事実の前に観念は崩れ落ちる

観念も湧いてくる

観念すらも湧いてきます、観念とはこの見かけ上の「自分」が経験したことと知識を混ぜ合わせ一体化したものです。観念とは記憶から成り立っていますからこの記憶が見かけ上の脳内に内臓されます、、しかし実際にはこの現象界は全部現象であって事実ではありませんから、、観念という記憶は全体、空に保存されていきます。そして何かのタイミングでこれが湧き出てくるのです。

「自分」の存在に対する理解が深まると

自分という存在、理解が深まりますと、、、観念が湧いてこなくなります。なぜならばこの世界、現象界で起こることは全部全体の現れであり、、そこに良否、善悪、高低などあるわけがないのです。全体のアートに良否があるならば全体は欠陥品になってしまいます、全体のアートに善悪があるならば全体は粗悪品になってしまいます。ただ淡々とこの目の前に現象が起きているだけなのです、そして目の前という言葉も実は間違いで、、その目も現象ですから、、実は存在しません、、ただ現象だけが在るのです。

ただ現象だけがあって、、この自分も実在しないならば

ただ現象だけがあって、、この自分も現象、、実在しないならば、、現象のみ、、終わりです。すると一々判断を下してきた存在(自分)が居ないのですから観念も崩れ落ちます。観念が湧いてこなくなるのです。というか自分在りきの観念は一掃されます。ただ現象の揺れ動きだけが残ります。ただ全体の表現だけが残ります、至福がそこに漂うのみです。

(Visited 8 times, 1 visits today)