます。これを追い求めて今までがあったという気づきが起こります。

コンサートに夢中になって行くのは自分を忘れるため

目の前のアイドルに自分を奪ってもらう

コンサートに熱狂的になって行く人はアイドルに自分を奪ってもらいに行くのです。その瞬間好きなアイドルしか見えなくなり、、自分が消滅します、、、自我が消え去り、無我に入り至福に包まれるのです、至福そのものになるのです。そしてアイドルは目の前の熱狂的なファンを喜ばせようと、、自分を忘れ去り、無我に入ります。至福の共演です。

ファンの興奮を永続させる

ジャニーズ事務所がなぜ凄いのか????ファンの期待を裏切らない、、、ファンの心を奪ってあげることに忠実なのです、、定期的にコンサートを必ず開き、定期的に音楽を発表する、、定期的にファンミーティングを開き、定期的にドラマで主演をする、、、、こうやってファンの心を奪い続けてくれるのです。

そうか、、、無我になればいつでも至福に入れるのか???

ですがどこかで人に頼って無我に入ることを諦めなくてはならなくなります、、、なぜならばその興奮が永続するとは限らないからです、、無我に入る対象を仕事に変えればその場で無我に入れます、、もしくはこの事実を徹底的に理解し、、、思考の観察者(無我)になってしまう、、、アイドルに夢中になった状態を覚え、、何にでも集中することで毎日無我に入るトレーニングになります。