明るい未来を夢見ることで今が暗くなる

明るい未来を夢見る理由

なぜ人は明るい未来を夢見るのでしょうか、、それは今が苦しいからです。。。なぜ人は明るい未来に向けて毎日努力できるのか???それは今が苦しいから、、これ以上苦しくなってしまったら大変、、なんとかして今よりも明るい未来にしがみつこう、、、です。本当は今ここにダイアモンドのような現象があります、本当はこの場所に至福そのものがあります、、すると遠い未来に興味が無くなるのです、、、遠い未来ではなくなぜ今ここにあるはずのダイアモンドが見えないかに興味が湧きます。

今目の前にあるダイアモンド

今目の前にあるダイアモンドの存在をダイアモンドははっきりと分かっています、にも関わらずこの個人の人生は苦しいぞ、、、それでは将来は絶対にダイアモンドのような状態にしてやる、、、これが個人に成り切ったダイアモンドの発想です。ですが本当は個人を抜け落とせば直ぐにダイアモンドに戻るのです。個人としてダイアモンドを成し遂げてやる、、、それも分かる、、ですが個人としての視点こそがこの苦しみ、分離感、孤独感を起こしているのです。

今この場でダイアモンドに至る

この場にはダイアモンドしか存在していません、今です、、ですがここに個人が居るという錯覚が起きることで苦しみが溢れてきました、、ただそれだけが起こったのです。。今もここにはダイアモンドしかないのですが、、思考としての自分、自分ストーリーがダイアモンドの中で起きてしまったのです。そしてこの自分がダイアモンドのような人生を歩むぞとという次なる欲求が生まれました、ダイアモンドから。

自我は覚者を脅威に感じる

自我にとって覚者は大敵

自我が強固なシステムになっている見かけ上の個人は、、覚者の存在を大いに恐れます、、、それは当たり前の話で、、、本当は存在していない自我にとってそれを見抜きさらにその事実を突きつけてくる行為は殺人と同じだからです。ですが本当は自我は存在しないのですから殺しようにも殺せません。錯覚としての自我が徹底的に覚者の存在を否定するのです。

覚者の扱いに困る自我

覚者とはこの体の中に自分が居ないことに気づいた全体のことです、、この体の外に全体がありこの全体がこの体を便宜上使ったゲームをしていることに気づいた全体です。。。見かけ上は人の体をしていますが主語は全体です。この全体は自我に話しかけます、、、それはないんですよと。。。お前はもう死んでいる、、、こんなメッセージを伝えるわけですからそれは嫌われるわけです。世界一嫌われる人種でしょう、覚者とは。誰もそんなメッセージは聞きたくないに決まっています。

覚者の重箱を突く自我

自我は覚者の重箱の隅を突くでしょう、、、悟ったならばお金がないのはおかしい、悟ったならば成功していなければおかしい、、悟ったならば独身なのはおかしい、悟ったならば性欲があるのはおかしい、悟ったならばお酒を飲むのもおかしい、、とですがこれこそが最後の抵抗です。本当は、、、ただ全体から起こりが言動が起きているだけ、、、その起こりが見かけ上のこの体を通じて起きていることに気づくことだけです。

現象に優劣はない

起こる現象に良否の判断を加え続ける

起こる現象に良否など全くありません、、個人という存在をでっち上げた時に初めてこの個人にとって良いか悪いかの判断が始まるのです。個人という存在をでっち上げたのは誰か、、、自分ではありませんよ、、全体です。全体がこの全体内に個人をでっち上げた現象化させた、想像したのです。。。これによってこの個人にとって良い現象、悪い現象が起きているように見えているのです。ですが本当はただの現象ですから個人にとって良い現象と悪い現象は半々起きますから人生とは不自由、不具合、非完璧なのです。これがカラクリの全てです。

なぜこんな簡単な理論が理解できないのか???

こんな簡単なカラクリ、こんな簡単な理屈がなぜ個人には届かないのでしょうか????そこに意味はありません、、ただ事実だけを説明すれば個人というプログラム、観念は非常に強いということ、、見かけ上の脳の発達はこの見かけ上の体を維持しようと強く働くよう現象化し、、全思考、全行動がこの見かけ上の体を保持するよう連鎖反応するのです。この連鎖反応を止める個人がいませんからこれは長丁場になるのです。

このメッセージは個人にはパニックになる

24時間この個人のために全言動が作動しているにも関わらずこにの体の中に自分が居ないというメッセージがこの体に届けられるとパニックが起きます。裸の大様についに服を着ていないよ、、と発言した子供のような状態になります。。絶対に言っては行けない事実、、この体の中に自分は居なかった、、、ヒョエーです。ですがこの体の中に自分が居るゲームにほとほと疲れはてていた場合、、、このメッセージが届きます。。裸の王様も心の中で安堵が生まれます、、、ようやく服を着れると、、、

決まっている、決まっていない論争

どこを主語にするか、、、

自分という存在が居るという前提話をもっていきますと、、、全ては決まっていません、、その人を通じてただ全体から起こりが起きているだけです。全体から起こりが起こることは「決まっています」。このシステムは決まっているんです。化学反応(全体)から何かが起こることは決まっています。全体が常に揺れ動き変幻自在の現象が起きることは決まっています。個人の立場に立ってみれば次に何が起きるかは全く決まっていません。

自由意志があるように感じることが起きた

コーヒーを飲むぞ、、コーヒーを作った、、そして飲んだ、、、、この流れは完全なる自由意志です、、これを否定できる個人は居ないはずです、、、だからこの世界は苦しみに満ちます。。。しかしながらこの一連の出来事がただ全体から起こったとして誰がこれを否定できるのでしょう。できないのです、、どこまでいってもこれを否定できない、、、

何も決まっていない、、自由意志もない、、

何も決まっていることはなく、、自由意志もない、、、絶望的なこのメッセージが悟り、ノンデュアリティです。個人にとっては絶望的すぎるこのメッセージ、、これが悟り、ノンデュアリティです。ですが見かけ上のこの私はこのメッセージが大好きです、安心します、平和になります、もう戦わなくていい、、安堵感が込み上げてきます、、至福に包まれます。

世界情勢について

全て現象の現れ

コロナもリーマンショックも、震災も全部全体の現れ、現象です、生命の現れです。この表現に優劣は一切なく、困窮も救済も一切なく、、そう感じるのは全部個人です、、、ですからありのままに現象を観察しましょう、、目の前でコロナ、リーマンショック、震災が起きていなければ、、、起きていません、現象として、、、これだけが事実です。。。では何が起きているのか???それが起こったという情報だけが出現しました、、ただそれだけ。

ニューヨークで震災が、、、

という情報が目の前で起こりました、Yahooニュースで。これは時事ではないのです、、、ですからこれに深刻になるのは馬鹿げています、、、勿論この見かけ上のこの体がニューヨークに行けば震災が現象化します、ただそれだけ、、これを見て深刻に捉えるかどうかです。目の前で起こった事実だけが世界情勢です、、世界情勢は今目の前で起こったことなのです。

ガストで店員と客が揉めている、、

今目の前で店員と客が揉めている、、、この事実だけが世界情勢です。この世界情勢に対し、助ける、通報する、、無視するという決断が湧いてきてこの世界情勢に対応します、、、対応するのは全体がこの私を通してです。店員と客が揉めるのもこれもただ全体から起きました、、、これを深刻に捉える必要もありません、、通報して逆にお店に迷惑をかけてしまった、、これも全体からただ起こったのです、、、深刻になれない、、

活躍したい、、、これも自我延命システム

活躍したくて何が悪い???

将来はサッカー選手になって活躍したいです!!これは微笑ましい子供の言葉です、、、ですが実はこれも自我の延命システムが働いています、、、なぜ活躍したいのか???なぜ???今が苦しいからです、、、なぜ国公立大学に入りたいのか???今が苦しいからです。。。そうです、、活躍したいも執着、、これは苦しみを解消してくれる可能性を秘めたことなのです。

反省します、、、

今日の自分の不甲斐ない働きを反省する、、今日食べすぎて反省している、、、この反省も自我の延命システムです、、、反省するという一見謙虚な姿勢こそがこの罠を見え辛くしています。反省するのはいつも自分、この自分の自由意志があり、この自由意志を良い方向に使えなかったことに対し反省しているのです。残念!!!!自由意志はありません、、全部全体からの起こりです。反省するためにはこの事実を無視するしかないのです。

個人はいつも延命装置に乗っかる

個人の延命装置は人によって様々、、、目標を持って延命するか、、反省して自分を作り上げるか、、将来を悩むことで、自分を保持するか、、、、思考は全てこの「個人」ありきの活動をしますから、、、個人と思考は大変相性が良いのです。個人ありきのこの思考をスパッと辞めてみるとどうなるか、、、突然至福に包まれます。何もしなくても至福に包まれます、個人が包まれるのではありません、、至福の漂いを至福が感じるのです。

日本は合わない、、海外へ

どこも全部全体の現れ

日本よりも海外が合う、、これが起こることは当然あります、、ですがこの日本も紛れもなく生命の現れそのものです、、そこに気づきが起こらず、、、ただこの苦しい国日本を逃げても、、、海外も苦しい、、、可能性があります。。。。日本は神の国、、違います、、全部が神の国です、、、日本には天照大神が居て、、、違います、、、、全部の国は神の表現です、、、

ただそれが起こる、、、

海外に住みたい、、、この衝動も神から起こっています、、、何の問題もありません、、、そして海外にいざ出陣、、、これが神から起きました、、、そこに介在する個人は居ません、、、個人が居るという神の勘違い以外は、、海外旅行ばかり行っていたが最近それほど楽しくない、、、最初は無我夢中になれて至福に包まれますが、、、それが当たり前になると無我夢中になれない、、つまり無我じゃない、、至福じゃない、、です。

無我は今ここでなれる

無我とは今ここで入れます、、今何かに集中しきると、、、無我に入ります、、、今ここで、この感覚を掴むと海外に行かなくてはという焦燥感が抜けていきます。常に至福に包まれてきます、、、全てを全体からの起こり、言動も神の起こり、周囲も神からの起こり、神そのもの、、これに気づくと、、ただそこに居るだけで、、至福に包まれます。自分も周囲も神の表現、、全部を神が回収している、、、そして全てに気づく自分は実は神だった、、、神以外だった時は無かった、、という気づき、、海外も日本も神そのもの

大変とは「大きな変化」

個人は大きな変化を大変と表現する

個人にとって大きな変化は大変です、パニックです、驚愕します、、、、この体を安全に生き伸ばすことに働く思考にとって大変な状況はフル稼働します、、、ですがこの大変、大きな変化は現象界が大きく動いているように見えているだけです、、現象はただ揺れ動くのみ、生命はただ起こり続けます、、、この生命の揺れ動きを個人の価値観というフィルターを通じて観察した時に大変が結構起こるのです。

大変に飽きる

私たちはいったいいつまでこの大変に真剣に向き合えばいいのでしょうか、、、大変、、、変化は常に起こり続けますから、、、大変に反応するのはもういいのではないか、、勿論これも全体からの現れです。大変なのはいつも個人です、、この大変に巻き込まれる個人が大変なのです、、、ですがこの個人は実在しませんから、、大変は個人の所有物なのです。

大変そのもの

我々は実は現象界そのもの、現象そのものですから大変そのものなのです、、、そこに巻き込まれる個人ではなく個人を巻き込んできた大変の方だったのです。では巻き込まれてきた個人は誰、、それも大変を観察する一部、大変そのものなのです。これからは大変になり切って大変そのものを経験する、、すると大変の中で完全なる至福が湧くのに気づきます。驚愕するように見える周囲の中で至福に至れます。

全体として存在しなぜ人の言葉で傷つくことができるのか???

無我夢中の状態で

何かに没頭して無我夢中に、、、この時至福に居ます、全体に居ます、神に居ます、、この状態で誰かから悪口を言われた、、、、気にならない、、、なぜならば既に至福だからです。至福に居るとは現実離れではない、、、いや現実という現象の中で、、、現象そのものになっている状態です。その悪口すらも現象の現れ、、、気にならない、、、悪口そのもの、、、です。

批判を気にするスターは、、、

批判を気にするスターは、、、全体になりきれていない、、、、成し遂げた功績をこの個人が所有している、、だから苦しい、、、この時に批判を受けると、、、テンパってしまう、、苦しさが重なる、、、功績よりも無我に入るそのことこそに至福を覚えるならば、、、周囲に対する関心が薄くなる、、結果批判も気にしない、、、

自我全開プログラムを脱す

悟りとは自我全開プログラムが落ちることです、、このプログラムは非常に強固で簡単にはアンインストールされません。ですからゆっくりゆっくりこの自分はプログラムであり、、このプログラムを紐解く必要があるのです。音楽とは音の組み合わせであり、、、これに実態はありません、あの曲が好き、、という時、、それは異なった音の組み合わせのことです。。。。この自分というプログラムも、、、言語の組み合わせで形成されており、、実態がないのです。音の組み合わせです。。。

だからこそこう生きよう、ああ生きようとは真逆

もっと自然体で生きようよ、、、、、アベシ、、、、こんなメッセージが一切意味をなさないのは、、、生きるのが個人だからです。。。そうではなくこの個人をいかに解体させるかです。。。今を生きよう、、、、、ヒデブ、、、、今を生きるのが個人ならば、、、何を今やっても苦しい、、、個人に向けたあらゆるメッセージはその瞬間の幸福を得れても、、しれは全て一時的なまやかしです。

あれを伝えないと。。。

会ったらこのことを伝えないと、、

次にあの人に会ったらこれを伝えなくては、、、こ話をしないと先に進まない、、、思考は人間関係の中でいかに優位に立つか、、、一生懸命この個人を守るために働きます、、、そして確かにその効果がある場合はあります。あざとい、小賢しい、、思考があまりにその個人のために目先に走る時に出る言葉です、、ですが個人の存在に騙された状態で生きる人は全員実は小賢しいのです。そうならざるを得ないのです。

次々に思考は個人の損得を計算する

この行動が一番損をしないのでは、、この言動が今回は一番得だ、、、全部個人にとってです、私にとってです、、、ですが今苦しみを湧き出しているのが「この個人が居る」という感覚です。損得感情をフル発揮しようと、、この苦しみを作り出しているのは紛れもなく「個人」の存在なのです。こん矛盾にいつ気づくかです。覚者は悟りこの個人延命プログラムの罠に気づきました、、自由意志があるという大勘違いを前提に、、次々にプログラムが発動されます、、思考というプログラム、、、

思考プログラムがフル発揮しても、、、

思考プログラムは、、、個人を幸福にしようと、、、働きますが、、、実はこの「個人が居る」というプログラムこそが苦しみの根源だった、、、アベシ、ヒデブ、、、、です。そうです、、、全く見当違いなことが起こっていたのです、全体から。幸福にしないといけない個人はそもそも居なかったのです。勿論それでもこの体を食べさせなくれはならない、、これも事実でしょう、、、ですがそれと苦しみには何も関係がないのです。