分離に生きるのではなく分離の視点で生きる

分離そのものではなく

私たちは分離の世界にのめり込み、、本当に分離していると信じ切って生活していますが、、、本当は分離はなく、、分離の視点があるだけです。ワンネス、大いなる一つ、空そのものであることが真実でそこに分離を作り出したのはこの見かけ上の脳です、脳が名前を記憶することで、、、記憶された現象がボコっと便利しているように見えるのです。この見えるというのが最重要で、実際には一つです。

一つだった

一つだったが腹落ちしますと景色が輝き始めます、、音楽は天国の音色を奏でるようになります、人の中の無邪気が見えます、、、これは子供が世界を眺めている時の状態です。これが大人になってから戻るのです、、、何もしていないのに幸せ、、できればこのまま、、だけでいい。肩にのしかかる重荷は消え失せ、こなさなきゃいけない課題も消えます、、、、本当はないことを知っています。

分離視点で片付ける

ということで本当は一つです、、それが分かると焦ることができない、、、ただこの体(見かけ上)を通して起こる言動をこなすのみです。成否は全部全体任せ、気づき任せ、神任せです。それを判断する自分も実は居ない、、仏教では他力本願という言葉がありますが自力本願が不可能だということです、自力の自とは全体、気づきの存在、大いなる一つなのですから。あくまでも作り上げられた分離視点で淡々と片付けるのみです。

何かに集中し寝食を忘れる

無我に浸れば何も要らない

寝食を忘れて物事に集中する、、これは事実です。物事に集中するというのが究極の瞑想状態、無我状態、気づきの意識状態です。何も要らないわけです、、結果的に寝食を忘れます、、これは結果です。気づきの意識は何かに意識しているときこの個人への意識ができません、この瞬間はこの瞬間、何か一つにしか意識は向かないのです。ですから何かに没頭している時を無我と呼びます。気づきの意識そのものです。

今まではそこから自我に戻っていた

生活を無我で過ごすにはどうしたら良いのでしょうか??それは一つの作業をする際には一つに集中することです、、たった一つの作業を無我に切り替える道具にします。集中することが目的であって、作業を終わらせることには意味はないのです。こなすべき作業などなく、集中するための作業があります。そして作業に向かない意識に対して後悔しないことです、何をするかしないかに個人は全くの無力であり介在できないのです。

この事実を知るとまさに無我に入れる

多く人は一日中、後悔や反省もしくは改善、目標設定をしていますが、、、、無駄です。我々の言動の全ては川の流れのように、、次々に起こっているのみ、、その起こりに集中するのです、、今それが起きることに集中します、、、すると朝から晩まで無我に入れます、、、もっとこうしないと、もっとこいうやったら、、あの時これさえしなければ、、という雑音に構わないのです。見かけ上の脳が作り出した名前のある世界に思考によって戻らない、、脳が作り出した第六感の世界に入らないことです。

先ずは「苦しい」を終わらせる

悟りを求める人々の大勘違い

なぜ覚者と質問者との間のコミュニケーションは食い違うケースが多いのか???質問者は自分が幸福のなる方法を聞きたがります、、ですが覚者は、、自分が居ないということ回答し続けます。その回答を聞いて、、自分が居なるための方法を質問者は問いてきます、、覚者はもともと自分が居ないから自分を無くす方法が無いと答えます。質問者はでも自分が居る感覚は確実にある、、どうすればいいか?と問いてきます、、覚者はどうすることができる自分が居ないと回答します。

これは非常に難解な問答になる

今まで生きてきて、、この体の中の自分が居ない、、、などのメッセージを聞くことは皆無です。総理大臣、国連事務正長ですら、、体の中に自分が居ると信じて疑わないでしょう。だからこそこの世から苦しみを解消することは不可能なのです。つまり大前提の勘違い、、ここに全ての根本理由があるということです。ですがこれを理解するのは至難の技、、なぜならば一歩外のでれば今もその前提で世界は回っています。TVを観ても、小説を読んでも、映画を観ても全部が全部このパターンです。

気づきの意識がこのカラクリに気づくまで続く

このカラクリに気づくのは個人ではありません、個人が居ないということを個人が気づくということは不可能です。マリオにのめり込みすぎてしまった子供がハッとゲームを止める瞬間が悟りです。個人に意識し過ぎてしまいこの世界にのめり込むことに、カラクリを発見し気づき直すことが悟りです。悟りとは気づきの意識の気づきのことです。この気づきが起きますと「苦しい」は消えます、、するとこれからの人生の課題や、人生の目的、、など今まで重要課題がどうでもよくなります。今までくるしかったから色々な課題を見つけては改善していたことに気づくのです。

サレンダーの本当の意味に気づく

降参とは粋な表現

降参という言葉、、、今となっては本当に素晴らしい表現だと気づきます、、スピを学び始めた際にも、悟りを学び始めた際にも、、言葉では理解できるのではどうしても腹落ちしない、、、でもここに何か真実があることだけは分かっていました、、、今はハッキリと分かります、、、究極の脱力、、これを求めていたんだなと、、自我の完敗、乾杯です。

それを言ったらお終いよ

結局何が苦しかったかと言えば、、、一度でも自分の力で何か良い結果を出してしまったことだったんです、、結局自分の努力で何かを勝ち取った、、自分のアイデアで楽ができた、、、自分の発送でお得感を感じれた、、、こんな小さな小さな勘違いが大勘違いを生み出し苦しんでただけだったのです。自分が居て、その自分には自由意志があり、、のゲームに上手く乗せられていただけだったのです。それが「自分も自由意志もない」、、、と覚者全員が宣えば、、、それだけは言っちゃいけない、、言ってほしく無かった、、

あれ???ちょいちょい出てくる自由意志がない、、発言、、、

大和田菜穂さんの動画を見ていると、、ちょいちょい自由意志がないって言っているような、、金森さんの動画を聞いても、、、溝口あやかさんの動画を聞いても、、アジャシャンティの本を読んでいても、、、あれ、、、なんかちょいちょい出てくるぞ、、、まーそこは気にしないでおこう、、、でも気になる、、、、そしてどこかでハッキリと、、、「自由意志はない」を言い切る人も、、、もう諦めよう、、、、が見かけ上の私に起きました。

全価値観は真実の前で砕け散る

平均的幸福を目指しても、、

平均的幸福だけを求めて生きてきたにも関わらず突然の末期癌宣告、、成功だけを夢見てガムシャラに走り抜けていたら突然の末期癌宣告、子供のために全部を費やして生きよう、、子供が末期癌宣告、、、何に価値をフォーカスしてもこの事実の世界、真実の世界では簡単に壊されます。では我々は何を大事に生きればいいのでしょうか???真実を知ることです、、真実をしることに重きを置くのです。

私も私の人生も思い込み

私というのは後天的に学んだアイデアです、、私の人生も後天的に学んだアイデアです、、アイデアであって事実、真実ではないのです、、、真実ではないにも関わらずこれをどうやって幸福にする方法があるのでしょうか???幸不幸すらも思い込みですから、、解決のしようがないのです。無いものをあると信じて生きているだけ、、、もしも私に出来ることがあるならば、、、真実をお伝えすることだけです。

私も私の人生も実はなかった

子供のために全てを費やしてきたにも関わらず子供が末期癌に、、、、だから不幸のどん底に落とされました、、違います、、、元々苦しかったのです、、苦しいを解決するために子供に夢を預けたのです、、、その子供が末期癌になることで、、元々苦しかったことを思い出したのです。だから不幸のドン底と感じるのです。そうではなく、、、私も私の人生も実が幻想で、、ゆえに苦しいのだという事実と向かいあうことです。すると苦しみの根本が薄れていきます、、今まで中途半端に隠し巧妙に逃げていたから苦しかったのが分かります、肌感覚で。

起きるが起きる、、、の先に

究極の静けさ

起きるが起きるが腹落ちした際に、、、次に起きることは何か????究極の静けさです。今まで味わったことがない静けさに包み込まれます。なんだこれは???何を見ても思考が動かない、、、何を言われても思考が動かない、、、、動かないことが心地よい、、、何かしなくては??が湧いてこない、、、ただ淡々と静か、、

目標も義務もない世界

全ては全部起こっている、思考も、行動も、感情も全部、、、これが腹落ちしますと、、、腹のさぐり合いができない、、なぜならば、、、相手からもただ起こっていることが分かると、、、意味がない、、裏事情がない、、、淡々とこの体を通じて起きることをこなすだけ、、それでことが進んでしまう、、、

いやいや、、そんなことでは会社は務まらない

違います、、今までの行動の全てがただ起こったのです、、、今までの思考の全てもただ起こったのです、、それでやれてきたのならばこれからもやれるのです、、、、主語の完全なシフト、、、自分が言動を決めていた、、から全体から言動が起きていた、、、この違いです。。だからこれからも何もないのです、、、今までもこれでやってきたのですから、、、、

万引きで人生が壊れるという事実

〇〇会社の重役が万引きで書類送検

このニュースを見た多くの人は、、、この人は終わったな、、全部失ったなとなります、、、99%の人はそう感じるでしょう、、、、ですがこれってなかなか面白い事実を証明しています。つまり万引きという出来心でその人の人生が完全に壊れるほどのヤワなものであるという共通認識はあるのです。この共通認識で縛られている以上、、、我々の人生は常に綱渡りです、、、こんなヤワな人生楽しいでしょうか???

起こるが起きる

川の流れのように起こるが起き続けます、、、どれほど思慮深く生きようと起きる時は起きるのです、、このことを多くの人は実は知っています、、だから苦しいのです。。。次は自分の番かも、、、その通りです。。どこで何が起きるかは誰にも分かりません。。。気づきの意識も、大いなる一つも、神も分かっていません、、だからこの共通認識は苦しいのです。

唯一のルール、起こるが起きる

たったこれだけです、、、何が起きるかは誰にも分からない、、、これだけ、、、だから万引きを起こしてしまった重役も、、それが起きたのです、、、次は自分?かもしれません、、、俺は絶対に起こさない、、、違います、、これまでも全部起きたのです、、、、そこに個人は完全に無力なのです。このことが本当に腹落ちすると人への批判はバカらしくてできない、、自分への評価???全くどうでもいい、、が起きます。楽ですよね???

なぜ自分が好きなのか??

それは当たり前、、気づきの意識だから

多くの人が自分を大切にしようと思うのはこの私の中に閉じ込められてしまった気づきの意識に対する思いです。いつもこの全てを観察する存在、気づきの意識は、、、、いかなるときも気づき続けます、、、この存在がただこの体の中に入っているという錯覚が起きているだけで本当は気づきの意識の中で全部起こっています、それゆえ、、自分はこの自分が好きなのです。

どんなに役割に閉じ込められても

どんなに役割に閉じ込められても、、、父親、係長、男性、社会人、息子、、あらゆる役割がこの私にはついて回りますから、、気づきの意識もこの役割の中に閉じ込められていきます、、、ですが実際には閉じ込められるわけがなく、、、ただその錯覚だけが起きます、気づきの意識の中で。そしてこの錯覚が苦しみを増やしていきます。完全なる自業自得、気づきの意識の自業自得です。そしてだからこそこれは悲劇ではないのです、喜劇です、神の遊び。

気づきの意識として役割を演じる

全部は気づきの意識の中で起きている、、だからこの役割もただの現象です、、その役割をこなさなくてはこの現象界では生きていけないこともある、、、例えば車に乗れば、、ドライバーの役割を担わなくては死んでしまいます。。ということで気づきの意識は意識的にドラバーを担います、一時的に、、、そして私になります、それは一時的、、係長にもなります、、一時的に。。気づきの意識として、、このスタンスが崩れると、、役割に閉じ込められ苦しくなります。

全部に名前をつけたら苦しくなった

あれ、、便利かもしれないけど苦しい

私たちは毎日あらゆる名前を覚えていきてきました、、、学校に進み毎日学校では名前を覚えさせられます、、そして就職しても同じで毎日何かを覚えさせられるのです、、、これによって確かにこの個人は生きることができている???便利なのかもしれません、、ですが苦しいですよ、、、何か重いんですけど、、、になります。それはそのはずこの現象界ないは「これはこれ」という決まった名前など一切なく、、ただこの現象が移り変わるだけです、ですから、、、無理がわけです。

この私の体も、、、

この私の体という代物も、、見る物全部は変化していきます、、、それは当たり前のことで、、人間がこの移り変わる現象に勝手に名前を付けたのですから。。。植物が枯れる、、、冗談じゃない、、いつも変化を続けているだけです、、、、枯れて悲しい???冗談じゃない、、、ただ変化が起きている、、最初から最後までいつもこれです。

死ぬことは悲しいこと???

冗談じゃない、、、この人間と呼ばれる現象も、、変わることが当たり前、、いずれはなくなるです。。この現象界の存在は全部このパターンです。意識という絶対的な存在、、この変化に気づく存在が、、まさかのこの体の中に在るという錯覚が起きました、、これによって絶対的な存在が移りゆく現象の一部に宿っているという大錯覚が起きたのです、、これは大変なことです、、なぜならば意識はこの体という現象とは実は何も関係がないからです。これが苦しみのメカニズムです。

最初から名前など無かった、、に気づく意識

絶対的存在、決して意識しない時がない存在、気づきの意識は名前のついたこの体が所有しているという錯覚を作り、、その中に閉じ込められるという錯覚を作りました。そして名前が付いたあらゆる存在に取り込まれるというダブル取り込まれです。ですがこれらは全部後付けの名前でしかなく実体がないことに気づきます。あ、、もともとただの現象界だったに気づきます、この体と呼ばれる現象も実は実在してないや、、です。

朝は静寂、、、

名前のない世界

朝は静寂です、、朝4時、、、静寂の時間、、、違います、、、朝個人を意識するのが難しいのです、、名刺を意識するのが難しい、、、動詞もない、、、その時気づきの意識が、、、にょきっと現れ、、ただ在ります、、、名詞も動詞もない世界、、色の現れのみ、、、、ただ気持ちい、、、ただ静寂、、、求めていたのはこれだったという気づき、、、

これ以外いらない

ただ静寂とともに在るが起きますと、、、もう他に何も要らないが、、起きます、、、これ以上はないことに気づきます、、、そしてこれは誰も奪えないことにも、、、全員が知っているこの感覚は、、この感覚を思い出すためにあったんだなーという気づき、、早くこれを教えてあげなきゃもない、、なぜならいつだってここに帰れるから

こんな静寂ならば、、

こんな静寂がこんな近くにあるならば、、、個人をやり続ける方が難しい、、、だから必死にもがく自我、、間髪入れずに動き続けるのは、、、この静寂を知っているから、、、自我が焦っていたのは、、ちょっとでも動きを辞めたら、、、この静寂に包まれてしまうことを知っているから、、、この静寂に気づいてしまったらもう戻れない、、、自我のガツガツに興味が湧かない、、、だから自我は頑張る、、気づかせない、、、