この事実を伝えなければならない相手は居ない

自分がそれに気づいたとて

悟りの勉強は面白い、ノンデュアリティメッセージは突き刺さる、、すると多くの人はこれを周囲の人間に知らせたいという衝動が起きたりします。ですがこの衝動は放っておいて大丈夫です。なぜならば知らせたい周囲こそがただの現象、3D映像、五感で感じる蜃気楼ですから教えたところでその事実は何も変わらないのです。そして相手には相手の人生があると本気で思っているかもしれませんがその人の人生は存在しないのです。

「スーパーマリオ」はあっても「スーパーノコノコ」はない

あなたの体はマリオでそのマリオの人生は「スーパーマリオ」と呼ばれています。ではマリオの脇役でちょいちょい出てくる「ノコノコ」にはノコノコの人生はあるのでしょうか????実際にはこのノコノコの人生「スーパーノコノコ」は存在しないのです。もしもノコノコの人生が在るとしたらマリオが見ていない場所でもノコノコの活動が続くことになります、ですがそのじような事実はないのです。ノコノコはマリオが画面の中心にいる場所の脇でたまに登場するしか存在できないのです。つまりノコノコは画面から外れると空、ゼロに戻っているのです。

ノコノコに感情が有るならば、、その場で全体が回収している

マリオはゲーム上、ノコノコを常に踏みつけ殺していきます、その際にノコノコは表面上痛そうな表情をして死んでいきます、ですがこの時ノコノコの中で悔しい、モドカシイ、残念無念!という感情は湧いているでしょうか?湧いていません。もしも湧いているならばその感情をTV画面は回収しているはずです。TV画面上でその感情を回収できます、マリオはその感情を認識できないのは当たり前としてゲーム本体は必ずこれを回収します。ですがそれが無いのです。なぜ言い切れるか、、マリオの感情を回収し、それを認識している存在こそがゲーム本体だからです。????ということは普段マリオが感じている悲しい、辛い、ムカつく、は、、マリオ(自分)ではなくゲーム本体が感じているのです。私が感じているつもりだった「悲しい」、「孤独」「妬み嫉み」「嬉しい」「楽しい」は、、、ゲーム本体が受け取っていたのです。つまり「私」はマリオの中に居るのではなく、、ゲーム本体だったのです。

私がゲーム本体ならば、、空ではないか、、、

私がゲーム本来ならば、、、私はこの現象界を現象化する空であり、ならば現象界そのもの色ではないか、、、その通りです。つまり現象界そのものであり、この現象を湧き出す存在なのです。ゲーム本体です。ゲーム本体であなければマリオの感情は回収できないのです。そしてこのマリオ(かつての私)を主人公にしたこのゲームはマリオのためだけに存在しておりマリオ(かつての私)オリジナルゲームです。ですからこのゲームには私(ゲーム本体)しか存在しておらず大いにこれを独占して遊び尽くせばいいのです。周囲の批判が怖い、周囲の評判が怖い、、、残念!!!周囲に居ると思われている人々(映像)には感情すら湧いていません。

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