悟りとは経験ではない、、

経験とは個人がするもの

我々が使う経験という言葉は個人が個人として掴んだ感覚のことです、、これを経験と呼びます、、そうなると悟りとは全体だった、、主語が「自分」から「全体」の完全シフトですからこれが経験ではないということになります。騙し絵のように老婆だと思っていたら、、若い女性だったに似ています。個人がこの世界を見ていると思っていたらこの世界が自分だったという突然シフトです。

自分と世界が逆転し

見ている方が「自分」で見られている方が世界だと信じていたら見られている方(世界)が自分で見ている方が自分以外だった、、、いや違う、、、見ている自分も、、見られている自分(世界)も全部自分だった、、という完全シフト、、自分がお風呂に浸かっている思ったら、、お風呂が自分だった、、そして浸かっていた自分も自分だった、、、お風呂、自分合わせて自分、、、

経験とは主体客体がなければできない、、

この世界は主体客体の世界、、二元の世界、、、ですが自分が居て、それを取り巻く環境が無ければ経験は誕生しません、、、りんごを食べる「自分」とりんごが無ければ食べるという経験は成り立たないのです。お風呂に入る「自分」とお風呂がなければこの経験は成り立ちません。そうすると独立した個人など存在不可能であることが分かります。「自分」と「環境」の完全なる二人三脚で経験を積んできました。全体から「自分」を切り離し経験が生まれました。自分とは経験強制体験装置なのです。この装置のスイッチを切った時に、、、全体への強制シフトが起きます。

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