普通でいい、、も執着

普通の暮らしでいいんです、の罠

普通の暮らしでいいんです、、これも自我の執着です、、、自我の生存戦略です。普通が出る杭ではないから安全でいい、、が隠れています。普通が一番安全で長生きできるが隠れています。ですから普通の暮らしをしていても苦しいが湧いてきます、、、だから普通じゃない生活をしている人の失敗に異常に感情が芽生えます。芸能人、著名人のスキャンダルに異常に反応を起こします。

普通を目指す自我の生存戦略に気づく

普通を目指す自我の生存戦略に気づきの意識として気づきます、、しっかりとそこには戦略があることに気づくのです、気づきの意識として。その戦略を気づきの意識として気づきます普通への執着が緩みます、苦しみが減ります。自我の無意識の動きに気づきの意識として気づくと苦しみが減るのは、、、気づくのが気づきの意識(至福)だからです。

気づくのはいつだって気づきの意識

何かに気づくのは全部気づきの意識です、、、だからどんどん楽になる、、、友人が多いからって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、お金を持ったって幸福じゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、名声を得ても幸せじゃない、、これに気づいたのは気づきの意識です、、、、自我の無意識な執着が溶けていきます、、気づきの意識が自分ではなく気づきの意識そのものに意識が向く時間が増えます。この自分に意識を向けても苦しいだけ、、この自分が何かを達成しても苦しいだけという気づきが気づきの意識から起こります。

自我の共存共演作戦

相手の自我を刺激し共存共栄を

自我は相手の自我を刺激し、、共存共栄を図ります。喧嘩を吹っかけて反応を期待します。反応が起これば占めたもの、相手との喧嘩に自我は実は大喜びします。結果は自我無しでは成り立たないからです。相手は私の体の中の自分を標的にしますから強烈に自分を意識することができるのです。体の中に自分が不在の状態で喧嘩を吹っかけてくることはありません。

相手の作戦に乗らない

喧嘩をふっかけてくる相手にはどう対応をすればいいのか???先ず相手の体を通じて喧嘩を吹っかけるが起きました、、ここ重要です、、そこに相手の自由意志は全く関わっていません、、その現象が起きたのです、、するとそこに関わるか否かにおいて感情が湧きてきません。そして究極を言ってしまえばそこに反応が起きるか否かも全体からただ起こります、、そこに自分の自由意志はないのです、、、この事実に気づくことです、、この事実に気づきの意識として気づくのです。

喧嘩のふっかけに乗っても全く後悔しない

喧嘩のふっかけに思わず乗ってしまった、、、相手に自由意志はないのに、、そこは分かっていたのに、、そうではないのです。。そこにこの体がどういう反応をするかも自由意志はないのです、、自由意志がない同士の反応が起きただけです。起きた結果に反省が起きるのは、、こちらに自由意志があると思い込んでいるからです。ここに気づきます、気づきの意識として。

ノンデュアリティとは自我研究、自我解放

自我のあらゆる幸福探求は失敗に終わる

ノンデュアリティが自我を解放します、、ノンデュアリティが自我に意識が向かなくなること、これが悟りです。ノンデュアリティが自我に意識をフォーカスする時、、苦しみが生まれます。非二元が二元の世界を体験します。そのためのツールが自我です。真我が二元を体験する時に自我に意識を向けます。意識が非二元ではなく二元を経験する時に自我に意識を向けます。これは至福による苦しみ体験です。よってこの経験は苦しいことが完璧なのです。

自我とは苦しいがデフォルト

私は苦しくない、、私は苦しいを全く感じない、、、嘘です。。この私こそが苦しいを生み出すフックだからです。真我が自我に意識を向けることで二元の世界が起こり、苦しみが湧き出すのです。真我は真我のままでは至福そのものであり、、至福を体験できない、、、自我を通じての至福の再発見こそが真我の目的です。だから自我は真我を見つけるまで苦しいのです。真我が自我に成り切り(意識を集中し)苦しみからの解放を湧き出させ至福への渇望が起き、至福を探し出し、、そうだそもそも真我(至福)だったという気づきを得るのです。

世間一般でいう幸福を手にし全く満たされないことを知る

多くの人が羨むような生活を一度でも手にしてみれば直ぐに分かります、、全く満たされないことが、、、ここでの絶望こそが、、、真我への興味が起きます、、そこにしか至福がないことを悟ります。自分が何かを手に入れるでは絶対にそこには到達できない、、獲得ゲームではない、、、至福とは手に入れるのではなく、、自分を落とすこと、至福が至福であったことを思い出すことしかない、、その気づきが起きます。

損をすることを嫌う自我

損得の世界に生きる自我

30円でも安い店で買い物をする、、なぜか???自我は損をするのを極端に嫌います、、なぜか???思考は全てこの体を有益にするための僕だからです。この思考とこの体を同一視すれば、、、そのような行動になるのです。。他の人は得をして自分が損をするのが許せないのです。自我は比較の中で幸不幸を判断します、だからいつも得をしていたいのです。自分とはそういう存在なのです。

だからいつも苦しい

自分は常に苦しいのです、、その苦しみを比較の中で起こっていると勘違いします。他の人よりも安いアパートに居るから苦しい、他の人よりも給料が安いから苦しい、他の人よりも太っているから苦しい、、、、と全部が全部この調子です。ですが実際には自分で居ることが苦しみを生み出しています。

本当の苦しみの原因に気づく

気づきの意識がいつでもあり、その中に自分という存在が後天的に発達しました、この自分を気づきの意識が意識することで苦しみが生まれます、、このことに気づきの意識が気づくことです。自分には自由意志があり、自分には決断力があるという勘違いが後悔、反省、期待、緊張を生み出します。これが勘違いであることを気づくことです、気づきの意識が。自分が気づくのではありません、、自分など存在する前から確実に存在していた気づきの意識が今気づくのです、これで苦しみが今消えます。

今意識がある、、この意識が「自分」を意識することで苦しみが生まれる

自分という名詞を意識する気づきの意識

私を意識する気づきの意識、、自分を意識する気づきの意識、、〇〇○太を意識する気づきの意識、、、気づきの意識はたった一個しか意識を向けることができません、、、私に意識をすればそこにのみ意識が向きます、、、あらゆる経験は本当は気づきの意識がしていますが、、その経験の全てはこの私に意識が向いていきます。。。経験をしたことになった、、、私に意識が向くのです、、、

本当は経験しかないことに気づきの意識に気づかせる

目を閉じてコーヒーを飲めば分かります、、そこには飲む自分もコーヒーカップも存在せず、、、何かを何かが「感じる」しか存在しません、、何かは実はなく、、感じるしかないのです、、、どの辺り、、口になりますが、、それもないのです。口は名詞です、、、感じるは動詞です、、、感じるもない、、、経験しかないのです。。。経験も名詞、、経験という名前をついていない、、気づきがあるだけです。気づきの意識の気づきしかないのです。

これしか常にない

目を閉じて歩けば、、、足のアスファルトを踏み締める感覚だけがあります、、ですが足というのは名詞です、、アスファルトも名詞です、、ただ踏み締めるだけがあります、、、踏み締めるは動詞です、、ただこれがあります、、、、自分があらゆる物、人に囲まれてあらゆる経験を積んでいると思っていますが事実はこれしかありません、、気づきの意識がこれに気づいているだけです。気づきの意識がこれに気づくだけ、この世界に苦しみが湧きようがないのです。

上手くいくことでストーリー上の自分は勘違いする

自由意思万歳

ストーリー上私が上手くいくことは当然あります、、この時私は自身の自由意志に圧倒的な自信を持ちます、ストーリー上、、、私の自由意志に対しです。ですがなぜか苦しい、なぜか緊張感が走る、、、上手く行っているにも関わらず苦しいのです。上手くいけばいくほどに上手くいかせた「自分」に意識が向くわけです、自分に気づきの意識の意識が向くようになります、自分に焦点が合ってしまいます、、結果苦しみが湧き出します。

気づきの意識をどこに意識させるか

気づきの意識が気づきの意識そのものとして経験を意識しますと、、、至福に包まれます。気づきの意識が見かけ上の自分として経験を積むと、、苦しみが湧きます。。。自分の存在を忘れるぐらいに行為に意識が向くと至福が生まれます。幻想であるこの体の中の自分に意識が向けば行為に意識が向きませんから集中できません。何かに集中できるというのは自分を解脱してでこそです。気づきの意識そのものとして行為に意識が向くことを全集中、無我と呼びます。

苦しみのメカニズムを腹落ちさせる

後天的に発達した「自分」とは気づきの意識をこの名前に意識を向けさせるトレーニングの賜物です。何度も名前を呼ばれることで気づきの意識がここの意識します。するとこの自分としての視界が広がり、、そこには名前が付けられた独立分離した世界が広がります。花があり、コップがあり、PCがあり、TVがあります、、全部名前を覚えた物達です。ここに入ると苦しみが湧くのです。このメカニズムに気づく視点が湧いてきますともうここに取り込まれることができなくなります、、自分に取り込まれているに気づきの意識が気づくが起きるのです。

悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明

苦しいのはなぜか???それは苦しみのメカニズムに気づいていないからです、気づきの意識が。。。。悟りとは苦しみのメカニズムの完全解明が起きることです、気づきの意識に。この自分が見て、触って、飲んで、歌っって、聞いて、味わっているという錯覚が起こることでこの苦しみが起こりました、、この事実をどこまで見破れるかです。気づきの意識がどこまでこのメカニズム解明に気づくかです。自分ではなく気づきの意識に気づきが起きるかですからどこまでいってもこの自分は無力なのです。

スピと悟りの関係

スピは自我を緩める

物質史上主義の人にとってスピは自我を緩めてくれる大きなメリットがあります、、目に見える世界が全てという価値観の人にとって目に見えない世界を見せてくれるスピの世界は重要です。私は江原さんのスピ系の書籍を読むことで現世に対する執着が確実に緩和しました、、現世において絶対に失敗したくないという執着が減ったのです、これによって今世は今世として徹底的に楽しもうという感覚にリセットできました。

自我が緩めば、、

自我が緩みますと、、逆に今世を徹底的に楽しんでやろうという思いが募っていきました、、結果願望実現系のメセージに傾倒しそこに逆に執着していきました、、、今世を安全に生きることに興味がないん分、徹底的に成功することに執着が起こったのです、、ですがそうは問屋が卸さない、、成功が約束された道などないのです。

成功を諦めた次に

成功というのは自身の興味と事業の方向が一致しなくては難しい、ですがこればかりは自身ではどうにもならない、、なぜならばそれを決めることができる自分が存在しないからです。運任せ風任せなのです、、、事業成功に興味が薄れた自分は悟りへの興味を募っていきました、、スピによって自我が緩み、、悟りへの階段を確実に進んで行ったのです。

力が抜けてしまうという副作用

もう頑張らなくていい、、という脱力

全体から全部の言動がただ起きている、、、この事実を突きつけられますと、、、もう頑張れない、、、だってそこに自分がいないのです、、頑張ってきたと思っていた自分が居なかった、、、もう何も無理ができない、、サレンダー、、、今日はこれをやって明日はこれをやらなきゃが、、、出てこない、、、究極の脱力、、これが悟りです。。いやそんなんじゃ生きていけないのでは、、、違います、、今までも全部全体からの起こりが起きていただけです。

頑張らなくては、、、という自我が抜け落ちる

頑張らなくては、、、これが起きることも当然あります、全体から。ですが自分が頑張らなくては、、がない。。。。この違い、、、全責任を自分が背負っていた重責、重さがガッツリ抜け落ち、、、ただ頑張るが起きれば頑張る、、やる気が起きればやる、、、ただそれだけ、、、そこに自分は居ない、、、、拍子抜け、脱力、無力、、、

行動に対する思考の分析が消える

この行動に対し、なぜこんなことをしてしまったのか?もっと良い方法があったのでは???がない、、何も検証が起きない、、、ただ行動が全体から起こっただけ、、、そこを検証することができない。。。それをする自分も居ない、、、これは世捨て人なのか、、、、違います、、ただ事実を理解しただけです、、、事実に即した行動が起こっただけです。

ただ観察するの深い意味

観察する存在は悩むことができない

全ての言動は全体、気づきの意識からただ起こっています、、、ただ起きています。。。怒りの感情がガッツリ起こったとしてもそれは全体、気づきの意識から起こりました、、、これを全体、気づきの意識として観察します、、、これを自分ごととは捉えず、、ひたすらに観察するのです、、、すると摩訶不思議、怒りの感情がに伴って思考が湧いてきません、、、直ぐに静かになります、、なぜならば怒りの感情を観察する全体、気づきの意識は静寂そのものだからです。

怒りの感情を観察する全体は動揺することができない

怒りの感情を観察する全体、気づきの意識は観察しても動揺することができません。全体、気づきの存在ができることは自分ごとに捉えるが起き、それに対する思考を起こす、、しかありません。。。これが苦しみのメカニズムです。ここに入ると苦しくなりますから、、ただ怒りの感情を全体、気づきの意識として観察します。すると、、それで終わります、静寂になります。

怒りの感情を個人と結びつける

ただ全体、気づきの意識から湧き上がる怒りの感情を、、自分が発したと勘違いが起きますと、、自分がこれを解決しなくては、、が起きます、、これで思考の湧き上がりがエンドレスに続きます。何度も言いますが怒りの感情はただ全体から湧き上がりますから、、これをただ観察します、全体、気づきの意識として、、、怒りの感情すらも全体、気づきの意識に戻る道具にします。そこから静寂、至福に入ります。

悟りすらも人生の充実に利用しようとする自我

悟ったらどんな人生になれるだろう????

悟ったらどれほど人生が充実するだろう???悟れれば今の苦しみが消え失せ毎日の人生が楽になるのでは???これが自我の陰謀、策略です。悟りとはこの自分もこの自分の人生も、、全部もともと無かったという気づきです、、自分も人生も全く存在しなくても、、しっかりと意識だけは元々あった、、、この気づきの意識に戻ることが悟りです。

自分も自我も存在していなかった世界に戻る

結論から言えばこの自分に意識がフォーカスすることで思考が溢れ出て言動が溢れ出てこの言動に振り回され続け苦しみが生まれます。このメカニズムに圧倒的に気づき、、いやそもそも自分なんてなかったよね、、、という究極の気づきに至ることが悟りです。自分なんて存在せず、存在なくして普通に生きていた赤ちゃん、、、ところが後天的に発生したこの自分に意識のフォーカスが集まることで、、自分ストーリーが始まった、、、そこからが苦しみの毎日に、、、

悟りとは全部諦めるということ

悟りが自己啓発と全く異なるのは、、、全部を諦めるのが悟りだということです。全ての言動がただ気づきの意識、全体から起きているという究極の諦めです、、、、そこに自分は何も介在できない、、いや自分が居ない、、、自分が居ないわけだから充実した人生が虚偽だった、幻想だった、妄想だったという気づきです。これの何が良いのか???自分には良くないのです、、、ですがなぜか至福感に包まれる、、全てを手放した時至福が現れます。