思考がこの「私」を時間の中に閉じ込める

思考が悪いのではない

今日はこれやって、あれやって、明日はこれやってあれやって、、、昨日はこんなことしなければ良かった、一昨時はあんなこと言わなきゃ良かった、、、ストーリー上の私は毎日こうやって思考します。思考の特徴は将来のために、、もしくは過去を振り返って、、、を繰り返すのですが、、、、このことがストーリー上の「私」を絶対的なものにするのです。「私」ありきというのが思考の特徴なのです。だから思考を自分のものだという勘違いが続くと苦しくなっていくわけです。

思考はただ湧く

思考はただ全体から湧き上がります、、、明日雨だから傘持たなきゃ、、、が湧きます、、、その後にいや持たないで行ってもしも降ったら買えばいいか、、、湧くのです。その時にこれって全体からただ湧いてるんだなー、、、という気づきの意識の感覚、事実をただ眺める感覚を持つと、、自分劇場に入り込まなくて済むのです。

そして行動も湧く

どれほど思考しようとそれとは全く関係なく行動が起きることがあります、、これが事実です。行動も思考とは全く関係なく起こっています、全体から。ですからこの私がこの行動に対し出る幕はないのです。将来は絶対に軽井沢に住むぞ、、と決めていても、、いきなりアメリカに住むが起こるかもしれません。そうです、事実はこうなっているのです。

ゲーム上この「私」は悟っていい

悟りなんて滅相な、、

私如きが悟りなんて、、、私が悟りなんてとんでもない、、、私が悟りなんて時期尚早です、、、この一見謙虚そうな発言こそが悟りの罠です。自我の罠とも言えます。謙虚というのは、、この私は、、大そうな者ではありません、、、という意味ですが、、、「私」が居ると言っているだけこれは事実ではありませんから傲慢な考え方なのです。「私」など本当は居ないのですからにも関わらず「居る」と言っているだけで傲慢なのです、虚勢です、虚偽です。

私は大そうなもの

本当の私はこの全体、空、色、、、全部ですから、、、大そうなものなのです。大そうなものが見かけ上の「私」になりすまし生きています、謙虚に。滅茶苦茶ですね、、、大そうなものが、、、この見かけ上の体の中に「私」が居るという思考を起こし私ゲームをやっているのです。だからこの見かけ上の私は悟っていいのです。最初から大そうなものだからです、そして今もその大そうなものです、、最初から大そうなものだったのです。

偽りの謙虚を辞める

そもそも見かけ上の「私」は大そうなものですから、、、この「私」ゲームで謙虚に振る舞う必要はないのです。勿論このゲーム上横柄に振る舞えば様々な弊害が起きるでしょう、ゲーム上。だからといって本気で謙虚になる必要はない、、本当は大そうなものであるという自覚をしっかりともって謙虚風に生きればいいのです。「私」の謙虚はこのゲームでは偽りで十分です。なぜならば私は本当は大そうなものだからです。

苦行の末に悟りを開く??

感覚だけを、、、

私は苦行というものがなんなのか分かっていないのではっきりした説明はできませんが、、苦行の末に悟りを目指す人々は、、、恐らく感覚を作り続けているのだと思います、、、山を上り、滝に打たれ、川を横断する、食事も粗食にし、断食し、、、、五感を作り続けていく、、、すると思考が自然と収まっていき、、思考が湧かなくなり、、全体と常に一緒になり、、、最終的に自我が崩れ落ちる、、、勿論これも現象ですから、、、そう見えているだけです。

ヨガも感覚を作る

ヨガは全身の感覚を作るのに最適です。ヨガは普段使わない筋肉を刺激し五感を開いていきます。五感が開くと思考が閉じます。五感を開きながら思考を湧かせ続けるのは不可能です。そして見かけ上のこの体の中に溜まって感情を発散していきます。見かけ上のこの体に溜まった感情を成仏されていきます。思考が湧きにくい体にするには五感を積極的に開いていくことが有効です。

五感が閉じれば、、思考が湧く

五感が閉じていきますと、、、思考が湧きやすくなります、、五感から通じた経験が無くなると、思考するという経験が起きるのです。思考という経験が悪いのではないのですがこの思考という経験は多くの場合「自分」という存在ありきであるために「自分」感覚を強化し結果苦しくなるのです。思考はこの「体」をサバイブさせるために発達したのでこの思考を野放しにすると「自分感覚」が強化され苦しくなります。

事実は優しい

事実は冷たくない

経験だけがあって現象だけがある、、、、こんな空い世界に生きて何が楽しいのか???真逆です、生まれたての幼児は見るもの触れるもの、香るもの、、全部から感動しているではないか、、、この現象に触れているだけで感動し至福の中に居るのです。我々はこの神が起こした現象に判断、分別を加え続け、、、切り裂きに切り裂き、、生命の息吹を完璧に抹殺して生きてきたのです。本当はそのように見えているだけで生命から生命を奪うことはできません。生命は生命以外にはなれないのです。

冷酷なこの世界を、、、

現実は厳しいよね、、、違います、、、そのように見えるまで判断を加え続けてきたのです。人は所詮信用できないよね、、、違います、、、そのように感じるまで判断を加え続けてきたのです。冷酷に感じるようになるまで判断をインストールし続けてきただけです。この現象、生命は、、、神そのもの、空の化身、、全体のアートですから、、それが冷酷である、、、、というのはそう見える現象になってしまっただけです。

熟睡から目覚めた時、、

熟睡から目覚めた時に、、、なんて冷酷な熟睡だったんだ昨晩は、、、、こんな感覚を覚えた人は皆無です。熟睡=至福=気づきの意識=空です。これが事実です。ここが安らぎの場所です。ここにいつでも帰れるならばもうこの現象界で、、、これが欲しい、あれが欲しい、評価を欲しい、称賛が欲しい、、、、が湧いてこなくなります。なぜならばその10000倍至福の場所を知っているからです。

相手が現象ならば会話に意味はあるのか???

意味はない

悩める友人の話を2時間聴き続け、、、友人の精神状態が回復したように見えた、、、ただ全てが現象ならば、、、それも全く無意味なのか???その通りです。友人が回復したように見えただけ、、、ただそれだけ、、、そのために2時間が使われただけ、、、、だとしたらしなくていいのか????勿論です。ですがそれをするしないを決める「自分」が居ないのです、、、どうするかは全体からの起こり次第です。

旦那さんが体調不良に

旦那さんが体調不良に、、こんな時妻として助けるべきだと思うが、、、旦那さんも現象ならば、、、助けることにも意味はないのか????そうです、ないのです。。ですが助ける助けないを決める自分も居ません、、、ただ全体から助けるが起こるか、助けないが起きるか、、助けるフリが起きるか、、助けるつもりが起きるか、助けてはみたもののが起きます。

全体は淡々と経験を回収する

全体はただ淡々と経験を回収します、、、「自分」が完全に居るという前提の経験も、「自分」は本当に居るんだろうか?という前提の経験も、、、「自分」は完全に居ないという前提の経験もです。経験には全くの優劣はなく、、、、この経験こそ素晴らしいはありません、、、現象に優劣がないのですから経験に優劣もないのです。ただ現象が起き、ただ経験が起きます。

現象に優劣はない

優劣などあってはおかしい

全体からの現象に優劣など存在しません、、昆虫よりも動物が優れている???花よりも草が劣っている、、川よりも海が優れている、、、あるわけがないのです。見かけ上のこの体にとって都合が良いか悪いかしかありません。見かけ上の体にとっては気温40度の砂漠は疲れます、見かけ上の体にとって塩水は塩っぱくて飲めないのです、、これだけです。見かけ上の体にとって都合が良いか悪いか、、、この判断が起きているだけです。

あいつはこうであの人はこう

全部この見かけ上の体にとって都合が良いか悪いかの話です。最悪だったあの人から1億円をプレゼントされたら良い人に変わってしまいます、、、卑劣なあいつから1億円をプレゼントされたらその瞬間から良い人に変わってしまいます。。。見かけ上のこの体は常にこういった判断を繰り返し一生を終えます。

そうしたらこれからどう生きればいいのか???

起きる全てを現象として捉え、、、それでもこの体を生かせていくだけです、、究極を言ってしまえば、、どう生きるかを決めることができる「自分」は存在しませんからただ全体からの起こりに身を委ねるだけです、、、そんな受け身な人生で何が面白いのか、、、残念!!!これまでも完璧に受け身だったのです、、ただそれを自分が考えて自分が行動してきたという勘違いが起きていたのです。勘違いが起きようと起きまいと、、ただこの起こりがエンドレスに続いていきます。

現象として、、

全ては現象として、、、

全ては現象です、、全ては全体からの現れです。見える世界は全て全体から現れています。するとこの体はどうか、、、当然この体も全体からの現れです。この色の世界で現れ以外の物はありません。現れですから消滅もします、、、いつ消滅するのか???それは見かけ上の私が右を見れば左が消滅します。左を見れば右が消滅します。上を見れば下が消滅し下を見れば上が消滅するのです。歩けば次々に視界が変わりますがこれぞ現れと消滅の繰り返しです。

全ては現象なのは分かった、、

全ては現象であることは分かった、、ではなぜ今それを見ることができる「私」が居るのか???私も現象ならば「見る」「触る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」ができないではないか???そうです、できません、、、出来ているという錯覚が起きているのです、全体から。「見る」「触る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」ことができるのは全体だけです、私ではありません、、、つまり全体が「見る」「触る」「聞く」「味わう」「嗅ぐ」をしているにも関わらずそれをこの「私」が感じているという錯覚が起きているのです、全体から。

全体は全部受け身

見る、触る、聞く、味わう、嗅ぐ、、、、は能動的な動きに見えますが、、実は全部受動的な動きです、、、みえてしまう、触れてしまう、、聞こえてしまう、、嗅いでしまった、、です。この経験の全てを、もしくは一部を、、能動的に私が「した」という勘違いが起きているのです。本当は「私」に自由意志など一切なく、全体から湧くしか起き得ません。

それでも自由意志にしがみつく自我

自我最強兵器「自由意志」

自由意志なんてないんですよ、、、この言葉に多くの方は激情します、怒り、がこみ上げてきます。。なぜならば自由意志を否定してしまったら自我は存続できないからです。自由意志があるからこそ「自我」はこの体の主人を気取ることができるのであって自由意志がないと証明してしまったら自らの存在を抹殺することになるからです。その手の情報をホイホイと聞くわけがないのです。

記憶が「自我」を確固たるものにし、、、

自我の最強兵器は「記憶」と「自由意志」でしょう。この二つは自我を盤石なものにします、、記憶、自由意志がある、、これで自分の存在を疑う者は皆無になります。こうやって人間同士はお互いの体の中に「自分」が居るというゲームを繰り広げるのです。このゲームが楽しいだけならいいのですがとんでもない、苦しいのです。楽しい時すら苦しいのです、苦しい時も苦しい。いつも苦しい。それは「自分」という存在がこの苦しみを起こすツールになるからです。

自由意志があっても苦しい、、、

百歩譲って自由意志を認めることにしましょう、、ではそれでこの苦しみは無くなるのか、、、絶対に無くならない、、、、それも分かっています。じゃあ自由意志が無いを認めてしまえばいい、、、自由意志がないを認めてしまえば楽になる、、、、でもどうしてもそれだけはしたくない、、、なぜならば今までの功績が全部無くなってしまう、、、あの時の努力、あの時の辛抱、あの時の忍耐、、、、だからできない、、、

筒人間ならば野生動物と同じではないか???

その通り

人間がただの筒で、、全体からの起こりを通すだけの存在、、言動全て全体からの起こりを通すのみ、、だとするならば、、、意志を持たない野生動物と同じではないか????意思を持たない昆虫と同じではないか???その通りです。全くもってその通りです。人間の方が昆虫よりも優れて、、、全体の表現、アートに、、優劣などあるわけがないのえす。人間も野生動物も昆虫も自由意志など一切なくただ全体の起こりを表現しているのです。

それが素晴らしい

自由意志がなく、、ただ全体からの起こりを全現象が表現しています。ここに「自分」が居るという思考が全体からやはり起こることで、、自分劇場がスタートします。この「自分」はあらゆる経験をかき集め、あらゆる知識をかき集めることで、、価値観を形成していきます、、、この価値観は記憶ですから、、全体、空に収められていきます。そしてこの価値観を通じてこの現象界を眺めることで、、、エネルギー、生の揺れ動きの中に別個分別しているかのうように見える存在(現象)が現れるのです。

価値観を通じた現象に善悪はない

「自分」の価値観を通じた現象に善悪は全くありません、、ですが「自分」にとっての善悪は存在します、自分にとっての良否は存在します、自分にとっての優劣が存在します。これが分別です。この分別で周囲を縛り自分を縛ることでこの自分劇場は生き辛くなっていきます。よくわかんないけどなんか生きるのって辛いよね、、になります。

価値観分別劇場

この世界、価値観分別劇場から離脱するためには、、本当は何が起きているかを知って触れるしかありません。価値観分別劇場の中で真実にもう一度触れて、、真実を思い出すしかないのです。マトリックスの中でNEOは徐々にこの気づきを得ていきます、現象(エージェントスミス)に何度も取り込まれそうになりますが、、その中でも徐々に真実を発見していくのです。

事実の前に観念は崩れ落ちる

観念も湧いてくる

観念すらも湧いてきます、観念とはこの見かけ上の「自分」が経験したことと知識を混ぜ合わせ一体化したものです。観念とは記憶から成り立っていますからこの記憶が見かけ上の脳内に内臓されます、、しかし実際にはこの現象界は全部現象であって事実ではありませんから、、観念という記憶は全体、空に保存されていきます。そして何かのタイミングでこれが湧き出てくるのです。

「自分」の存在に対する理解が深まると

自分という存在、理解が深まりますと、、、観念が湧いてこなくなります。なぜならばこの世界、現象界で起こることは全部全体の現れであり、、そこに良否、善悪、高低などあるわけがないのです。全体のアートに良否があるならば全体は欠陥品になってしまいます、全体のアートに善悪があるならば全体は粗悪品になってしまいます。ただ淡々とこの目の前に現象が起きているだけなのです、そして目の前という言葉も実は間違いで、、その目も現象ですから、、実は存在しません、、ただ現象だけが在るのです。

ただ現象だけがあって、、この自分も実在しないならば

ただ現象だけがあって、、この自分も現象、、実在しないならば、、現象のみ、、終わりです。すると一々判断を下してきた存在(自分)が居ないのですから観念も崩れ落ちます。観念が湧いてこなくなるのです。というか自分在りきの観念は一掃されます。ただ現象の揺れ動きだけが残ります。ただ全体の表現だけが残ります、至福がそこに漂うのみです。