思考が全開になるのはもっと良い方法があるのでは??と思考するから

絶対に損をしなくない、、、

一円でも安く買い物をしなくては。。。。あそこのスーパーでは2割引だった、、、だから絶対にそれよりも高くは買わない、、なぜならば損をしたくないから、、、これが思考の特徴です。絶対に損をしない、、、個人に「成り切った」全体はその時点で大変苦しい、、だから思考はこの苦しい「個人」を得をさせるために起き続けます、、思考が悪いのではなく、、、、思考とはそのようなエネルギーであるということです。

全体に触れる習慣が

無我になる習慣がある人は、、、この損得に興味が無くなります、、、だって損得より無我、全体が断然気持ちが良いからです、、、、損得に興味が起こる=自我全開、、、無我に興味が起こる=自我の終焉です。でもそんなことをしたら個人は生きていけないのでは、、、、、違います、、、、無我に入れば至福ですからそこには何も要らないのです。無我になるのにお金が一円もかからないのです。

無我に入れば入るほど、、、何も要らない

来週は旅行に行こう、来週あれを買おう、来週友人と花見に、、、こうやってスケジュールを埋めたがる人は、、、この個人にいかに喜びを与えるかに必死になっています。この個人は今苦しいから、、、ご褒美を与えてあげているのです。。ですがこの方法を続けるのが苦しい、なぜならば、、、それでは一時しか幸福になれないから、、、

このブログの意味

このブログでは、、、自我がどういうメカニズムで苦しみをこしらえているか詳細を記載しています。何度も自我のメカニズム、全体のメカニズムに触れますと、、、自我の自動反応に対し、冷静になる全体の姿が湧いてきます。「鼻を触る癖があるよ」これを言われた人はその後鼻を触る回数が減ります、少なくとも増えることはない、、なぜならば、、冷静に見つめの自分が誕生するからです。これと全く同じです。

判断を間違えることはできない

全体からの起こりにミスはない

お昼のワイドショーを観ますと、、、終始が終始、、、起きた事件への判断です、、もっとこうすべきだったのでは、、もっとああすれば良かったのでは、、あの会見はちょっと違う気がする、、、コメンテーター、MC全員で批判、判断を繰り広げます。。。。ですが、、、その事件を起こした張本人は全体であり、、全体からの表現にミスは100%ないのです。

化学反応のようにただ起こった

化学反応、、、これに向きになって何か感情的になる人は居ないでしょう、、水素と酸素を合わせて水を作り出すことに何か感情が入るでしょうか????この世の全ての現象は全く同じプロセスで起こっています、、、ですからもしも人間が事件に対し検討できるならば、、、この事実を把握する必要があるのです。

自分の会社で、、、横領が、、、

こんな厄介な事件が起きた時には、、、人は犯人探しを始めます、、、社長がプレッシャーをかけたからでは、、、株主からの圧が酷かった、、、横領したあの人は両親に恵まれなかった、、、などなど、、、ですがこの事件は全体がこの人を通じてそれを起こしました、、、全因果関係(化学式)は全体です。こうなりますと起こる事件、起こる災難、起こる友人からの相談に深刻になるのは事実を知らないからということになります。

常に全体であることを意識する

主語が全体になると面白い

全体の残滓が残ります、常に全体として生き個人を辞めていると全体の残滓が残っていきます、、熟睡から起きた時、、至福がそこに残っています。それが起きている時に起こるのです、、、個人全開で生きていますと、、分離感、孤独感が漂います、、辛いエネルギーで覆われます。その多くの時間を無我に入り全体そのものになっていますと、、安心感がこみ上げてきます。

入り込むことを大切にする

1日の中で何度も集中します、、何かの作業をする際は集中することを重要視します、、集中できない時は無理をしない、、これを何度も行います、、、、自分という存在を捨てて、、行為に没入します、、、すると全体そのものになります、、、何にも集中できない時も、、全体として観察します、、全体として集中が起きるのを待つのです。

体の硬さを取る

体をストレッチしたり、、全身を動かします、、全身にエネルギーが満ち溢れるように体を動かしていきます、、すると五感が開くことで経験が開いていきます、、、経験を感じているのはまさに全体ですから何もしなくても全体で居られるのです、、、「個人で居る」のは思考です、思考がこれを支えています、つまり思考を落としますと個人では居られなくなるのです。常に体を鋭敏にする癖をつけていきます。

友人からの悪口にすら全体を感じる

全ての発言は全体からの起こり

全発言は全体からの起こりです、、、悪口も称賛の声も、無駄話も、、全部が全部全体からただ起こっています。友人から痛烈な悪口を言われてしまってもその言葉は全体からただ起こりました、、、これが理解できますと会話の一つ一つに全体、神、至福を感じることができます。全体以外から湧く言葉はないからです。

個人にとって有益か否か

この視点に立てば世の中のほとんどの会話には興味が湧かないでしょう、、、なぜならばその会話のほとんどは個人には無益だからです。ですがその会話が全体から起きていることを腹落ちできますとそこから全体を感じます、神のアートを感じます、神そのものがそこに在ります。個人は常にその会話を判断します、つまらない、面白い、と。ですが全部全体のアートです。

老人の戯言のも

朝から晩まで不平不満愚痴を言っている老人のその言葉の全ては全体から起きています、個人と成り切った全体からの叫びです、、そう捉えて観察していきます。個人として生きることがどれほど大変なことか理解できます、ご苦労様、、という気持ちが自然と湧き上がります、、ですがそれも全て現象でありそこを深刻にとる必要はありません。3D映像、五感で感じる蜃気楼です。

悟りとは学問ではない

悟りとは事実そのもの

事実を追及することが悟りです、、、これは学問ではありません。自分が居るというのは思考ですね、、これは事実ではない、、、なぜならば自分を証明することは不可能だからです。悟りとはどこまでいっても事実しか相手にしない、、これが悟りです。

あれがこうかもね、、ああかもね、、、全部思考

あの人はこう考えているに違いない、、、全部思考です、、事実ではない、、、あれが起こったということはこういう裏事情があるのでは???全部思考です、、事実ではない。、、、悟りとは事実だけと向き合うことで、、、この自分という存在が嘘であることを見抜き、、全体の気づきしかないことを見抜くことです。

究極の物理学

私は悟りとは物理学だと思っています、、、この物理現象をしっかりと見つめ、、この物理そのものが現象であることを見抜くことだと思っています。本当にこの物理現象はあるのか???ありません、、現象ですから、、、いやでもしっかりと五感で感じいるけど、、、違います、、五感で感じることで存在を疑わないという現象が起きています。

自分探しの旅とは

自分が居なかった、、

自分探しの旅に出る、、、、決して珍しい話ではありません、、、、何が幸福で何が不幸なのか???何にも分からなくなったから自分探しの旅にでよう、、、、気持ちは本当に分かります、、、ですがその答えが出ることはない、、なぜならば、、自分が居ないから、、、、アベシ、、、本当はいない自分を探す旅ほど辛いことはないのです、、、、

色々な経験をしたら、、、

色々な経験をしたら、、、自分が分かるのでは、、、、残念!!!!色々な経験をする自分が居ないのです、、、経験を積めば積むほどに、、自称自分は、、、大きくなっていきますが、、、実は居ない、、、あらゆる経験を積んでいるのは自分ではなく気づきの意識、意識そのもの、全体です。。。

自分が居ないという気づき、、

あれ、、この自分を無視したような行動をしている方が幸福では???大正解!!!そうです、この自分が居ないのでは???という前提で行動すると楽しいのです、嬉しいのです、至福なのです、、、自分なんかを探すよりも自分なんて居ないと思って気軽に行動のすると至福に囲まれます。なんのこっちゃです。これだけ重視し大切にしてきたこの自分を無視した方が至福に包まれる、、、えらいこっちゃです。

責任など一切ないが、、

それでも責任を取らされる、、

この二元の世界で犯罪を犯せば当然捕まります、、これは事実です。ですが悟りの観点からお伝えすれば、、それも起きただけということになります。その行為がその人を通じて起きました、、、、その行為が法律に触れれば捕まるという現象が起きます、、、これをどう捉えるか、、、、ですがその捉え方自体も全体から起きます。。。

責任感が強い人間が犯罪を、、、

あの人が犯罪を犯すなんて、、あんな人格者が犯罪を、、、ですが事実は、、全体からただそれが起こっただけ、、、そこに意味はないのです、、、、多くの方はそこからあらゆる思考を張って、、、あの人も本当は孤独だったのでは、、、あの人も実は家庭環境が悪かったのでは、、、と詮索しますが、、、、事実はただそれが全体か起こりました、、、

これを悲惨と取るか、、、軽いと取るか、、、

この事実を多くの人はどう捉えていいか分からない、、、、それは悲惨だよね、、、それは冷酷だよね、、、違います、、これが軽いのです、、だって全責任が自分にあるっってめちゃくちゃ重いじゃないですか、、、絶対。分別がある大人にならなくては、、、、ですが事実は全体から淡々と起きます、、、、、これを腹落ちすると本当に楽になるのです、、、だからと言って犯罪を犯していい、、なんて言っていませんよ、、これを全体が起こしているという事実が重要なのです。

I am

私は誰それです。。。

私という存在を絶対的に疑わない理由は、、意識があるからです、、、風邪を感じる、、香りを感じる、、湿気を感じる、、、この意識に対し疑うものは居ないでしょう、、、だからこそこの私がそれを意識しているという勘違いが発生したのです。。。。本当はI amだけ、、、私は居る、、だけです、、、、、私はこの体ではないのです、、私は00坐右衛門ではないのです、、、私は意識そのものです、、、、ただの意識なのです、、、今光を感じ、苦しみを感じ、、楽しいを感じている、、その意識のみの存在なのです。

I am 〇〇から〇〇を取り除くとI amに

悟りとは至って簡単なこと、、、私は00です。から私はです。に変えるだけ、、、、私の存在を疑わないのはこの意識が確実にあることを知っているから、、、意識が今全五感を感じています、、、ただそれだけ、、、感覚を所有する意識そのもの、、経験そのものです。。00から00を削ぎ落とすと、、、感覚だけ、気づきだけが残るのです。

気づきの感覚は本当、私は00は思考

火の光を感じる、、、絶対に嘘はありません、、、ですが私は〇〇○男、、、これは思考です、、事実ではありません、、太陽の熱を感じる、、絶対に嘘はありません、、ですが私は〇〇○男は思考です、、、五感を通じて感じる意識が存在するのは間違いありません、、意識が感じることを所有する〇〇○男は思考ですから幻想です。幻想から、、、〇〇○男を削げば、、、、意識だけが残るのです。

神羅万象とは、、

神羅万象しか無かった、、、

この世界を表現する時に、、、神羅万象という言葉を使います、、、この言葉は本当に核心を突いています。神が万物の形のような姿をしている現象界です。。。本当にその通り、、そのままです。。。そうなると一つだけ問題があります、、それはこの「私」はどうなるのか????ということです。この私は何なのか???というわけです。。。神羅万象が広がることは分かった、、、ではこの私は何ものか????これこそが神羅万象の一部に過ぎません、、、神羅万象以外が存在してしまったらこの世界は神羅万象ではなくなってしまいます。

この私も神羅万象

この私も神羅万象、、、そうです、、この体は神羅万象の一つです、、その証拠にこの体は毎日変わります、体調は毎日変わるし、髪も毎日伸びる、、気分も毎日変わる、、、、これぞ神羅万象でしょう、、、じゃあこの自分というアイデンティティ、人格、自我は何なのか????これも森羅万象です、、、神羅万象の表現です、、、いやいや、、、この思考は自分が独断と偏見で行っていますけど、、、、違います、、その錯覚が起こってるのです、、神羅万象として、、、

神は神が作った神羅万象の中で遊ぶ

この自分もこの世界も神羅万象、、、そしてこの世界の中に自分を作り出し右往左往を起こし遊んでいきます。この自分も当然森羅万象の一部、、この経験も神羅万象です。。。神は神であることに飽きて、、、神以外を作った(神羅万象)、、これは神のアートです、、そしてその中に自分というアートを作り、、この自分人生というアートも作ったのです。主人公は神ですからこの自分人生はしんどいわけです、、だからこの自分は悟り(神帰り)を目指すのです。

大和田菜穂さんについて思うこと

全体がそのまま話をしている

彼女の話す内容を聞いていると、、、全体が全体のまま話をしている感覚を覚えます。人間に成り切ってしまった全体ではなく人間のふりをした全体がただそのまま話をしています。役者はその役に成り切って話をします、、キムタクは毎回その役に成り切って話をするわけですが、、大和田菜穂さんは全体がそのまま役にならずに話をしているような感じです。

全体が全体のままか、、全体が役に成り切っているかの違いだけ

大和田菜穂さんもそれ以外の人も、、、全部全体です、、、その全体が、、役(私)に成り切っているかいないかの違いがあるだけなのです。。。この違いはそれで大きく役に成り切れば、、苦しみが強制的に湧きます、、、役にならずにそのままの姿であれば、、苦しみは湧きません。。。本当にこれだけなのです。ですから大和田菜穂さんからは苦しみを感じない、、、

主語は全員が全体、、、

主語は全体です、、、全体が「〇〇○男」になって人生を生きるか、、、全体がそのまま全体としてただ今を感じるかの違いです。全体が「〇〇○子」になって人生を生きるか、、、、全体がそのまま全体としてただ今を経験するかの違いです。この違いが苦しいか絶対幸福かを決めるのです。。。解脱、悟り、サマディ、ブラフマンとは、、全体が役に没頭していた状態から、、役から降りた状態、全体そのものに返った状態なのです。