この世界は脳内映像だが、その脳も脳内映像

最強の秘密

この世界は脳内映像です、これを否定出来る人は居ません。我々は生きてこれまで脳内に映った映像しか見たことがありません。そおれは事実です。そしてこの脳が在るということを認識するには脳を実際に見るしかないのですがこの脳すらも脳内映像でしか見たことがありません。つまりこの脳が実在している証拠は100%ないのです。

すると我々が信じてきた事実が壊れる

我々は物理空間に住んでいて、、この体という物体を所有している、、これは完全に事実ではなく想像になります。なぜならばこの物理空間を見ているこの脳も脳内映像としてしか見たことがないのです。脳が実在していることをどこまでいっても証明できないのです。人類80億人全員が脳という実物を脳内映像以外で見たことがないのです。脳の存在が不確かになってしまったら脳内映像、、、というネーミングも怪しくなります。

これで分かった、、、

とにかく、、、、今目の前に大きな現象が出現しています、、これだけ、、これだけが事実です。これを脳内映像で見ているというのは想像です、事実ではありません。現象を見ているこの体も現象に過ぎず、それを見ているというのは想像です、事実ではありません。ただ現象がある、、これだけです。この体の中に自分が居るというのは事実ではなく思考です。事実を突きつめていきますと、、ただこれが在る、、にどうしてもなってしまいます。

神にうっかりは100%ない

神がうっかり自分になった??

神がうっかりこの体を自分と思い込み、、、あるわけがありません。神がこの体を自分と勘違いしてしまい、、全部嘘です。神にうっかりも勘違いも全くありません。全知全能の神にミスはないのです、するこの自分思い込みゲームは完全犯罪、計画犯罪に決まっています。悟りは完璧なタイミングで完璧な形で閉まったのです。すると悟りが開くのはいつか??それも神が完璧なタイミングで起こします。ですが何も努力なく、何の苦労もなく確かなタイミングで悟りは開くのです。

悟りを自分の努力の延長上にしない

悟りが閉じたのは、、、周囲からの呼びかけ反応です。名前をエンドレスに呼びかけられ、、この体に自分が居るという錯覚が起こりました。ここに自分の努力は全くありません。自然に悟りが閉じたのです。では悟りが開くには何が必要なのか???ここも自分の存在など完全に無力です。悟りの開閉に個人は完全に無力なのです。神、全体が、、完璧なタイミング悟りを閉ざし、完璧なタイミングで悟りを開きます。

川を流れる葉っぱは勝手に悟りを閉じ、勝手に悟りを開く

川を流れる葉っぱは、、川の流れ初めは完全に川の流れに委ねてきました、、葉っぱには自由意志などなくただ川の流れに身を任せてきました、、川と葉っぱの境目などそもそもなく葉っぱは川の模様の一部のようなものです。これは幼少期の感覚です。ところが葉っぱに脳が発達し、、葉っぱ(自分)が川の中で自由に動いているのだ、、という錯覚が起きました。これが大人になるということです。自由意志があるはずなのに自由に行かないこともある、上手くいく時もあれば上手くいかないことがある、なぜだ??です。あれどうも葉っぱには自由意思なんてなくてただ川の流れに従っているのでは???という疑問が起きます、、そして最後に川と自分(葉っぱ)には境目などないのでは???あれ川も葉っぱもただの名前であって全体しかなかった、(悟りが開く)が起きるのです。

全ては自分の鏡

今見ている世界

今目の前に見えている世界は脳内映像です、人間の体をベースに解説すれば我々は人生を通じて脳内映像を見ています。脳内映像を見ているのは分かった、では現物はどこにあるのでしょうか????脳内映像ではなく現物の在り処を教えてくれ、、、、それは目の前にあるだろう、、、その証拠に目の前のコップを触れば確実に感触があるではないか???違います、脳内映像のコップをやはり脳内映像の手が触れて間違いなく感触はあるが、その場所は特定できていません。答えを言いましょう、、全てあなたの体の中に全体そのものがあります。そして全体そのものが脳内映像に映し出され映っているのです。

全体そのものがあなたの中に全部ある

全体そのものがあなたの中に入り込みその映像をあなたが確実に見ています。ですから覚者は悟り「目の前に全てがあった」と話すのです。本当に目の前に全てが映し出されているのです。そしてそこで繰り広げるドラマの全てを全体が回収します。そんなことはない、、目の前で泣き叫ぶ子供の感情は何もこちらは分からないぞ、、、全体が全部回収しているならば泣き叫ぶ子供の感情も分かるはずじゃないか、、、その通りです。全体が回収できない感情などあるわけないのです。つまりその泣き叫ぶ子供は現象に過ぎず、何の感情を湧いていないのです。

人間に感情が無いのならば、、

人間に感情が無いのならば人間関係なんて何も面白くないじゃないか、、、無感情の人間と話していて何が面白いのか???大丈夫です、今までも全く感情が湧いていない人間(現象)と十分やってきました。そしてこれからもそれが続くだけです。無邪気な子供が、、困っている大人の周りで遊び続けることができるのは、、大人の心情を理解できないからではありません、、、大人の中に感情がないことを知っているからです。間違っているのは大人の方です。

悲惨な事件をいかに捉えるか

悲惨というのは個人の解釈

この現象界においての現象はただ全体から湧き上がっています、そこにが現象という形に見える物が現れ続けるのみです。ここが最重要でしてかたち(象)に見えるものが現れている、、、かたち(象)というのはかたちそのものが現れるのではなく、、現れたエネルギーに名前というプログラムによって形があるように見せそれを含めた世界にしているのです。この形に見えるものがマリオ、ルイージ、ノコノコ、ピーチ姫、クッパになるのです。そしてクッパとピーチ姫が争っているように見える映像が起こり、ノコノコとルイージが争っているような映像が生まれます。これが悲惨な事件と言われていることの正体です。

クッパがルイージを踏みつける

現象界で勝手に名前を付けられたエネルギーは見かけ上別個の存在に見えます、クッパに見える別個と、ルイージに見える別個の存在同士が近づき触れ合えば争っているように見えてしまうのです。これが争いの真相です。事実ではただ模様が変わり続けているだけです。この模様の移り変わりにプログラミング付きメガネを通して見ますとそこには争いが起こっているように写るのです。

争っているように見えることの方が凄い

空の絶対表現であるこの現象界は変幻自在に物が争っているように見える世界、、ここが最高に凄いのです。そこには戦争難民、飢餓で苦しむ子供、爆弾に被曝してしまった老人、、、などあらゆる悲惨に見える現象が起こります。ですがそれは全て現象『かたちがあるように見える物が現れる(空から)』だという事実を理解します。

マリオには自由意志も自由行動も一切ない

マリオを通じてただ思考、行動が起きている

マリオは3D画像です、そしてこの3D画像には五感が備わり、、このマリオゲームに臨場感が加わります。そしてこのマリオの中からは思考や行動がわき起こっていきます。マリオ自身には一切思考を生み出す力も行動を生み出す力もありませんからただ全体を通じてこれが起こっているのです。全体から思考も行動も浮かび上がり、、失敗すれば今度は悔しいが湧き上がりこれを全体が全部回収していきます。全体から全てが湧き上がり全体が全てを回収します。マリオは3D映像に過ぎず、、そこが最重要ポイントになります。

全体から思考、行動、感情がわき起こり全体が回収する

マリオ(私)のゲームの中で感情思考が湧き上がっているのがマリオだけという理由は、、、全体から思考感情が湧き上がり、、全体がそれを回収していますから、、、視界に何人のキャラクター(他人)が居ても、、もしもキャラクター(他人)から思考感情が湧いているならば全体が全回収しますから今ここで全部を感じることができるはずです、マリオの同様に。ところがそれは起きない、、つまり、、、マリオしか感情、思考が起きていないということになるのです。

全員の感情を今全体が回収しているが、、マリオののみを感じているようにしているだけでは??

この理論は最もな意見なのですが、、そうすると、、、ピーチ姫、クッパ、ノコノコの感情はどこに行ってしまったのでしょうか???全体は全部であるから全体なのであってここに全体があるのならば、、全体が回収する感情も全部ここにあります。ここ以外に感情が存在してしまったらここは全体では無くなってしまうのです。これが答えです。ここが完璧なのはここに全部があるから完璧なのです。ここ以外に感情の存在が確認されてしまたらここは全体、至福では無くなってしまいます。だとするならばここでは絶対に全体(至福)は見つからないことになります。ですが我々は毎日熟睡時に至福に戻っています、それがここに全体(至福)がある証拠です。だからこそ今起きている思考、感情が全体の全てなのです。

見かけ上の個人は常に不安を持つ

不安の本質は分離感

見かけ上の個人は必ず不安を持っています、どんなに楽しそうに見えても、完璧な人生を送っているように見えても、、そんなことでは絶対に埋まらない不安を抱えているのです。それはなぜか?それはこの個人というアイデアに牛耳られた者特有の苦しい、分離感の原因を発見できていないからです。「自分は個人である」このアイデアはアイデアであって真実ではないのです。このことを一番分かっているのは全体そのものでありそれゆえこの誤解はエンドレスに苦しみを発生させるのです。その苦しみの出所を個人が突き止めうことは不可能でありそれゆえ不安が自動発生的に湧き出るのです。

分離が悪いわけではない

分離は悪いことではありません、根源全体から起きる動きに善悪など全くありません。ただこの個人という分離が起きているという思考が湧き上がりますとそれと同時に苦しいが湧き上がるシステムになっているのです。ここは最重要ポイントになります、全体が朝起きて個人であると勘違いが起きますと同時に苦しいが生まれます。個人が朝起きてキムタクだと勘違いすれば嬉しいが起きます、勘違いには副産物がついてまわるのです。この副産物が何かを気づかないが起き続ける間は苦しい、そしてこの苦しいの理由が分からず不安が起き続けるのです。

分離錯覚のメカニズムを悟る

分離錯覚メカニズムを理解すればあとは日々の生活の中でこれを腹落ちさるだけになります。個人はゲーム上のマリオ同様に動き回ることが出来ると思っていますがこれが完全錯覚で、、マリオが動いているのではなく全体(3D画像)が動きているのです。そしてこのマリオの体も3D画像として動きますから合わせ技でマリオが自由自在に動いているという錯覚が起こります。触る物、香る物、見える物、味わえる物全てが3D画像でありこれは現象です。マリオという3D画像が動き回ることで五感が感じ続けそれがマリオがリアルに居るという錯覚を起こし続けるのです。すると全体からこのマリオの中に居るという錯覚が起き同時に苦しいが起きます。この苦しいを全体が感じますが「マリオの中に居る、そして苦しい」がこのゲームのデフォルトになるのです。何を感じても何を味わっても、何を画像確認しても、何を触っても、何を香っても、、この苦しいは消えることはなく、、このマリオの中に自分は居なく、現象の全て(色)であり現象を湧き上がらせる存在のもの(空)という実感に戻るまでこの苦しみは続きます。

コンプレックスでは感情回収できなければ見かけ上成功させて試してくる

コンプレックスの次は成功

コンプレックスでは一切落ち込まなくなった見かけ上の「私」が次に狙われるのが見かけ上の「成功」です。女性に本当はモテたい、、とコンプレックを抱えていた見かけ上の「私」はもう女は要らない、、そんなことではどうせ満足できない、、と良い意味で諦めると、、、今度はモテることを起こし、、そこで逆に苦しめます。モテる自分は、、もっと評価されたい、仕事でも評価されたい、、ともっともっとが湧き起こるのです。こうして欲求の渦に全体は私を陥れるのです、見かけ上。

これだけ達成したのにおかしい

コンプレックスは解消し仕事で大成功めたにも関わらずなぜこんなに苦しいのか???むしろどんどん苦しくなっている、、こうして見かけ上の私は精神的飢餓状態に陥っていくのです。どこまで成功すればこの精神的飢餓は解消されるのか????もう願望実現は終わりにしよう、、、こうなると次は精神世界での霊的向上が待っています。霊的向上こそがこの精神的飢餓を克服できるのでは???ところがここも最短速度で登っているにも関わらずまた苦しい、、、

最後に残ったのが悟り

最後に残されたのが悟りです、、悟りとは精神的成功、物理的成功をする「自分」が居なかったという全く違うメッセージです。この私は3D映像、幻想、蜃気楼で実在を全くしていなかったという気づきです。「自分」に成り済ましていたのが全体でこの全体が全ての感情を回収していたのだと、そしてまだ半信半疑の自分が起こり続け揺さぶられ続けていきます、見かけ上。全体総指揮「自分」ストーリーの完結に向かいます、完結とはこの「自分」が実は幻想だったという大気づきです。

最大の執着は最大の感情回収ポイント

執着とは個人から感情を回収する最強ツール

例えば見かけ上の私は「活躍したい」という執着が強い人間でした、ですから願望実現系の書籍を漁るように読みまくりましたが全然思うような結果に恵まれませんでした。この執着のために20年以上の歳月を傾けたのではないでしょうか、、この執着は究極的のこの見かけ上の自分からあらゆる感情を回収できます。「悔しい、苦しい、もう少し、妬み嫉み、」この感情こそが全体が回収したい感情集です。この見かけ上の私だからこそ回収できる感情なのです。

願望実現は見かけ上の「私」を苦しませた

別に活躍なんかしなくても気にしない、、そのような上っ面の我慢をしても「目指したい存在」「羨ましい存在」」が見かけ上次々に登場し「見かけ上の私」を煽ってきます。その結果やっぱり活躍して周りから評価されたいが込み上げてくるのです。そこ感情をコツコツ全体が回収していきます、アザーすといった感じで。この執着感情収集システムは気づきが起きるまでエンドレスに続くのです。そしてようやくそこから抜けるポイントになったのがノンデュアリティスピーカーと呼ばれるこの見かけ上の人々のメッセージでした。

どうやら答えはこれだぞ

これらの人々のメッセージを聞いても全く理解できないのですが「これが答えなんだな」という思考は見かけ上の私から湧いてきました。だからそこからは滝に打たれるようにこれらの人々のメッセージを聞き続けたのです、見かけ上。そして徐々に徐々にこの見かけ上の私にこれらのメッセージが染み渡り今このブログを書いています、見かけ上。全体が今この見かけ上の私が全体に気づくという経験をさせていると感じています、実際には全体からこの私の中に閉じ込めらているという錯覚が起こり次にこれが錯覚だったという気づきが起こり始めています。見かけ上の私など最初から居なくこれはただの3D映像であったという気づきです。

この事実を伝えなければならない相手は居ない

自分がそれに気づいたとて

悟りの勉強は面白い、ノンデュアリティメッセージは突き刺さる、、すると多くの人はこれを周囲の人間に知らせたいという衝動が起きたりします。ですがこの衝動は放っておいて大丈夫です。なぜならば知らせたい周囲こそがただの現象、3D映像、五感で感じる蜃気楼ですから教えたところでその事実は何も変わらないのです。そして相手には相手の人生があると本気で思っているかもしれませんがその人の人生は存在しないのです。

「スーパーマリオ」はあっても「スーパーノコノコ」はない

あなたの体はマリオでそのマリオの人生は「スーパーマリオ」と呼ばれています。ではマリオの脇役でちょいちょい出てくる「ノコノコ」にはノコノコの人生はあるのでしょうか????実際にはこのノコノコの人生「スーパーノコノコ」は存在しないのです。もしもノコノコの人生が在るとしたらマリオが見ていない場所でもノコノコの活動が続くことになります、ですがそのじような事実はないのです。ノコノコはマリオが画面の中心にいる場所の脇でたまに登場するしか存在できないのです。つまりノコノコは画面から外れると空、ゼロに戻っているのです。

ノコノコに感情が有るならば、、その場で全体が回収している

マリオはゲーム上、ノコノコを常に踏みつけ殺していきます、その際にノコノコは表面上痛そうな表情をして死んでいきます、ですがこの時ノコノコの中で悔しい、モドカシイ、残念無念!という感情は湧いているでしょうか?湧いていません。もしも湧いているならばその感情をTV画面は回収しているはずです。TV画面上でその感情を回収できます、マリオはその感情を認識できないのは当たり前としてゲーム本体は必ずこれを回収します。ですがそれが無いのです。なぜ言い切れるか、、マリオの感情を回収し、それを認識している存在こそがゲーム本体だからです。????ということは普段マリオが感じている悲しい、辛い、ムカつく、は、、マリオ(自分)ではなくゲーム本体が感じているのです。私が感じているつもりだった「悲しい」、「孤独」「妬み嫉み」「嬉しい」「楽しい」は、、、ゲーム本体が受け取っていたのです。つまり「私」はマリオの中に居るのではなく、、ゲーム本体だったのです。

私がゲーム本体ならば、、空ではないか、、、

私がゲーム本来ならば、、、私はこの現象界を現象化する空であり、ならば現象界そのもの色ではないか、、、その通りです。つまり現象界そのものであり、この現象を湧き出す存在なのです。ゲーム本体です。ゲーム本体であなければマリオの感情は回収できないのです。そしてこのマリオ(かつての私)を主人公にしたこのゲームはマリオのためだけに存在しておりマリオ(かつての私)オリジナルゲームです。ですからこのゲームには私(ゲーム本体)しか存在しておらず大いにこれを独占して遊び尽くせばいいのです。周囲の批判が怖い、周囲の評判が怖い、、、残念!!!周囲に居ると思われている人々(映像)には感情すら湧いていません。

この体がマリオだと思って生活する

マリオだと一日中感じて生活する

この体はマリオ同様3D映像です、五感で感じる蜃気楼です、空からの現象です。つまり空洞、幻影、ゼロ、空即是色です。ですから今日を1日この体をマリオだと思って生活します。そして周囲もマリオゲーム同様3D映像、幻影、空からの現象(色)です。マリオゲームですから歩いても本来周囲の画像が切り替わっているだけでマリオの位置は変わりません。マリオは土の感覚、階段の感覚、アスファルトの感覚を感じますがこれはあくまで感じるのみ踏み込む対象は全て3D映像です。

話しかけれられてもマリオとして対応する

話しかけられることもあるでしょう、その際にはマリオに成り済まし対応します。こちらからマリオとして話しかけても良いかもしれません。マリオになり切らない限り怒りや、憎しみ、嫉妬の感情は湧いてこないでしょう。マリオになり切らない限りそこに映る現象(人)と本気で仲良くしたいなど思わないはずです。つまり人間関係(映像関係)は軽いのです。深刻になれません。

マリオは腹が減るのだから働かなくては、、

問題なのはこのマリオは腹も減るし、光熱費も払わなくてはなりませんから、、まあまあ面倒なわけです。ということで働かなくてはならないでしょう、ですがマリオの名誉のために働く、マリオの名声のために働く、マリオの評価を上げるために働く、マリオの女受けを良くするために働くといった衝動は到底湧いてきません。なぜならばマリオはただの3D映像です。そういう意味ではかなり気楽でしょう。

マリオから出てくる欲求が少なくなっていく

この体をマリオだと思って生活していくとなぜか欲求が減っていくのが分かります、なぜか孤独感が少なくなっていくのが分かります、なぜか不足感が少なくなっていくのが分かります。これぞマリオマジック、悟りマジックです。この世界のカラクリが見えてきて同時に苦しさが無くなっていくのです。なぜならばこのマリオが実在しているという本気の思い込みこそが「苦しみ」の根源だからです。逆に言えばこのマリオゲームではマリオが実在しているという思い込みからくる「苦しさ」を脱してしまったらもう負の感情は湧きようがありません。それしかないのです。