事実と違う解釈を前提にした世界

「私がした」は事実ではない

なぜ浮気をしたんですか???なぜ不倫したんですか???なぜ覚醒剤に手を出したんですか????この質問は「全責任を個人が取ることができる」という前提で話が進んでいます、、、、、ですが実際にはその行動が起きたときに「個人」という存在は実在していません。個人が不在の状態の行動をなぜ責任を取ることができるのでしょうか????この大前提が、、この社会の常識になっているために「生き辛い」という感情が湧くのです。

「私」は何もできないし、、存在すらしない

「私」が本当に実在するならば、、、全行動に置いてこの「私」が確実に認識されていないといけません、、、マリオゲームをやるときに、、、マリオは確実に認識し続けています、、、居ない時は絶対にないのです。だとするならば、、、この幻想のゲーム上でも「私」が消えていい時などあってはならないのです、、ではどうですか??????美味しいビールを飲んでいる時、、「私」を忘れますね、、、感動する映画を観る時「私」を忘れますよね!!!!、、、居ない時間が確実にありますよね!!!!おかしい!!!!

つまり「私」は都合が良い時現れる思考

つまり、つまり、つまり、、、「私」とはたまに現れる思考に過ぎないのです、、、思考の産物です、、全行動、全思考、全感情を作り出すなどの偉業を達成できるような代物ではないのです。これが大前提です、新しい時代の大前提です。「私」など全く存在していなかった、、、です。この新しい大前提をベースに生きるがスタートしますと、、、とにかく楽です、、、だってそれが真実だからです。無理くりこねくり回して作り出した「私」物語が終わります。

(Visited 3 times, 1 visits today)