筒人間だと思って生きてみる

もしかして筒人間かも

エックハルトいいます、、気づきの意識だと思って自分の思考を観察してみてください、、と私は提案します、、自分を筒人間だと思って生活してみることを。ただ思考、行動がこの筒人間を通じて起こっているだけなのだと。すると本当にこの私から発せられる言葉、行動は自分が決めていないことに気づきます。なんかしらないけど言葉や行動が湧いているだけだということに気付きます。

あれ、、今まで一度も、言動を作っていなかったかも

本当に朝から晩までの行動を自分で決めてやっているでしょうか。。。コーヒーを飲む動き、排泄の動き、歩く時、、友人と喋る時の会話のあれこれ、、全部筒人間としてやっていないでしょうか、、、なんであの時あんなことを言ってしまったのだろう????こんな機会は多いはずです。そうです、我々は筒人間だったのです。筒を通じて起きる言動をこの筒が自分で決めたと勘違いをしているだけなのです。

ではこの言動を作っているのは誰だ???

全体です、、それは分かった、、、じゃあその全体はどこに居るんだ、、どこに隠れているんだ????今ここに居ます、、、???どこ???今ここで起こることに気づいているのが全体です、今ここで音を感じ、光を感じ、感情を感じているのが全体です。。。。????そうです、、今、今を感じているのが全体です。。この私とは全体のことです。

筒と筒の争い

筒には思考も行動も作れない

我々はただの筒です、、全体から湧いてくる思考、行動を通すだけの存在です、、、ですから我々には実はなんの言動も作ることはできません。スポーツ選手ははメジャーリーグでMVPを取った時に「自分を褒めたい」みたいな話をしますがこれは事実ではありません、事実は「私という筒を通じてMVPを取れる努力が起こったようですね」、です。これをインタビューで言えたら悟っています。この事実を忘れて我々筒人間は相手の筒から起こった言動に対して怒ったりします。これはおかしなことをやっているのです。

所詮はただの筒、、この事実に向き合う

この世界は現象界、色の世界、、、どこまでいっても実在がない世界、見えるだけの世界です、、、ですから相手に中身がどれほどあるように見えても見るだけなのです。これが事実です。すると相手という現象も、相手の言動もただ全体から湧き上がっているだけということになります。全体とは関係なく個人(蜃気楼)が言動を作ってしまったらもう全体の存在価値はゼロ、全体はこの世界を終了させなくてはなりません。筒と筒が勘違いをして争い続けるのが餓鬼畜生界、筒と筒が協力しあって助け合うのが菩薩界、、そのそも筒だから、、筒が幸福を追いかけても意味ないじゃん、、という気づきが起こるのが仏界です。

あの筒は素晴らしい、、、はない

あの人は偉大な人だ、、これはしっくりきます、、、あの筒人間は偉大な人だ、、、これはしっくりきません。あの人は酷い人だ、、、はしっくりきます、、、あの筒人間は酷い人だ、、、これはしっくりきません。つまりこの世の苦しみとは筒人間を人間と勘違いするこよからスタートしているのです。子供に立派な筒人間になってね!!というのはおかしい、しっくりこないのです。ですが事実人間は筒人間なのです。妖怪筒人間がただ筒として行動しているだけです。

判断が無くなるまでエンドレスに現象が続く

いつまでこの現象は続くのか???

判断が無くなるまでです、分別が無くなるまでです、差別が無くまるまでです、、、自分という存在が居て、その自分がこの全体からの現象に判断を加え続ける限りこの現象は次々に続いていきます。だからこの自分人生は苦しいのです、、、自分が解体され、価値観が解体され、判断が解体されるまでこの現象は続くのです。

例えば旦那の浮気は絶対に許せないという価値観を持っていると

男性の浮気は絶対に許すべき行為ではない、、、、という価値観、判断を持っていると、、この価値観が壊されるような現象が起きます、、旦那さんのポケットから女の影が、、、だが証拠は掴めていない、、、どうしよう、、ああしよう、、直接聞くべきか、、探偵を付けるべきか、、、もしも浮気が発覚したら別れるべきか、、、とこの苦しみの思考がエンドレスに続き悩み果てるでしょう、、、、

違う、、ただその現象が起こっただけ

事実だけを伝えれば、、、女の影という現象がただ起きました、、浮気という事実は100%起きていません、そして旦那を問い詰めることで浮気という現象が発覚するという次の現象が起きるかもしれません、問い詰めなければ浮気も、発覚も起きません。もしくはその翌週に旦那さんから実は浮気をしてしまったという発言が現象化するかもしれません、、、ですがそれも旦那さんの自由意志で起こってはいないのです、全体が旦那さんを通じて浮気をしたという発言を起こしたのです。これが事実です。この事実に対し、、判断を下せますか???

観念を火炙りにする

観念火炙りは面白い、最高

あの人にこんな悪口を言われてしまって、、、どう思いますか??、、、ただそれが起こったんですね、、、ヒデー、、、、彼氏が全く働かなくなり、、愚痴ばかり言っている、、どう思いますか???、、、その現象が起きたんですね、、、ヒデブー、、、、社長が無駄使いばかりする人で社員のことを何も考えていないんですよ、、、、その現象が社長を通じて起きたんですね、、、、アベシ、、、となります。多くの方はそれに対し意見を求めます、、、ですがそれへの意見はただ一つ、、、、ただそれが起こった、、、そこに自己の介在はゼロ、、、それを起こすことができる人格はゼロです。

悩みが完全に無くなる

ろくでもない彼氏も、浮気ばかりする彼女も、、ぐーたらな息子も、、、全部本人の意思でそれをしていない、、、全部全体から起こっている、、、、するとこれについて悩むことができないのです。何か解決策があると信じているから悩むわけです、、、、勿論ぐーたらな彼氏に意見を言うのは良いでしょう、そしてそれによってぐーたらが勤勉になることもあるでしょう、、、、ただしそこには彼氏の意思は全く関わっていません、、、全体がたまたまそれを起こしました。

他人に興味が無くなる、、、大正解!!

相手に自由意志がないなら人と関わるって意味なくないですか?????大正解です!!!彼氏に自由意志がないなら浮気を止める方法なんてないじゃないですか????大正解!!!です。全体は常に何かを起こしますからアクションが無意味ということは断じてありません、、、重要なことは相手の中に自由意志が無いことを悟ることです。ここ最重要ポイントです。人間たるものこうあるべき、こう成長すべき、こう大人になるべき、こう自立すべき、、、全部自由意志があるという前提の価値観です。価値観は事実の前では火炙りにされます。

自分のゲームでは、見える世界は変わっていく

これはあくまでゲーム

このゲームは現象です、3Dです、五感で感じる蜃気楼です。このゲームの性質上、、観念が変わると見え方が変わります。見かけ上の私の価値観が変わるとそのフィルターを通じてこの現象を見ますから、、見え方が変わります。例えば子育て中は、、街を歩けば子供が沢山登場します、、例えばポルシェを買いたい、、そう思うと、、ポルシェが街中で登場します、、、エアージョーダン1がどうしても欲しい、、、街を歩くとエアージョーダン1が登場します、、現象を捉えるフィルター(価値観)が変わると現象の見え方が変わります。

事実を知ると当然価値観が変わる

頑張らない人間を見れば、、あつはなんて怠惰な奴なんだ、、、これが多くの日本人が持つ価値観でしょう、、ですが事実を知ってしまうともうそう思えない、、、事実はただそれが起こっているだけです、、そう見える現象が起こっているだけです。自分の意思で行動できる存在は居ません、全部全体からの起こりです。価値観ではなく、、事実に変わっていきます。。究極の事実を知る者、、、それが覚者ですが、、、これも実は嘘で究極の事実を知ると、、、知る自分が存在しないことを知るのです。

価値観が無くなる

価値観とはあくまでこの現象界での見方のことですね、、そうすると、、これが現象であること、これがただ全体からの起こりであること、そこにはどんな自己の介在も起きていないことが分かってしまうと、、見方がなくなります、、先ず見る「自分」が居ないのです。価値観とは「自分」とセットになっていることに気づきます。そうなると価値観が壊滅します、価値観が粉砕します、価値観が火炙りにされます。そこにはただ事実(全体)が残ります。

大谷翔平の存在

大谷翔平はいつでも無我に入っている

これはあくまで見かけ上の話です、本当は大谷翔平はただの現象ですからその中では何も起きていません。ですが中に中身が在るという想定で話を進めます。大谷翔平は勝負中無我に入ります、無我への入り方を知っています、練習中も無我に入る、恐らくオフの時も無我に入っています。彼の毎日の生活はほぼ無我なのです。ルーティンということをスポーツ選手はやりますがあれは思考を一切介在させずその場で無我に入るテクニックです。

無我が気持ちが良い

無我とは我がないこと、これは全体、悟りのことです。自分が全く居ないのですから、、全体に戻っているのです。スポーツ選手は練習を通じてこの無我への入り方を学ぶのです。無我の状態を覚えるとその場所が最も気持ちが良い場所であることが分かるので率先してそこに入ろうとします。そしてあらゆるスポーツはこの無我への入りで上達し結果が出やすくなります。

ただし大きな落とし穴が

スーパースターが破産、犯罪、、、これもニュースに付きものです。無我に入って出た結果を自我が抱え込むのです。無我に入って大きな功績を残したが自我がしゃしゃりでて威張り散らします。本当は自我が居なかったから結果が出たにも関わらず自我がそれを一人占めするのです。なんという茶番、なんという喜劇、なんという詐欺でしょうか。自我は詐欺師なのです。ですがこれも全体からただ淡々と湧き上がるゲームです。誰も悪役は居ないのです。全体は自我を作って、、このゲームを楽しんでいます。

自分とは記憶に依存した存在

記憶はこの現象界に存在しない

この現象界はどこまでいっても在るように見える世界です、、この現象界に「何か」が在ることは絶対にないのです。すると記憶はどこに在るのか???記憶は空(サーバー)にあります。そして会話のたびにこのサーバー(空)から記憶が湧き出し会話は成り立っているのです。そしてこの記憶を受け取る場所こそが脳です、、脳も見かけ上の物、実態はありません、あくまで見かけ上、ゲーム上、、脳が記憶を受け取ります。

自分の存在を絶対視できるのは記憶があるから

見かけ上のこの体を通じて得た経験の全ては空(サーバー)に記憶されており、、、ゆえにこの体の存在を絶対視するという思考が起こります。そしてこの体の行動を全て決める存在「自分」が居るという感覚が起こるのです、全体(空)から。この体は自由意思で(見かけ上)動きますからこの自分がこに体の言動の全てを牛耳っているという思考が起こります。事実からみればこれは勘違いですが、、「勘違いだ」が起こらない限りこの「自分ゲーム」は何の問題もなく進みます。ただし全体(空)がこの体が私だという成り切り(起こる)は、、、同時に閉塞感を生み出しこれが「苦しい」を土台としたこの人生ゲームになるのです。

釈迦は悟り「人生とは苦である」と語った

人生とは苦なのです、、人生が無くなると絶対幸福になります。人生がない瞬間は熟睡と死です。もしくはこの自我、自分のメカニムを完全腹落ちし、、全体としてこの体を操るという全体主体のゲームに戻すほかありません。見える現象は全て蜃気楼、3D画像でありそこには中身はなく、、ゆえにそこには思考も感情もない、、これを虚無と捉えるか、、面白いと捉えるか、、、それすらも全体から湧いてきます。

「人生という旅」の完全否定

旅はない、夢の中でしか

人生を旅に重ねることがります、人生という大海原を彷徨って、、、のように、、ですが実際には人生は存在しません、、、人生があると断言するには記憶が絶対的に必要になります、ですがその記憶を司る脳が実在していないとしたらどうでしょう???人間の体は五感で感じることができる蜃気楼です。蜃気楼ですから実在していないのです、すると脳も実在していないことになります、すると記憶とはどこに存在するのでしょうか、、、記憶は空(ゼロ、サーバー)にあります。

色は現象のみ、色に記憶はない

この世界は色(現象)です、、現象ですから物があるように見える世界です。見える、、ですから実際には存在していないのです。すると記憶を司る脳も実在していませんから記憶はこの現象界には無いことになります。記憶は空(ゼロ、サーバー)に在ります。その証拠に過去の人生全部が今ここに有るという実感が有る人はいないでしょう。記憶とはその時その時に蘇り湧き出すものなのです、全体(空)から。この記憶があるかた「自分」という感覚が全体から起こり、記憶が全体から湧くから人生というアイデアも湧くのです。

本当はこの色(現象)だけが在る

本当はこの個人もゼロからの記憶がそれを起こし、、この個人の人生も空からの記憶によって形成されています。どこまでいっても空の独壇場、色はその独壇場を支える場所です。記憶と個人の二人三脚でこの人生という旅が完成されます。記憶があるから個人が居る、個人がいるから記憶ができる、、、現象しか無かったは見抜けない、、、

悟りとは経験ではない、、

経験とは個人がするもの

我々が使う経験という言葉は個人が個人として掴んだ感覚のことです、、これを経験と呼びます、、そうなると悟りとは全体だった、、主語が「自分」から「全体」の完全シフトですからこれが経験ではないということになります。騙し絵のように老婆だと思っていたら、、若い女性だったに似ています。個人がこの世界を見ていると思っていたらこの世界が自分だったという突然シフトです。

自分と世界が逆転し

見ている方が「自分」で見られている方が世界だと信じていたら見られている方(世界)が自分で見ている方が自分以外だった、、、いや違う、、、見ている自分も、、見られている自分(世界)も全部自分だった、、という完全シフト、、自分がお風呂に浸かっている思ったら、、お風呂が自分だった、、そして浸かっていた自分も自分だった、、、お風呂、自分合わせて自分、、、

経験とは主体客体がなければできない、、

この世界は主体客体の世界、、二元の世界、、、ですが自分が居て、それを取り巻く環境が無ければ経験は誕生しません、、、りんごを食べる「自分」とりんごが無ければ食べるという経験は成り立たないのです。お風呂に入る「自分」とお風呂がなければこの経験は成り立ちません。そうすると独立した個人など存在不可能であることが分かります。「自分」と「環境」の完全なる二人三脚で経験を積んできました。全体から「自分」を切り離し経験が生まれました。自分とは経験強制体験装置なのです。この装置のスイッチを切った時に、、、全体への強制シフトが起きます。

「今ここ」に居ようとしてはいけない

全ては「いまここ」ですよー、、の罠

覚者の言葉がそのまま鵜呑みにするとまんまと思考の罠に取り込まれます。「いまここ」と言う言葉もその一つでいまここが全てと聞くと、、一生懸命「いまここ」に居ようとするわけです、、、これは全くの誤解、思考、幻想です。いまここは結果です、、、今こことは「居よう」とする場所ではなく、、、結果的に「いまここ」しかなかったという気づきなのです。

今ここに居ようとすればするほどに、、、

今ここに居ようとすればするほどに今ここから完全に離れます。なぜかいまここは個人がたどりつく場所ではないからです。個人は完全にいまここから離脱しています、自分という言葉は全体から自ら分かれた存在でありこの存在はいまここを探すのは不可能なのです。いまこことは全体のことであり、、、全体から完全離脱した自分が全体を探すのは不可能なのです。いまここを探す自分を完全否定した時に「いまここ」はバコっと登場します。

自分を完全否定????

自分なんて居ない、、、、自分など居るはずがない、、、この言葉を放った主人が「自分」ならば何の意味もありません。自分という存在を探してみても、、どこにも見つからなかった、、、これが悟りです。誰が自分を探したのでしょうか、、誰が自分の居場所を見つけようとしたのでしょうか、、、最初は「自分」が探したのでしょう、、「自分」で「自分」を証明しようとしたのでしょう、、、そうしたら証明できなかった、、、ヤバイ、、マジか、、、、これが悟りです。その時にいまここがニョキッと現れます。自分が完全に居ないならば、、ここがどこだ、、いまここです。