全体は全体のままでは怒りを起こせない

全体は個人に成り切ることで初めて怒りを作った

全体とは至福です、至福が至福のまま怒りを起こすのは不可能です、、、怒りを起こすには一手間かかるのです、それが個人に成り切るという一手間です。。全体が「私」という存在、思い込みを作らなければ、、、閉塞感、苦しみを産めないので、、怒りも産めません、、、つまり人間が抱える怒りとはとてつもなく手間をかけなくては生じることができないのです。

先ずは個人に成り切る必要があった

先ずは個人というのを作らなくては怒りも作れません、、ということでこの個人を作らなくてはならないのですが、、、この個人が存在することを立証するには、、記憶が必要になります、、、存在しないにも関わらず存在しているという勘違いを起こすには記憶が重要になるのです、、それがこの見かけ上の脳です、、この脳が五感で感じる経験全てを見かけ上記憶し、、自分を作り上げたのです、、これによって毎日苦しいも生み出されます。。この勘違いは苦しいのです。どうしても。

そこに何か事件が起きると、、、

そこに何か事件が起きると、、、、怒りがこみ上げてきます、、、この事件は「自分」に向けられたものだという次の錯覚が起きるのです。友人が1時間遅刻してきた、、、この事件は「自分」に向けられるのです、、するといつも苦しい自分を通じて怒りが起きるわけです。ですがこれは勘違いの二重三重構造の中に起きていますし、、その感情を感じているのも全体(至福)ですから何も問題がないのです。

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