もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対、、、、残念!!!

言う言わないは全体が決めます、、、残念!!

もう恋なんてしない、、、、恋愛で疲れ切った女性はそんなことを思うこともあるでしょう、、、残念!!恋をするかしないかは全部全体からの起こりにかかっています、、、恋をすることをできる個人は存在しません。全体から恋愛が起きれば恋愛するが起きます、、しないが起きれば、、、恋愛が起きません。100回大失恋してもまた恋愛が全体から起きればその人はします、、、、、生死をさまようようなDVにあおうとまた恋愛しようが起きるかもしれません、、、

お見合い結婚よりも恋愛結婚の方が理想、、、残念!!!

お見合いよりも恋愛結婚がしたいなー、、、残念!!!その人が誰とどう結婚するかは全部全体が決めます、、、全体がその人を通じてお見合いをするか恋愛をするか決めます、、、そして離婚するかしないかも決めます、、、、その人の人生の流れは川の流れのように全体からの起こりで流されていくのです。Aさんと絶対に結婚したい、、、ところがなぜか直前でBさんと結婚することになった、、、全部全体が作った流れです。

将来は子供三人ぐらいが理想、、、、残念!!!!

将来子供三人ぐらい欲しいなーーー、、これも全体から起こっています、、、そして子供が生まれるかどうかもそのようなことが全体から起こるかどうかです、、、そんなこと言ったって、、、旦那さんとSEXしなければ子供はできないではないか、、、するしないは自分で決めている、、、残念、、、、するしないかは全体からそれが起こるかどうかなのです、、、そうです、個人はどこまでいっても恋愛、結婚に関われない、、さらに出産にも関われないのです。

食べ過ぎちゃった、、、残念!!!

人間に食べ過ぎるなんて力はない

多くの女性の悩み、、、食べ過ぎちゃった、、、残念!!!!食べ過ぎたことなど人生で一度もないのです。食べる量を決めるのは全部全体です。全体が「私」を通じて完璧な量を食べているのです、、、今までの人生で量を誤ったことなど一度もないのです。いやそんなことはない、、今その結果太っている、、、太っているというのは人間の判断思考です。完璧な量を食べて完璧な体型しかこの世には存在しないのです。

じゃあ、、、体型を細くしたいは、、、無駄なのか???

違います、、、体型をスマートにしたいが、、湧いたのです、全体から。。ただしその結果ダイエットをするかしないかは全体が決めます。そしてダイエットをして痩せるか痩せないかも全体が起こすのです。ここに個人は完全非力、無力、非関与です。個人ができることは起きた思考、起きた行動、起きた結果を「自分がやった」という思い込みが起きることだけです、全体から。そういう意味では個人にできることは何も無い、、そしてこれからも何もないのです。

だったら暴飲暴食を繰り返してやる!!!

それならもう食事のことなんて何にも気にせず、、食べたい量をガンガン食べていいんんですね???違います、、ガンガン食べるか、食べないかは全体が起こるのです。ですからガンガン食べるが起これば個人は食べるでしょうし、起きなければ食べません。それを決めることができる個人は居ないのです。個人はただ傍観者になって思考、行動を眺めるだけです。じゃあ、、個人なんて居なくていいではないか????そうです、個人なんて居なくていいんです、、ですが個人を消すか生かすかも全体が決めるのです。

全体生まれ全体育ち、悪そな奴らも全部全体

ここに自分も仲間も居ない

私たちは全員全体からの現れです、そして全体によって育ててもらいました、母親、父親、全部全体の現れです。そして友人も全部全体の現れ、、そしてこの自分という存在も全体の現れです。そうですここには全体の現れしかないのです。どんな悪友も、どんな不良仲間も全部全体の現れです。聖人君子の友人も、思いやりのある友人も全部です。

全部全体なのになぜ自分というバラバラな存在が居るのか???

全部全体ならばなぜ今この状況があるのか???ハッキリと自分という存在を感じているではないか。。。。そうです「感じている」のです。感じているだけで事実ではないのです。。。そんなことはない、、今この腕は俺の自由に動くし、足も動く、、、これが全体ならば、、、理屈が合わないではないか、、、目の前の友人の手を俺は動かすことができないし、、、そうです、、、この体のみを動かせれるから「自分」が居ると錯覚を起こせるのです。もしもこの体を全く自由に動かせなかったら「自分」が居るなど思えないはずです。

この体を通じての思考や動きだけを「自分」が行っているという錯覚が起きている

この体、この体を通じての動きのみを「自分がやっている」という思い込みが全体から起きているのです。これで理屈が整います、、、「自分がやっている」という感覚が全体から起こっているのです。コーヒーを飲んだ、、、これを「自分が飲んだ」という感覚が後から湧いているのです、全体から。それは分かった、だかってこれからどうすればいいのか????何も変わりません、、これからも全体からの動きが起き続けるだけです。ただしそのことが腹落ちしますと、、、自分の行動に悩むということが出来なくなります。

全体からの起こりに全体が判断するという喜劇

昨日は飲み過ぎてしまった、、失敗した、、残念!!

昨日飲み屋であのボトルさえ空けなければ、、、次のもう一軒が余計だった、、、残念!!全ては全体からの起りでからそれ以外の選択肢は一切なかったのです。それ以外の選択肢があったのならば全体以外の存在が居ることになってしまいます。全体は全部だから全体なのです、その全体が下した決断に間違いなどあろうはずがないのです。しかし個人はその決断に対して反省なんかをしちゃったりします、、、残念!!その個人の反省すらも全体から起こっているのです。それでは反省する意味はないのか???全体が下した決断に一切の誤りがないことを腹落ちできると反省が自然と湧いてこなくなります。

では人間は失敗から何も学ばないのか????

今十分に学んでいます、、これまで失敗し、反省してきたというこのメカニズムが一体どういう裏事情で行われてきたかを、、、裏事情というよりも真実、事実がこうなっていて、、それによって失敗、反省が行われてきたことが分かったのです。失敗、反省というこのサイクルを全体が引き起こしていたのです。じゃあ今までそんなことをしてこなければ良かったのに、、、違います、、そのサイクル自体を全体が起こしていたのです。ここに個人は全くもって関与できないのです。

あの時こうしておけば、、、

あの時、あの人と結婚しとけば良かった、、、、違います。。個人に選ぶという力など全く与えられていないのです。個人はただ全体からの起こりに身を委ねるしか選択肢がないのです。選択肢というものは全体が持っているものであって個人には選択肢はないのです。今コーヒーを飲む、、、これですらも全体からの起こりです。今トイレに行こう、、これすら全体からの起こりです。大きな決断をしよう、、それすらも当然全体からの起こりです。

ほどほどの幸せでいい、、?

特に欲しい物ないから、、

悟り世代問という言葉がありますが、、、特に何も欲しい物ないし、、特別何かなりたい職業もない、、別段お金持ちになりたいとも思わない、、といった感覚、、これが今多くの方の正直な気持ちでしょう、、一生懸命頑張ったて、、それに見合うような幸せになれるわけじゃないし、、、その通りです、、、まさに真実、、ですがこの状態も苦しいのです、、ほどほどに執着しているのです、、まーまーに執着しています。

今私は「ほどほどだろうか??」を終日気にする

私は今ほどほどかなー、私は今まーまーかなーこんなことを実は日々気にすることになっていきます。子供がテストで100点を取ると、、、これはまずい、、ほどほどから外れてしまう、、、子供が学校でモテまくるようなイケメンであったならば、、、これはまずい、、ほどほどじゃない、、、こうなるのです。頭で考えるほどほどは、、全然「ほどほどの幸せ」じゃないのです。

本当の悟りは違う

悟りとは「ほどほどでいい」みたいな中途半端な感覚では全くありません。悟りとは全部が自分の所有物であったことを肌感覚で掴むことです、、目の前に居る、秀才もイケメンも、美女も、金持ちも、、全部自分の表現だったということです。この時に目の前で起きる現象にいちいち反応できなくなるのです、、周囲かた大称賛されようが大批判されようが、、、反応できないのです、、だって称賛する周囲も批判する周囲も自分自身、自分の表現、自分の現象そのものですから、、そこから本当のほどほどが生まれます。

全てを意識する存在

もしもこの体が蜃気楼だったら、、

もしもこの体が蜃気楼だったら、、、この景色が見えているのはなぜでしょうか??音楽を聴いているのは誰でしょうか?コーヒーの香りを楽しんでいるのは誰でしょうか???ベーコンを噛み砕く感覚を所有しているのは誰でしょうか??もしもこの体がただの蜃気楼で実在していなかったら、、、、そして事実はこの体は蜃気楼です。そうなるとこの五感の感覚を完璧に捉えているのは誰でしょうか???それが全体、根源、大いなる意識と呼ばれる存在です。

???じゃあ私が全体なのか???

この五感の全てを所有してきたこの自分の体が蜃気楼であることが分かると、、おかしな気持ちになります、、、それでもこの五感は完璧にこれまでの人生あらゆる感覚を掴んできたぞ、、今日も朝朝食でベーコンエッグを食べたが、、香り、味覚、触覚、視覚、全て感じていたぞ、、、、そうです、、これまで自分の体がこれを感じていたと勘違いしてきただけで本当は全部全体が感じていたのです。???ではこの自分は全体なのか??その通りです。全体がこの蜃気楼である体になり切って全体験を所有していたのです。

だから五感を使っている時は全体そのもである

五感経験の所有者は完全に全体ですから、、経験している時は全体になっています、、経験しながら、、自分をやるのは不可能なのです。経験と自分錯覚の同時進行はできません、、、ベーコンエッグを堪能している時全体に戻ります、その時「自分が居る」を忘れます、、、韓流アイドルのコンサート中、、コンサートを堪能しているのは全体です、この時「自分が居る」を全体は辞めます、、大いなる気づき、全体、サムシンググレート、神は、、どこか遠くに居るのではないのです。今この瞬間ここに居ます。

悟りをしっかり閉じる

超現実的な子供はしっかり悟りを閉じる

悟りを開くには悟りを閉じるこが重要です。しっかりと悟りを閉じればしっかりと悟りが開きます。このギャップが最高起爆剤なのです。悟りを閉じるとは究極のリアリスト、超現実的になることです。現実的、、、実が現れるこの世界にどっぷりと浸かることです。現れるこの現象にしっかりと騙されて、、しっかりとこの現象に巻き込まれ、しっかりと七転八倒するのです、八方塞がりを何度も繰り返し、酒池肉林、餓鬼畜生に染まるのです。するとこの現実の世界に中に真実を見ることができるようになります。

現象をしっかりと見つめる

この現象は、、中途半端に見つめてもそれが幻想、3D映像、蜃気楼であることを見抜けません、、しっかりとしっかりとこの現実を眺めるのです。すると、、、事実がボコっと現れます、真実に入っていきます、そこから無我に入り込みます。中途半端のこの現象と向き合ってもそれほど苦しくもないし、それほど辛くもない、、その通りです。大人になってもなんか子供っぽいよね、、ていうのは悟りが閉じ切っていないのです。これでは人生が中途半端になってしまいます、、ぬるま湯での苦しみが続くわけです。

とはいえ全て決まっている

とはいえそれすらも全部川の流れ、決まっています、、どのぐらい苦しむかが決まっていないことが決まっているのです。そこに個人の判断、力は全く関与せず、、全て大元からの川の流れにこの個人は委ねるしかありません。そして強制的に八方塞がりに入り、強制的に七転八倒に入る可能性もある、緩い緩い川の流れになっているかもしれない、、そして最終的には全員が悟りに入ります、なぜならば真実は一つしかなく、、真実に流れ着くしか道は無いからです。

空(0)から色(数字)が現れた

空とは0(零)

この現象界は数字で現せる世界です。りんごが1個、2個、、、人間が1人、2人、、となります、、、そしてこの現象界を起こしている全体(空)はカラという漢字からも分かりますが、、ゼロです、0です。そうですこの世界は零から現れているのです。本当はゼロ、0ですから1、2、3、4は幻想、蜃気楼、空想なのです。その証拠に空をこの現象界で現すとどうなるか、、、1(現象)✖️0(空)=0(空)です。2個(りんご)✖️0(空)=0(空)です。この現象界に空を巻き込めば、、、空になります。空と色は相入れない関係なのです。もしくは1(現象・色)✖️0=0(空)ですから色と空は一つということでもあるでしょう。

本当は0だから、、、

10000円(現象)✖️0(空)=0(空)ということは、、、この現象界でどれほどお金を得ても本当はゼロですよ、、とも取れます、、、本当はゼロだったということを知ることが悟りです。この現象の世界は物に溢れ、数字に溢れ、物質があるように見えてしまいますいからどうしてもこの物質に囚われてしまうのです。私は一時霊的真理探究の旅に出ましたがそれだけでも本当に気持ちが軽くなったのを覚えています。物質しかない、、この認識は完全な誤解であり苦しみを生み出すのです。

魂という概念でどれだけ救われたか

私は魂という概念によって本当に救われました、、、今世(概念)に全く縛られなくなったのです、、それまでどれほどこの今世というものに縛られていたのか、、、です。そして今は前世、今世、来世すら概念に過ぎないことを知っています。概念ですからそれは思考です、幻想です、空想です。事実ではありません。事実は今この場所に全部がある、、今この場所に空(ゼロ)があり色(現象)が全部あります。そこには自分という個別独立した存在は現象以外では居ません。この個人を認識する意識(全体)がただ在るだけです。

分別ある大人とは地獄の状態

分別

分別ある大人になりなさい、あの人は分別ある人だ、、、、分別とは大人としての判断能力があることを意味し、立派な大人、自立した大人、道理をわきまえた大人であることを意味します。ですが真実を伝える立場から言ってしまえばこの状態こそが地獄の状態、苦しみの状態、悟りが完全に閉じた状態です。なぜか???判断こそがこの現象界をファンタジー化し生き辛くするからです。あの人は分別がある、あの人は良識がない、あの人は節度がない、あの人は狂っている、、、こうなります。これは真実からすると全くの見当違いなのです、

その人をその人たらしめているのは、、、

その人の中に何か人格というものがあってその人格がその人を動かしている、、こレが多くの人が認識している人間の姿でしょう、もしくは魂が宿りその魂いがその体を突き動かしていると、、、ですがこれこそが思考。空想、妄想なのです。事実はただ全体からの起こりがあるだけです、現象があるだけです。磨いて磨いて磨きあげる人格、魂は存在しません。これこそが想像、思考です。

そんなことはない江原さんはしっかりと認識している

違います、江原さんという現象が起き、魂が見えるという発言が現象化しているのです。三輪さんという現象が起き魂が存在しいているわよという発言が現象化しているのです。それすらも全体の表現、アート、現象です。何度も伝えますが現象とはかたち(象)が現れると書きます、、現れているのです。そして現れるという漢字を見てください、、見えると書いてあります。。つまり形が見えているのです。蜃気楼です。

全部起きている

今は分からなくていい

結論から言えば全部起きています、全体から。ですがこれを個人に説明しても分かるわけがないのです。起きるという感覚は分かる時が来れば必ず分かります。ですが思考全開で生きている時はこれが理解できません、それでいいのです。思考とはこの体が存在するという前提でこの体をサバイブするために湧き上がっています。これが悪いわけがないのです、この体をサバイブするための思考は素晴らしいのです。ですがこの思考こそが全体を遠ざけ苦しみを作るのです。

分離最高、苦しみ最高

分離感覚は大人感覚です、大人とは分別がある存在、、、分別とは別れる、分かれるということ、、、、全体しかない世界において分別という錯覚を作り出すことを素晴らしいと勘違いするのがこの人間なのです。分別がある大人になることを素晴らしいとしですがこの状態は苦しみマックス状態ではありますがそこからどうしていいか分からないのも大人です。真実を言ってしまえば分別こそが苦しみです。

分別を超える

分別ある人間になりたい、、、これは苦しみに生きたいと宣言しています。別れ分かれ、、全体が分断された状態は苦しいのです。ですがこれを発揮すれば大人の仲間入りです。仕方ないから分別ある大人にさっさとなってしまいそこから分別を壊してしまう、分別をリセットしてしまう、、分別を辞めてしまうのもひとつです。分別を止めるとは全体に戻る、至福に戻ることです。