これを達成したら、、、絶対に全部上手くいく

達成する自分自身こそが苦しみの犯人

二行でこの世の苦しみを表現すると上記のようになります、、みんなこれを思って生きています、、もしも転職が上手くいけば、、もしも結婚が上手くいけば、、もしも健康状態が回復したら、、、もしも大金が入ったら、、、残念!!!絶対にこの方法では幸せになりません、、、、なぜならば今苦しい理由を分かっていないからです、今苦しい理由を理解できていないにも関わらずなぜ、、問題解決するのでしょうか????

幸福を目指すこの「自分」こそが、、、、

幸福を目指すこの自分、、、この自分こそが苦しいを生み出す元凶なのです、、、え????この自分が元凶だったら解決方法はないではないか????何を言っているのか?????残念!!!!!この自分は実は居ないんです、、、この世にこの自分は実在していないのです、、、、にも関わらず勝手に自分が居ると信じ切ってこの自分が幸福を捕まえようとするから苦しみが今起きているのです。

自分って何????

自分が居ない?????今この自分が景色を見ていますけど、、今自分がパンを食べていますけど、、今自分がYOUTUBEを観ていますけど、、、、、違います。。。それらの経験があるからこの体の中に自分が居るという勘違いが起きているのです。経験が100%ある、だからこそこの経験を所有する自分という存在、架空の存在をこしらえることに成功したのです。あらゆる経験に思考の湧き上がりが加わって自分が盤石に見えるのです。

今までも完璧だった

取捨選択してきたつもりが違った

これまでの人生あらゆる選択ミスもしてきたけど、、まあまあそれなりの人生かな、、、、残念!!!事実は違います、取捨選択できる個人などこの世に存在していません、取捨選択がただ全体か起こり続けただけです。つまりこの人生はある意味完璧なのです、、、こんなに苦しいのに完璧なのです。今の人生で完璧ならばこれから先もこんなものなのか???分かりません、、全く分かりません、、、ただこれまでのこの自分の取捨選択に一切のミスが無かったことが分かった時至福感が湧いてきます、そして今後の私ストーリーに対しても全くの不安が無くなる、、なぜならばそこに自己判断は一切ないからです。

今日の俺の決断はどうだったんだろう???

結局のところ、、、起きた事実に対し自分自身が評価を下し、自分自身を批判の対象に晒してきたのです。だからこそ他人の決断に対しても厳しくなってしまう、、、これがただ淡々と起こり続けのてきました、、、ですがもうこれができない、、、、自分で取捨選択していない、、そして自分も居ない、、、、全体からの起こりだけがある、、、この状況で誰を批判できるでしょうか???

これから俺はまともな判断を下していけるだろうか???

全く問題ありません、なぜならば今までも一つたりとも決断を下していないのです、、、今まで決断を下したことがないのならばこれからも無いだけです。つまり諸行無常、神羅万象に委ねていくだけなのです。この体はこれからもあらゆる物に触れ、あらゆることを感じ、あらゆる音楽を聞いていくでしょう、、、ですが本当にただそれだけなのです、、、この事実を空いととるか、至福ととるかです、、、それも全体からただ起きます。

病気から悟りに入る

病気を感じているのは全体

今私が病気である、、だから辛い、、これを感じているのは紛れもなく全体です。病気になったら休みますよね、自分活動を一切しないはずです。それは全体そのものになって病気を感じているのです。病気になると寝ます、寝れば思考が抜け落ち自分が抜け落ち全体に戻ります。すると病気が治りやすくなります。ただ休んで体を治すのではなく全体になっているという自覚を持つことで病気から悟りに入れます。

辛いの根底に至福がある

同じ病気でも本当に辛い時と至福に包まれた感覚を持てる時があります。自分が病気をしている、、、これが辛い、、ただ病気が全体から起こった、、、これは辛いを感じる至福の存在を確実に感じます。なぜならば辛いを感じている真犯人は全体、至福だからです。個人はどんなに「自己主張」しようとも結局は至福が作り出した劇場なのです。

全員が至福からは逃げられない

至福(全体)が作り出したこの自分ゲームですから最終的には全体(至福)に帰るしか道はありません、どんなに今病気で苦しくても、、全体(至福)からは絶対に逃げることができないのです。個人は今全体から分離したという錯覚が起こされ、、そこから苦しみのループに入り込んだだけ、、全体(至福)という落下シートが常に常に張り巡らされた綱渡りをしているだけです。

無意識という言葉の意味

意識が無い

無意識に何かをしてしまう、、自覚なく何かをしてしまうことを無意識と言ったりしますが、、、これは間違い、、、無意識とは、、、全ての言動を自分がやっていると勘違いしている状態です。。。????え、、、じゃあほとんどの人は無意識に活動しているではないか????そうです、、、ほぼ全員が無意識に生きているのです、、意識が無い状態で生きています、、、だから苦しいのです。

全ての言動は大いなる気づきの意識から起きている

実際には我々は全部を意識しています、朝起きて寝るまで意識が欠落することなど皆無です。ですが重要なポイントはこの自分がやっているという勘違いなのです。この自分が言動を作っている状態、、これが無意識です。本当は大いなる気づきの意識から言動が起き、それを大いなる気づきの意識が気づいているのです。この最重要なポイントを掴んで人と話をしてみてください、面白いことが起きます。

言葉が減ってくる

大いなる気づきの意識から言動は起き、それを大いなる気づきの意識が認識をする、、、このことに気づきますと、、無駄な思考が全く湧いてこなくなります。無駄な言動が減ってしまう、、、、ああだ、こうだの言動が減っていくのです。代わりに何が起きるか、、、大いなる気づきの意識としての自覚です。大いなる気づきの意識として「私」から出てくる言葉に気づくという気づきが起きます。

孤独感を感じているのも全体(至福)という大オチ

孤独感を全体が感じる????

孤独感を感じているのは誰でしょう、、、全体です、、個人ではありません、、、この世界で起こる全ての感情を感じることができるのは全体のみです。おかしい、、全体(絶対幸福)が孤独感など感じるのはおかしいではないか???そうです、、おかしいのです。全くもっておかしな現象が起きているんです。そしてこの現象を起こしているのも全体です。

個人は感情を感じる力などない

この全体の中に個人という全体とは関係のない存在が生まれるわけがありあせん、、、全体の中に「別個」の存在が生まれてしまったら全体が非全体になってしまいます。するとこの個人は100パーセント全体の表現、現象でしかありませんからこの個人風アートが体感する全ては全体が感じています。一見個人風アートが体感しているように見えても全部全体が経験しているのです。

それじゃあ目の前の泣きじゃくる老婆は本当は辛くないのか????

その通りです、、、老婆の感情を感じるのもこの全体です、、、全体以外に感じる存在は居ません。つまり私たちが見ている世界はスーパーマリオと全く同じだということです。マリオを操っている時、、クッパには感情は一切ありません、ピーチ姫にもありません、、ノコノコにもない、、、そしてマリオにもないのです、、感情を感じるのはプレイヤーです。。。。今回のこの自分劇場のプレイヤーは全体です。

全体は全体のままでは怒りを起こせない

全体は個人に成り切ることで初めて怒りを作った

全体とは至福です、至福が至福のまま怒りを起こすのは不可能です、、、怒りを起こすには一手間かかるのです、それが個人に成り切るという一手間です。。全体が「私」という存在、思い込みを作らなければ、、、閉塞感、苦しみを産めないので、、怒りも産めません、、、つまり人間が抱える怒りとはとてつもなく手間をかけなくては生じることができないのです。

先ずは個人に成り切る必要があった

先ずは個人というのを作らなくては怒りも作れません、、ということでこの個人を作らなくてはならないのですが、、、この個人が存在することを立証するには、、記憶が必要になります、、、存在しないにも関わらず存在しているという勘違いを起こすには記憶が重要になるのです、、それがこの見かけ上の脳です、、この脳が五感で感じる経験全てを見かけ上記憶し、、自分を作り上げたのです、、これによって毎日苦しいも生み出されます。。この勘違いは苦しいのです。どうしても。

そこに何か事件が起きると、、、

そこに何か事件が起きると、、、、怒りがこみ上げてきます、、、この事件は「自分」に向けられたものだという次の錯覚が起きるのです。友人が1時間遅刻してきた、、、この事件は「自分」に向けられるのです、、するといつも苦しい自分を通じて怒りが起きるわけです。ですがこれは勘違いの二重三重構造の中に起きていますし、、その感情を感じているのも全体(至福)ですから何も問題がないのです。

全体(至福)が怒りを感じる

神が怒りを感じる???

怒りを感じる神(至福)、、怒りを感じる全体(至福)、怒りを感じる空(至福)、、、なんかしっくりきません。それはそうです、なぜ至福が怒りを感じることができるのか????という話です。ですが実際には本当にこの現象が起き続けています。ストーリー上の個人は怒りを感じることは絶対にできません、感じることができるのは気づきの意識(至福)、全体(至福)、神(至福)だけです。そうなりますと至福と怒りを同時に感じることになってしまい、、これはおかしいのです。ですがこれは全然おかしくない、、、、ゲームをやっている際の怒りは楽しんでいます、映画の中での怒りは楽しんでいます、、、そうです、、怒りを至福の中で楽しむことができるのです。

ただのめり込んだだけ

我々の正体は至福ですからこの至福が怒りで手が震えて苦しいというのはおかしいのです。主語が至福なのですから、、、もしもこの至福が怒りにどっぷり浸かることができるとしたら個人に成り切るという憑依をしなくてはなりません。憑依芸レベルののめり込みをした際にだけ、、、怒りに酔うことができます。だから小学生よりも中学、高校、社会人と、、、怒りを押し殺して生きている人が増えるのです。

怒りを感じたら、、、

怒りを感じたら、、、、今この怒りを感じたのは誰か???と問うてみてください、、、それは気づきの意識、全体、神です、、至福です。至福が怒りを感じたんだなーと思っているうちに怒りが消えていきます。なぜならば至福は至福でしかないからです。主語を私から全体(至福)に戻すのです、、、怒りを沸き起こすには「私」の存在がどうしても必要であり、、、ですがこの「私」は捏造された存在ですから事実ではないのです、、だからいつだってどこだって全体、気づきの意識、至福に戻れるのです、、、そっちが本当だからです。

一日中他人を判断してたけど、、、

あの人はセンスが良い、、あの人は悪い、、、

あの人はセンスが良いなー、、あの人はセンスが悪いなーーー、、、ファッション好きであれば街を歩けばこんな判断を下しながら歩くはずです。。表参道を歩けば、、、センスが良い人が本当に多いなー、、、でもあの人はダサいなー、、、です。そしてその判断を下しながら、、、絶対に自分との比較を始めます。。そこ判断、そして比較が増えていきますと、、、なぜか苦しくなる、、、なぜか楽しくない、、、

全部が全体からの起こり

その人がどんな服を着てもそれを着させたのは全体です、、、全体からその服を選ぶがその人(ストーリー上)を通じて起きたのです。それだけです。ですからそれを判断する意味が全くないわけです。こんなセンスの良い人はきっと人格も優れているんだろうなー、、、、残念、、、、その人の人格は全く関与していません。勿論その人に話しかけてみたら、、、人格が良いが起こることもあるでしょう、、、ですがそれは話しかけたからそれが現象化したのです。

やっぱりそうだは、、、全部嘘

あの人は絶対に性格が良さそうだなーーーー、、、そして話しかけてみて、、、「やっぱりそうだ!!!」これ違います。。。性格な良さそうなあの人に、、、話しかけることで、、、、性格が良いあの人が現象化したのです、、、たまたま、、、話しかけるまでは、、、その人の人格は存在しませんでした。。。やっぱりそうだ!!!は全部間違っています。湧き上がる現象の全ては見かけ上のあなたが蓋を開いた瞬間に現象化しているのです。

あのタイミングで結婚しなければ良かった、、

離婚した人の多くは後悔をするが、、、

あの時もう少し考えていれば結婚を避けれたのに、、、、あの時もう一人のBさんを選んでおけば、、こんな悲惨な結婚生活を回避できたのに、、、、、残念!!!結婚するかしないかを決める自分は存在しません、全部全体からそれが起こりました。。もう少しだけ考えていれば、、、、違います、、、もう少し考えるが全体から起きなかったのです。

今回の離婚で多くを学びました、、、

いやー1回目の結婚では多くを学びました、、、やっぱり家庭的な奥さんが一番だと悟りました、、、、残念!!!今そのような思考が湧いていようと、、、それとは全く関係なくまた別の思考が全体から湧き、、、それとも全く関係ない誰かと結婚するが起きるのです、全体から。どこまでいっても学んだ「個人」は存在しないのです。学んで成長した個人は存在し得ないのです、、、この個人はこのゲーム、ストーリー上の見掛け倒しです。五感で感じる蜃気楼です。

結婚ってこういうものだから、、、君も気をつけて、、、

結婚生活10年の俺から言わせてもらうと、、、、「お金の管理は自分でやったほうがいいよ」、、、残念!!!結婚生活10年の俺も俺の奥さんも全ての言動は全体からただ起こっています。その結果として「お金の管理は自分でやったほうがいい」がただ起きたのです。誰一人この結婚生活に関わっていないのです、見かけ上はしっかり関わっていても。これで何を後悔し何を学ぶのでしょうか。

そうは言っても

病気の旦那さんが心配で、、夜も寝れない、、、

大丈夫です、旦那さんが今後病気が酷くなるか、改善するかは全体からの起こり次第、、あなたが心配してもしょうがないのです、、、、そうは言っても、、、、だって私の介護によって確実に体調に影響するじゃないですか????違います、、、あなたの行動すらも全体からただ起こるのです、手厚い介護をするか、、まあまあな介護をするか、、全くしないか、、、もしくは祈祷するか、、全部全体から起こるのです。私たちは完全に受け身なのです。

じゃあ心配して寝れないも全体から起こっているのでは????

その通りです!!!全体から起こらない動きはないのです。全部全体から起こっています、、その上でこの事実を理解すると、、、心配が起きなくなるのです。ここにおいても我々は完全に受け身です。我々が全体に無断で何かを起こすことは不可能です、我々が全体が関与しない場所で何かを勝手にするのは不可能なのです。これが事実です。

このメカニズムが腹落ちすると

このメカニズムが腹落ちしますと究極の安堵が襲ってきます、、、旦那にも自由意志はなく、私にもない、、責任を取れる人が一人も存在しない、、、犯人探しをしても犯人は絶対にでてこない、、、じゃあ誰が責任をとるんだ????全体です、、、全体の責任です、、、、、ですが全体も能動的にそれを起こしているのではなくただそれが全体から起こっただけで全体にも責任はありません。全部が受け身なのです。