見かけ上の個人は常に不安を持つ

不安の本質は分離感

見かけ上の個人は必ず不安を持っています、どんなに楽しそうに見えても、完璧な人生を送っているように見えても、、そんなことでは絶対に埋まらない不安を抱えているのです。それはなぜか?それはこの個人というアイデアに牛耳られた者特有の苦しい、分離感の原因を発見できていないからです。「自分は個人である」このアイデアはアイデアであって真実ではないのです。このことを一番分かっているのは全体そのものでありそれゆえこの誤解はエンドレスに苦しみを発生させるのです。その苦しみの出所を個人が突き止めうことは不可能でありそれゆえ不安が自動発生的に湧き出るのです。

分離が悪いわけではない

分離は悪いことではありません、根源全体から起きる動きに善悪など全くありません。ただこの個人という分離が起きているという思考が湧き上がりますとそれと同時に苦しいが湧き上がるシステムになっているのです。ここは最重要ポイントになります、全体が朝起きて個人であると勘違いが起きますと同時に苦しいが生まれます。個人が朝起きてキムタクだと勘違いすれば嬉しいが起きます、勘違いには副産物がついてまわるのです。この副産物が何かを気づかないが起き続ける間は苦しい、そしてこの苦しいの理由が分からず不安が起き続けるのです。

分離錯覚のメカニズムを悟る

分離錯覚メカニズムを理解すればあとは日々の生活の中でこれを腹落ちさるだけになります。個人はゲーム上のマリオ同様に動き回ることが出来ると思っていますがこれが完全錯覚で、、マリオが動いているのではなく全体(3D画像)が動きているのです。そしてこのマリオの体も3D画像として動きますから合わせ技でマリオが自由自在に動いているという錯覚が起こります。触る物、香る物、見える物、味わえる物全てが3D画像でありこれは現象です。マリオという3D画像が動き回ることで五感が感じ続けそれがマリオがリアルに居るという錯覚を起こし続けるのです。すると全体からこのマリオの中に居るという錯覚が起き同時に苦しいが起きます。この苦しいを全体が感じますが「マリオの中に居る、そして苦しい」がこのゲームのデフォルトになるのです。何を感じても何を味わっても、何を画像確認しても、何を触っても、何を香っても、、この苦しいは消えることはなく、、このマリオの中に自分は居なく、現象の全て(色)であり現象を湧き上がらせる存在のもの(空)という実感に戻るまでこの苦しみは続きます。

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