肌感覚で同価値になっていく

差別がなくなる

男には厳しく女には優しく、、、先輩には優しく後輩には厳しく、、、老人には優しく若者には厳しく、、、と相手によって態度を変えるのはまー普通のことです、、、ですが生命現象の真実に触れていきますと、、、肌感覚でそれができなくなっていきます。なぜならば神羅万象の動きに優劣はないからです。。これを頭で理解して、、、優劣をつけてはいけない、、、これは混乱します。。。そうではなく森羅万象に直に触れることで、、そうなっていくということです。

本物を知ると、、、、

無我に入る、瞑想に入る、、、このように気づきの意識、真我に直に触れる時間を増やして行きますと、、、自然と、、、物事、人物に差別ができなくなっていきます、、、なぜならば差別がない世界に直に触れているから、、、例えば学校の先生は肌感覚で生徒に優劣を付けない感覚を持っていないと難しいでしょう、、これと同じで、、、この感覚を得るには、、、真実に直に触れる必要があるのです。

偽物に触れると、、、

差別分別された、、物がたくさん在る世界は、、、ファンタジーの世界、、脳内の世界です、、、この世界はファンタジーですから、、、ここに触れれば触れるほどに、、、真実から遠ざかります。。。肌感覚でこれが神羅万象の現れであることが分からなくなっていきます。すると物事に優劣をつけ、人に優劣をつけ、比較し、上下、善悪、良否の判断が強くなっていきます。これが苦しい世界への入り口です。

瞑想で気づきの意識そのものになる

気づきの意識に目的はない

何かのために瞑想をする、、瞑想をして元気溌剌、、瞑想で願望実現、、、、、そういった瞑想の使い方もあるかもしれません、、、ですが瞑想とは自身が気づきの意識であった、神羅万象そのものであったという気づきです。集中とは、、、自分など最初から居なかったという気づきです、、、、瞑想は、、、集中とはまた違う形での、、、自己実現、、、瞑想そのものが、、、至福、、静寂です。

とりあえず、、瞑想しよう

色々嫌なことが1日中あったけど、、、とりあえず瞑想しよう、、、瞑想に帰ろう、、、です。。目を閉じて現象の世界を締め出し、、、気づきの意識そのものになるのです。。。感覚、意識だけになります、、、本当は気づきの意識しかなく、、、そこに戻る感覚です。1日に何度もここに戻ります、、、すると、、、現象界で起こる様々な事件に深刻さを感じなくなっていきます、、、これは、、、頭で考えるのではなく、、、そう感じるようになっていきます。

これが夢だと見抜いていく

これが夢だと見抜くためには真実に触れる意外に方法はありません、、真実に触れれば、、、これがファンタジー、夢であるこちが腹落ちします、、、夢だ、夢だ、夢だと、、、、1万回説明を受けるよりも、、、真実に触れる、、、真実になってしまう、、、これ以外にこれを夢だと見抜く方法はないのです。。。。何かに集中することは、、、まさにその一つ、、、そして目を閉じて、、、全く対象のない世界(ノンデュアリティ)に直接触れるのも一つです。

生命の動きだけが真実

そういう動きがあった、、終わり

自由意志がないということは、、今日朝から計画を立てて、、渋谷に行き、買い物をして、、友人とお喋り、、この全部がただやらされてたということですか???そうです、、、やらされたというよりも、、そういう生命の動きがあった、、ということです。ただそれだけ、、、そこに意味はありません。神羅万象の動きに一切の無駄はなく、、神羅万象の動き以外の動きはこの世には存在しません。

じゃあ、、我々は操り人形なのか???

見かけ上はそうなります、、ただし操る人は存在しません、、、ただそのような動きがあったということだけです。神羅万象は神羅万象そのものであり、、その中で上下関係も優劣も、良否も善悪も全く存在しないのです、、、そう見えるという神羅万象の動きはありますが、、、実際には何もありません。

神羅万象はこの人間を作り出して何をしたいのですか???

人間という存在が神羅万象の中でただ起きました、、これを神羅万象が意図したわけではありません、、偶然の一致、奇跡です、、、神羅万象の動きは常に未知、未開、同じことは二度となく、変化しかありません、、その中での人間活動も常に未知、未開、です。

夢の中でのあらゆる戦略は無駄に終わる

夢の中で夢の外のことは分からない

我々が生きている世界は間違いなく夢の中の世界です、、、事実、リアリティ、神羅万象は我々の目の前に確実にあります、、、ですが、、、そこに大脳が作り出した、、、イリュージョンが重なっていきます、、独立した存在(名前が付けられた)がボコボコと現れ、、、自分(名前付き)も現れ、、、劇場がスタートします。これは自分劇場という夢です、、、なぜならばこの現象界に独立した存在など不在だからです、、、にも関わらず我々にはハッキリとそう見えます。一度このイリュージョンを現実と勘違いしてしまったら、、なかなか夢から覚めるのは難しい、、なぜならばこのイリュージョンの世界の中に覚める方法が落ちていないからです。

メッセージを受けてもピンとこない

悟りというネーミングは小学生ぐらいで学びますが全くピンとこない、、、悟りとは???という疑問すら湧かない、、、それはそのはず当初はこのイリュージョンが楽しくて仕方がないからです、、、、ですが大人の階段を登り始めた途端に、、徐々に重くなる、、、気づいてみたらどっぷりです。そして夢であるという事実は完全に忘れ去られています。。。。ですがあれ???こんな苦しかったっけ???です。

まーまー苦しいですけど、、、

大人の階段を徐々に登り、、、しかもしっかりと登り始めると、、、かなりこの自分劇場は苦しくなります。。。そこで我々は精神世界やスピ、哲学、、そして悟りを学び始めるのです。。勘が良い方は、、、恐らく解脱以外に幸福になる方法はないことを悟りますが、、しかしメッセージが難解なのです。なぜならば悟りは体感で得ていくものだからです、、、メッセージを徐々に徐々に体に染み込ませるこのプロセスは骨が折れるのです。

メッセージが腹落ちしていく、、

悟りを体得しないとこの苦しみは絶対に終わらないという半ば諦めこそが悟りへの情熱になります、、あらゆる経験を重ねることでこの想いは確実に増えていく、、、なぜならば夢の中でのあらゆる幸福戦略はどれもはかなくも砕け散るからです。ということで年々増していく悟りへの衝動こそがこの体得を完成させるのです。

至福を求めるのではなく

苦しみを終わらせる

偽りの自己、、、この体を守るためにできたこの自己防衛システムは、、最初のうちは上手くいきます、、、この体を守りつつ、、、全体、存在をしっかりと意識していきます、、、苦しみがない、、、そしてこの体はしっかりと守れる、、、、ところが徐々にこの偽りの自己を完全なる自分で在るという思い込みが強固になっていくと、、、この体は守れるが、、、苦しい、、が生まれてくるようになります。この状態では偽りの自己は次から次へと楽しみを追い求め、面白いを追い求める餓鬼状態になっていきます。

先ずはここを終わらせる

ただ楽しいを追い求めても全く楽にならないことを学んだ自己は、、、何かに打ち込む方法を選ぶようになります、、、部活動、スポーツ、勉強、、などなど、、、すると貪っていた時期に比べてなぜか楽になるという経験を積むのです。。。そうか、、、貪るより何かに打ち込んだ方が楽だ、、、、ただなぜ楽かは全く分かりません。

集中し打ち込めば、、、楽だ、、、じゃあ次々に目標を

集中し打ち込むことで楽になることを覚えた偽りの自己は、、、次々に目標を達成していくことを学びます。受験の後は就職、就職の後は出世、次は結婚、次は子育て、、次はお受験、次はマイホーム、、、と、、、確かに貪っていた時よりは楽になった、、、だが、、、いつまでこの目標達成を続ければいいのか????徐々に疲れが出始めます、、、

なぜ楽になったかを知る

何をしている時楽で、、なぜ目標を持つと楽になるのか???目標を達成した瞬間は安堵感がある、、、この理由をどこかで突き詰めなければこのゲームはエンドレスに続くぞ、、、ここで究極の目標に舵を切るのです、、、本当の幸せとは???人間のままで幸せにはなれないのでは???です。事実自身をこの体と思っているようではこのゲームはクリアできない、、、その仕組みを理解します、、、そして実践します、、、

盲目的人生の終焉

自分が見えていない

自分が見えていない、、、これを盲目的にと表現しますが、、、、人類がおかれている状態こそまさにこれです、盲目的、、、、本当の自分という存在に全く気づかずに生活しています。。本当の自分の存在など、、全く関心を寄せずに生活しています、、、、まさに盲目的でしょう、、、、これで幸せになる????不可能です。・自分の存在を完璧に忘れてしまっているからです。多くの時間を無意識で生きていることになります、なぜならば本当の自分とは意識だからです。

いや、意識はあるよ、、、常に

そうです、、、在るのです、、常に、、、常に意識はありますね、、、その意識がなぜかこの体の中に在ると勘違いを起こしています、、、、自分として。。全く別形態の存在として体の中に自分として存在していると錯覚しているのです、、、これは大変なことです。ご飯を食べている感覚を所有するのは体の中の私、音楽を聞いているのはこの体の中の私、、、思考しているのはこの体の中の私、、、、という捻れ現象が起きています。

いや、意識は外にあるよ、常に

本当の意識とは、、、この体に起こることの全て、、太陽の光、鳥の声、、、雲の流れ、、、全部に気づく存在です、、、これまでこの体が経験してきた全ての経験に外から気づいてきた存在です。意識がこの体を通じてあらゆる経験を所有してきたのです。この体の中の自分ではなく、、、、。そしてこの体の中に自分が居てその自分があらゆる経験を積んできたという思考もこの存在が気づいてきました。

なぜ自分を忘れることが出来る???

物事に集中する時、、自分を忘れる???

無我夢中になって仕事に取り組む、、、無我夢中になって時間を忘れて友達とお喋りを、、、、自分を忘れている時間って意外にあります、、、自分を忘れる????そんなことがなぜできるのでしょうか???車に乗っている際に、、、車を忘れて、、、右に曲がる、、、車を忘れて左に曲がり・、、車を忘れて自分だけブレーキを、、、できません、、、、車が存在するから車を忘れた行動などできない、、、、自分を忘れてお喋り、仕事ができるのは、、、自分が居ないからです。

私は〇〇です。

私は国会議員です、、私は東大卒です、、、私は父親です、、、私は会社員です。。。。全部肩書きです、、、それは名詞です、、、、自分を直接的に証明するものでは全くありません。。。自分とは実態がないものなのです、実態があるならば、、、データで出せるはずです。。。ない、、、そうです。。。自分とはどこまでいっても架空の存在なのです。

さあ、、、本当の自分を思い出す

自分が居ないならば、、、、この間違いなくある、、、在るという感覚は何だ??間違いなく存在する、、、この感覚は何だ????そうです、、、、存在そのものが在るのです、、、間違いなく、、、間違いないからこそ、、、この体に上手に取り込まれました、、、この体の中に存在が居るという錯覚が起きたのです、存在から。自分は居ないが、、、確実に在るという存在が在る、です。そしてこの存在の中で全てはただ起きています。在るという中で。

自由意志はないは虚無主義?

自由意志はない、、、

自由意志はない、、、これは虚無主義ではありません、、、完全なる受け身、完全なる神任せ、、、これは無気力に生きることではないんです。。。そうではなくやる気も積極性すらも全部全体、神羅万象から湧いていますよ、、ということです。。。なんかやる気が強烈に湧いてきちゃって、、、そうです、、、全体から湧いているのです。。。この事実に明晰になるのです。

どんどん明晰になっていく

全ては湧いているならばもう何も悩まずにボーとしていよう、、、まあなんでもいいのです、、、不思議なことに無駄な思考が減りますと、、、とんでもなく頭が明晰になっていきます、、、常に気づきの意識であるのですからこれは当然、、、明晰な頭脳であらゆることにチャレンジするようになります、、、本当にこれは神に使われている使徒のようです、、、そして起きた結果についても一切悩まない、、、なぜならばその行動、結果が起きただけだからです。

一番重要なことは、、、

自由意志がないことが腹落ちしていきますと、、とにかく思考が湧いてこなくなります、、、思考のラリーが起きないのです。。すると空白が空きます、、無意識の思考のおしゃべりが完全に止まります、、、するとそれらを観察する気づきの意識が現れます、、、ずっと隠れていた気づきの意識が現れるのです、、、これが目的です、、気づきの意識を引っ張り出すためにこの理論は重要なのです。思考の言動の全てを全体に委ねることで全体、気づきの意識が言動を観察するという状態になります。

自我同士の会話に興味がなくなる

赤の他人の会話に入れない

赤の他人同士が楽しくおしゃべりをしている、、、、自我同士の会話とは損得の会話がほとんど、、、そこへの興味が減っていきます、、、機能としての自分ではなく、、、主人公同士の会話、、、、これは苦しい、、、ですがここでも機能としての自分が何か役立てればそこで役目を果たし、、役目がなければ参加しなければいいのです。

機能としての自分で社会に参加する

この自分は実は居なく、、、機能としての自分しか存在していない、、、これが腹落ちしますと、、、機能として社会にどのように関わるかしか興味がなくなります。。。自分の損得で周囲と関わることはもはや不可能です、、なぜならば損得では幸福になれないことを完璧に理解しているからです。そこからの人生は機能としての自分がいかに社会に役に立てるかしか興味が湧かないでしょう、、先ず見える人間全てが同価値に見えますから、、特定の誰かのみを大切にしたいという執着がないのです。

ただしその行動も自由意志は働かない

とはいえこの自分には自由意志は完璧にありませんから神羅万象の動きにこの機能上の自分は身を委ねるしかありません。これしか選択肢が用意されていないのです。ただこの事実こそ多くの方は全く理解できないでしょう、、これは理解ではなく体感で感じていくものです。何かに集中し無我に入る、自由意志がないと思って生活してみるなど、、、です。。これが理解ではなく体感に切り替わった時、、安堵が湧いてきます、、平和が訪れます。

悟りとは全てが同価値であることの気づき

優先順位がないことの気づき

全ては神羅万象の現れ、この自分、相手も、世界の全てもが神羅万象の現れですから、、、そこに良否、善悪、優劣は絶対にないわけです、、あったらおかしい、、、、全ては同価値、、、、これが真実です。ですがその中で生きる我々は常に優先順位を考え、、、何を優先するかを考えていきています。。。これは間違っているのか???違います、、、、本来は完全なる同価値であることを把握し、、その上で、、、便宜上、機能上優先順位を付ければ苦しくないのです。。。

全ては同価値、、、

これは本当に幸福なことなのです、、全てに価値がるという気づきは幸福です、、、自分だけが価値があり、、それ以外には価値がない、、、これは苦しい、、、悟りとは全肯定、全価値平等、、そこが分かった上で、機能上、、何かを優先して生きていきます。。。本当は全てが同価値であることが分かっている、、、この認識の有無が幸福に大きく影響します。

空に触れる

空に触れる、気づきの意識そのものになる、、、この体感が神羅万象、全てが同価値であることに気づかせます。私は何かに集中する、無我に入ることでこの体感を得ていきました、、、そして人間の全ての行為が神羅万象から、気づきの意識からただ起こっている気づきを得ました、、、この自分という存在ですら神羅万象の動きの一つであるという気づきが起きました、、、これは体感で得ていきます。

自分を雑に扱うことではない

全ては同価値であるのは分かった、、、では自分よりを他人を優先して生きていってもいいんですよね????という疑問が生まれるはずですが、、、自分を大切にしなければ、、先ず生きていくことができません、ですからこれは他者優先主義ではありません。機能としての自身を大切にしていくことになるでしょう、、、とはいえ、、、神羅万象の動きから脱して自分が何かを自由意志で行うことはありませんから、、、そこに介在できる自分が居ないというのが答えです。