問題は全て時間の中に

問題の全ては時間に依存する

問題というのは時間の中にあります、、問題=時間内です。今の会社が合わない、、、というのは明日もその会社に行かなくてはならないから悩むわけです、、、本当の大きな問題とは、、この時間の外に出れないという大きな問題があり、、、この問題が形を変えたのが全ての問題なのです。時間の外にで出る????そうです、、本当は時間が無いにも関わらじ我々は時間の外に出れない、、、これが苦しいのです。

時間は記憶でしかない

時間があると認識するには記憶の存在が絶対に必要です、、、昨日どら焼きを食べた、、これは記憶があるからこそ言えるのです。記憶があるから過去があることを全員で共有しているのです。そしてこの私がどら焼きを食べた、、、が私の存在も証明するのです、、、だら焼きを食べた私の存在です。。。その記憶は見かけ上のこの脳の中にあります、、、記憶、私、脳、、、この三つで時間が共通認識されていきます。

本当はこの一瞬しかない

本当はこの瞬間しかなく、、、この瞬間の中に居ることができれば、、、時間から卒業できます、、、時間から脱出できます、、、この瞬間、、、無我に入れれば、、、もう時間が必要ないのです、、、、時間の中で何かを獲得したり問題を解決することに興味が無くなります、、、なぜならば、、この瞬間が気持ちが良いから。。。。明日何をしよう????明日も今の中に居ればいい、、、こうなります、、、、明後日は明後日も今に居よう、、、これで終わりです。

今に居る????

今に入るとは、、、思考を完全シャットアウトし、、、今に集中することです、、、今の作業に入り込むことです、、、これが今に居ること、、、、時間ではありません、、、、もしくは思考が湧いてきた時に、、、その思考を観察する存在になること、、、思考、行動が湧いてきたら、、、その出どころになること、、、しっかりと今それらを観察します、、、すると思考の渦に飲み込まれず、、、、今に居れます。

何かを変えられる誰かが居ない

こうした方が良いですよ、、と伝えるべき誰かがいない

悟りのメッセージが難しいのは、、このメッセージを伝えるべき誰かが居ないというメッセージだからです。一般のメッセージは誰かに向かって送られますよね、、ですが悟りのメッセージに関しは伝える相手が居ないのです。なぜか???この世界には分離独立した存在が実は居ないというメッセージこそが悟りだからです。そうなることこのメッセージも伝えるべき相手は居ないとなるのです。

では悟りのメッセージは誰に届くのか???

このメッセージの届け先は気づきの意識です、、人の役をしている、人を演技している気づきの意識そのものに届きます。思考の奥底に居る気づきの意識、個人の奥底に居る気づきの意識にこのメッセージは届けられるのです。そして気づきの意識が個人が実は居ないという気づきに至った時が悟りです。個人もおらず、自由意志もない、、という気づきに至った時が悟りです。

「自由意志がない」がコンフォートゾーンになると

静寂そのもの

自由意志がない、、これがコンフォートゾーンになるとどうなるでしょうか???先ず焦るという感覚が消えていきます、、、なぜ焦るのか????それは自由意志をフル発揮して最大限の利益を得ようとしているからです、、、最大限の利益があるならば最大限の損失もあるわけでこの分かれ道こそが自由意志の良否であると人は思考します、、、すると焦るわけです、、、最大限の利益を獲れない場合は全部自由意志が陰転したことになるからです。

腹の探り合いをしなくなる

自由意志があるからこそ目の前の相手から騙されないようにしよう、少しでも得してやろうという発想が生まれます、、、勝負において、、、勝つか負けるかは全部判断によるもの、、、よって勝つためにはどうするべきか???思考が働きます、、、ですが自由意志がないが腹落ちしますと、、、その努力に気持ちが乗らない、、、頑張れない、、が起きます、、、

自由意志があると思うから焦るのだ

自由意志があると思うからこそ焦るのです、、、自由意志とは全責任がこの「自分」にあるという考えですから非常に焦ります。。。上手くいくかどうかは自由意志をいかに使うか、そして使う自分の力量による、、、という考えですからプレッシャーは相当なものです。。。社長や芸能人がピリピリしているイメージなのはこのためです、、、良くも悪くも全責任がこの「自分」に押し寄せてくるからです。ですが自由意志がなく自分も居ない、、がコンフォートゾーンになりますと、、、責任を取れる自分が居ない、、、になりプレッシャーを感じることができなくなります。

マインドという現状維持機能を俯瞰する

思考はただ現状維持のために機能する

多くの方は自分の思考に絶対的な信頼を置いていますが、、、この思考は、、、現状を維持するためにただ機能として湧き続けるだけです。今食べれているならば、、、、この状況を維持するために湧き続けます。。。例えばスーパーブラック企業に居てもそこにいて食べれていれば、、、思考はこの会社を辞めさせないように働くのです。過労死が存在するのはこのためです。これが思考のメカニズムです。この思考を絶対的に信頼するのはどなのか???これが気づきです、、、気づきの意識による気づきです。

思考は悪でもなく善でもない

思考とはただの機能です、、、現状維持機能、、、この機能に善も悪もないのです、、、ただしこの現状維持機能は、、、今至福を全く感じれていなくても、、、その状態を維持するために機能します、、、、覚者が思考を止めろというのも一理あるのです、、、、思考が止まり、、、気づきの意識そのものになれば至福が湧いてきますが、、、、この状態が安定すれば思考はこれを維持しようと機能します。思考が湧き続け、これは自分で在るという思考が湧けば、、、苦しいのですが、、、それでも思考は湧き続けこれを維持します。

思考を俯瞰するとは悟りである

多くの方は思考に振り回され、感情に振り回されて生涯を終えます、、そのような中で思考を完全に俯瞰できるのは思考の機能を完璧に理解し気づけた者だけ、、、これは悟りです。悟りとは究極の俯瞰であり、、、思考を現状維持機能であるという気づきはその一つです。「今日で首だ、、、」こう宣告された者からはあらゆる思考が湧き出すのは、、、、現状維持機能が働くからです、、、なぜ???頭がおかしくなったのか?法律的に大丈夫か??、、、これは現状維持機能のフル活動です。

悟りをコンフォートゾーンに

気づきの意識の状態に慣れる

瞑想とは気づきの意識そのものの状態に慣れることです、、、無我夢中になって何かに集中するのも同じことです、、自我のない状態に率先して慣れていきます、、、するとそこに至福、静寂、平和があることにはっきりと気づきます、気づきの意識が、、、これが悟りです。自分など全くの不在の場所にこそ、、、平和があることに気づくのです。自分が美味しい物、刺激物を得なくても、、、その場で安堵、平和、至福に至れることに気づきます、気づきの意識が。。。これが悟りです。

悟りを理屈として理解し実践して慣れる

悟りについての正しい理解は大切です、、これをしないと自我は全てを所有し、、コンフォートゾーンをズラすことができません。自分がはっきりと居るという認識の中で無我に入ろうと、瞑想をしようと、、、その獲得を全て自我が所有するという場所に戻るでしょう。理屈として悟りを理解し、、その上で瞑想、無我になって集中することで、、自己の不在が安定します。

機能としての自分に戻る

自己の不在が安定してもこの幻想の世界、夢の中の世界、イリュージョンの世界が続く限り、、機能としての自分は存続していきます、、、機能としてこの世界での役に立っていかなければ食べていくことができません。機能としての自己を維持していくことになるのです、、、、ですがこの時にはマインドはこの状態を維持しようとしますから、、、機能向上にただ努めるでしょう、、、機能としての自分磨きに入るはずです。。。

悟りに過剰反応するマインド

マインドは現状維持

マインドの目的は現状維持です、、この体を保持すること、、これが目的ですから、、、今食べれているならばもうこのままでいいのです、、苦しい、辛い、しんどい、、、状況であっても今食べれていれば、、それを維持するために動き続けます。とすると、、、悟りというメッセージ、、、自己が不在であるというメッセージは、、、現状とは全くことなるため、、、マインドの抵抗に合う可能性が高いのです。

全く書籍を読み進めれない

ということで悟り系の書籍が全く人気がない理由がよく分かります。マインドはこれに徹底抗戦します。自己が居ないなど、、、全くの想定外、、、困惑の局地です。ただそれでも読み進めていき、、、自己はいない、、、自由意志はない、、、というメッセージに触れ続けていきますと、、、まさかのマインドがその状態を現状と勘違いが始まります、、、するとマインドはその状態を現状維持しようとするわけです。コンフォートゾーンが自己不在になる。

自己不在というコンフォートゾーン

悟りとは自己不在をコンフォートゾーンにしてしまうことです。そのために無我集中する、瞑想する、メッセージで理解する、など様々あるわけです。自己不在をコンフォートソーンに、自由意志がないをコンフォートゾーンにできれば、、それは悟った状態が安定するということです。マインドはその状態を保持しようと動くようになるのです。

マインドはいつも騒ぐ

これもエンタメ

マインドはいつも騒ぎます、、この自分が居るという前提で動きがあるのがマインドですから悟りに関しては特に騒ぎ立てます、、、悟りとはこの個人が実は居ないというメセージですから、、とりわけ騒ぐわけです。マインドの最後の抵抗です、、、。自分を守るため、維持するためにマインドは徹底的に抗戦します。悟りという言葉がいつまで経っても市民権を得ない、ゲテモノ扱いされるのは当然といえば当然なのです。

マインドの抵抗こそが証拠

悟りに対しいマインドは異常に騒ぎ立てるわけですが、、これこそが悟りを過剰意識するマインドの仕組みが理解できます。マインドにとって悟りとは自己の解体、自己の終焉、、、マインドが守ってきた存在の終焉を意味します。マインドはここに徹底的に歯向かうわけです、、、ですが事実として真実として自己は存在しませんから最後は降参するわけです。

マインドが騒ぎ立てるからこそ

マインドがこれだけ騒ぎ立てるからこそ、、、そこには何かがあるのです。その何かとは、、真実です。マインドが隠しておきたい真実がそこにあるのです。この自分が居て、、、居ません、、、そこを隠しておきたいわけです、、マインドは、、、だから過剰に反応する、、、、最後は明け渡すことも分かっている、、、気づきの意識が個人が居ないということに気づくが起きるまで、、、これが続きます。

悟りとは観念ではない

悟りとは観念を粉砕すること

我々が考えている全ては観念です、、、この個人が居てこの個人にとって何がベターで、何がベターではないか???それが観念です。その観念が全部及ばない世界、それが悟りです。つまりこの個人が居るという大前提が嘘であるという発見こそが悟りです。この世界、この分離の世界が嘘、ファンタジーであるという再発見が悟りです。

ファンタジーは神羅万象の一つ

ファンタジーが駄目ということではありません、、、ファンタジーも神羅万象の一つの表現です、、、そこに良否、善悪、優劣は一切ありません、、、、ですがこのファンタジーの世界に住むのは疲れる、苦しいが必ず伴ってきます。ですからこれがファンタジーであることを見抜き、このファンタジーから抜けることを釈迦は悟り提唱したのです。かといって悟れる個人はいません。

悟りとは真実に気づくこと、気づきの意識が

悟りとはズバリ、、、観念の渦から抜け出して、、真実に気づくことです、気づきの意識が。これに気づくのは個人ではありません、個人が居ないことに気づくのです、気づきの意識が、これが悟りです。個人という蜃気楼が蜃気楼であることに気づく、、、この気づきが悟りです。悟りによるメリットを得る個人は居ません、悟りによるメリットを得る存在は皆無なのです、そういう意味では悟りとはただ真実に気づく気づきの意識のプロセスに過ぎません。

このメッセージを伝える誰かはいない

ノンデュアリティのメッセージは矛盾を抱える

今機能上の私がこのメッセージを書いています、、これは機能上の私であって実在する存在ではありません。誰かがこのメッセージを書かなければ、誰かに伝えることはできないのですが、、、誰かと誰かが居るというこの錯覚、幻想こそが、、、これが夢の中である証拠になります。全てはたった一つの意識の中で起きる神羅万象の動きでしかありません。神羅万象には一切の分離はなく、、あるのは分離しているという感覚のみです。

分離とは見かけ上の脳内でのみ起きている

分離はこの見かけ上の脳内でのみ起きています、、、実際の神羅万象には一切の分離は存在しません、、、我々の脳内でのみ分離は起き、、、我々はその分離の世界で生きているという夢を見ているのです。夜見る夢とこれは全く変わらず、、、意識と脳が作り出したこれは共同作業です、、、熟睡時以外我々はひたすらに夢の中に居るのです。

夢だけれども

夢ではありますからいつでも醒めてしまえば、、この夢は終わりです、、、ですがそれができない、、なぜならばそれができる個人という存在が居ないからです、、、、この夢が覚めるのは、、覚めるということが起きるのを待つ以外にないのです、、全体、気づきの意識がこれが夢だと気づき、、、夢を終わらせるが起きなくてはなりません。夜夢を見ている時に、、、なんとなくこれって夢だな、、、そんな気づきが起きる時ってありますよね、、、まさにそれ、、、それが今起きているのです。

現象の動き(色)に気づくには、、動かない存在(空)が必要

動き続ける現象界を感じる

鏡を見てください、、、もしも鏡の中の映像が動けば気づきますよね、、それは鏡を見つめる動かない存在がいるからです。これと同じでこの現象界の移り変わりに気づくには、、移り変わらない存在が必要になるのです。そうです、、そして我々は日々この移り変わる現象に気づき続けています、、そうです、、、色を生み出す空なのです。

スクリーンは真っ白だから映像に気づく

スクリーンは真っ白だからこそ、、、スクリーン上の映像に気づくことができます、、、空とはスクリーンのこと、そしてそこに映る映像こそが色、現象界です。この現象界を「私」が見ているというのは完全な錯覚、、そうではなく空としてこの色の動きを感じているのです。朝起きて何が起きるのか、、空即是色がスタートします、、、この体も現象、この体が何かを見ているというのも現象です、、全てを包み込む空があります。

マインドはただ否定する

マインドはこれを否定します、、、マインドはこの体を所有する「私」がこの現象の世界を五感を使って生きていると真剣に信じています、、、ですがそれはないのです、、そう思い込む思考がただ全体、空から現象として(色)起きるのです。そうです、このマインド主体のドラマも色としてしっかりと起きているのです、空から。これが良いとか悪いとかは一切なく、、ただその現象が起きていま。