5分間思考に取り込まれない時間を作る

たった五分

たった5分間思考に取り込まれない時間を作るのが難しい、、、多くの方は5分間目を閉じて思考を観察しましょう、、ができない、、、なぜか???あまりに思考との同一化に無意識だからです。。。思考に意識がフォーカスし、、、気づけばそこに完全同一化が起こっています、、、これに無意識、、、、ということで先ずは5分間思考に取り込まれない、、思考していることに気づく状態をチャレンジします。

それができない

思考に取り込まれていない状態が分からない、、、これが多くの方の正直な感覚です、、、思考に取り込まれ過ぎて、、思考していない状態が分からない、、、、空気を吸うのが当たり前過ぎて、、、、空気を吸っていない状態が分からない、、このような感覚です、、、、、

気づけば空気を吸うように

空気を吸うのが当たり前の人間にとって、、気づけば空気を吸っているが当たり前、、、ですから、、相当に意識しないと勝手に思考が起きそこに無意識になります、、、この状態が苦しい状態、、、思考と意識が完全同一化しますと、、、何をしていても苦しいのです、、、先ずはここを話す、、、先ずはというよりもこれができれば完成です。。。空気を吸っていたから苦しかった、、、空気を吸わなくなると苦しくない、、、これと同じなのです。このトレーニングを毎日行います。

今この瞬間勝つ

思考に取り込まれない

思考と意識の完全同一化、これが悟りが閉じた状態です。。。思考していることにも気付いていない状態、独り言を言っていることに気付いていない老人と同じ状態です、、、あの状態は意識が思考に焦点が当たり過ぎ、、無意識状態に入っています、、これが苦しい状態です。思考を観察する存在になります、、思考が湧いても気づく存在になるのです。

最初は苦しい

最初は苦しいです、、思考が湧くのが当たり前、思考に取り込まれているのが当たり前過ぎて、、思考と距離を取るのが苦しい、、、気づけば思考に取り込まれ、、、無意識になっています、、、そこを何度も自覚的になります、、、途中で気づく存在を取り戻します。何度もこれを繰り返しますと、、、思考を観察するのが気持ちよくなります、、思考を観察している状態こそが気持ちよくまります、、、静寂に包まれたこの感覚こそが最高に至福になります。これが今この瞬間に在る状態です。

行動の目的が180度変わる

何かしなきゃが湧いてこない、、、この状態にシフトします、、、これまでは何していないと苦しい、、だから何かをする、、、ところが思考観察が慣れてきますと何もしていない状態に親しむことができます、、、ただ静かにここに座り、、思考を観察するだけで心地よい、、、これがデフォルトになるのです、すると何かをしなくては、、という焦りが消えます、、、、するべき時にすればいいに変わります。川の流れのように来るべき時が来れば動くが起きる、、に変わります。

究極のリアリティ

幻想を見抜く

これは幻想です、今目の前に広がる世界は幻想です、、このことを理解できますと、、、、幻想に取り込まれなくなっていきます、、、思考はああだこうだと言ってきますが、、、その思考にも取り込まれなくなっていく、、なぜならば解決すべき問題があまりないのです、、、思考の出る幕が無くなっていくわけです、、、昔はよく考えていた老後の心配、将来の心配、日本の行末、、など、、全く心配する要因にならなくなっていくのです。

幻想を幻想と見抜くと、、、

幻想ならば深刻に捉えるべき問題って実はないんです、、、もしも深刻に捉えて解決しなくてはと考えるとすたらばそれはそういう趣味です、、、深刻に捉えて解決しなくちゃというゲームをやっている感じです、、実際には、、ただ幻想が起きているだけです、、、深刻に捉えなくちゃいけない問題など皆無です。

究極のリアリティを生きる

究極のリアリティとは悟ることです、、、幻想の世界を抜け出し、、非二元、真我を再発見することです、、非二元、真我を再発見することでこれが幻想であることを悟ります、深刻さが抜け落ち、この場が神の遊びの場に変わる、、深刻に深刻に世の中を眺める人々を見ると、、おかしくなる感覚、、、皮肉ではなく、、そんな時もあったなという安堵が込み上げてきます。

誰も教えてくれない秘密

思考が静寂を遠ざけている

人間の当然の権利、思考する、、、どう思考するかは自由、、何を思考するか、、ここは絶対領域、、です。人間はいかに思考しいかに生きるか、、この自由が与えられています、、、だからこそ自由な思考は守られて当然、、そして我々は毎日朝から晩まで思考しています、、、会社に行けば、、、ああだ、こうだ、、思考は湧いてきますね、、何か意見が言いたいのです、この思考というのは、、、

ですがこの思考はあまりにも身近過ぎて

ですがこの思考ってやつはあまりに身近過ぎて、、、考えていることにも気づかなくなります、、、放っておけば人間は朝から晩まで思考し続けています。ああでもない、こうでもないと、、、ここに意識的になるのです、思考の湧き上がりに意識的になります、すると思考が湧いているにも関わらず静寂に包まれるという感覚が芽生えます、思考が湧いているにも関わらず平和に包まれるという感覚が芽生えます。

そんなことで?????

そうなんです、、そんなことなのです、、、そんなことだから誰もそこに気づかないのです、、、あまりに身近過ぎてその危険性に気づけないのです、、、その危険性に気づくと、、、もう思考に無意識に取り込まれることがなくなります、、、すると、、、本当に多くの方が完全に思考に取り込まれていることに気づきます。。これはもう驚きです、、、、ベチャベチャと、、、思考がエンドレスに続いているのが見て取れるし、話せば直ぐに気づきます。。。

自分を極める

他の誰かを目指さない

思考はあらゆることを言ってきます、、あの仕事に就けたあいつが羨ましい、あの顔に生まれたあいつが羨ましい、あの身長に生まれたあいつが羨ましい、、、と、、、こうして他人を羨むという思考がエンドレスに流れてきます、、、ですが本当は自分を極めるのが最も最速最短で幸福になれます、、、、自分を極める????自分はこれ以上の自分にはなれなかいから困っているんだけど。。。もっと能力を高めるってこと??違います、、自分の存在を知るだけです。

自分の存在ならば嫌なほど知っている

自分の存在なんて嫌になる程知っていますが、、、、違います、、、その自分はこの体の中に居ることになっている自分ですよね、、、違うんです、、これは偽りの自分です、、、、実態のない自分のことです、、、私が今話している自分とは、、、私が居るというこの紛れもない感覚の自分のことです、、、はっきりと今意識がありますね、、、これぞ自分でしょう、、、これはもう絶対に間違いない存在です、、、、この絶対に存在する存在、、、この存在はどこに居るのでしょう???体の中ですか、、違います、、その証拠はないでしょう、、、この全体の存在は、、いまここ全部に居るのです。

思考が渦巻いている時、、、

思考が渦巻いている時、、、この絶対なる存在の意識が、、、思考の中に閉じ込められます、、思考のオンパレードに絶対なる存在の意識の焦点が注がれ続けます。絶対なる存在が絶対なる存在ではなく思考に取り込まれ続けます、、、これが苦しいを湧き出します。ただこれだけです、、、思考に取り込まれることが無くなると、、、絶対なる存在は絶対なる存在として起きる全てを観察します、、これが静寂です、苦しみからの解放です。

キャラが立つとは?

キャラが立つは褒め言葉

あの人はキャラが立っているよね、、、こんな言葉を聞いたことがあるはずです、、、キャラ立ちする、、自然とキャラが完成し好印象を与えている人のことを指したりします。どうしたらキャラって立つのでしょうか???重要なことは自然と立つということです、、明日からキャラを立たせていこう、、、これは無理です、、、来年はしっかりとキャラを立てていくことにしました、、、これも無可能です。。。。キャラは立てようとしたら逆に立たないのです。

機能になれるか???

この体をこの宇宙の役割であるという気づきを得ると、、、機能がシャープになります、、機能が研ぎ澄まされます、、、このシャープさ、エッジこそキャラ立ちです。思考と自我を切り離し、、、自我を消滅させ、、その上でこの体を大いなる一つ、気づきの意識の役割として発動させる、再出現させると、、、機能性が上がります、、、そこには思考がべったりと絡み込んだかつての自我が存在しないのです。

思考を認識し、、思考に意識的になる、、自我を消滅させる

自我を消滅させるための最重要事項は思考を観察することです、、思考は一瞬の隙間を使って入り込み、、、思考していることすら完全に忘れさせて自我と完全合一します、、、思考していることを完全に忘れている状態、、これが思考自我完全合一作戦成功の形です。思考の湧き上がりを常に意識化します、思考が湧いたら即認識します、、、この時気づきの意識は気づきの意識のままです。。。これは格闘技と同じ、思考の湧き上がりに取り込まれてはいけません。すると思考と自我の絡みつきがなくなり、、、、自我が薄まり最終的には消滅します、。機能としてのこの体が残ります、それがキャラ立ちです。

悟りが日常会話に登場しない理由

悟りとは自我の完全敗北

悟りという言葉を真剣に議論するなどまず一般社会では起きません、、どこかファンタジー、インドの山奥の話、、みたいな扱いを受け続けてきました、、、悟りについて熱く語り合うなど、、、現実離れの戯言、、、といったノリでしょう。。。。ところが事実は全くの逆、、、悟りとは事実、真実、スーパー現実の話なのです、、、思考との一体化、感情との一体化に成功した自我は、、、悟りを最も遠い場所に置き、、、自我繁栄の邪魔をさせません。

10分間何も考えないでいてください、、、

待合室で看護師さんから、、、10分間何も考えないでその場に居てください、、、、そうお願いされてそれができる人がどれほど居るでしょうか????10分間点滴を打っていてください、、これはできます、、、10分間口を閉じていてください、、これもできます、、、ですが10分間何も考えないでください、、、、これができない、、、、、ここです!!ここがポイント、、、、自我は思考と完全一致し、、思考を止めるなどやったことがないのです。

それだけはできない、、、

思考を止める???そんなこと出来るわけないじゃないですか、、、、思考なんて勝手に湧いてくるわけで、、、どうやったら止まるんですか????そうです、、、止まらないんですよ、、、簡単には、、、どうするか????思考を観察する存在になるのです、、、思考が湧いてきたら、、、湧いてきたことに気づく存在になるのです、、、これを新しい習慣にするのです、、、これを続けます。。。実は簡単なのです、、思考の存在にしっかりと意識的になるのです、、ただこれだけです、、、すると思考と同一化した自我の存在が薄まっていき、、思考が出しゃばらないという状態が出現します。

幻想はこの現実で十分

画面の世界に夢中になる滑稽さ

この現実は完全なる幻想です、、、我々は現実と呼ばれるこの幻想の世界にどっぷり浸かり生きています、、するとこの幻想の世界は現実的に見えます、、、この幻想の世界に疲れると、、、人は画面の中に吸い込まれていきます、、映画、TV、ゲーム、YOUTUBE、TIKTOKなどなど、、、これらはこの幻想の世界の中でさらに幻想の中に引き込んでくれる道具です。今既に幻想の中に居るにも関わらず、、、さらなる幻想に逃げ場を求めているのです。

この幻想をもっと楽しんでみる

ここがまさに幻想ど真ん中です、、この幻想が最高峰のクオリティー、この幻想が、、究極のサバイバルゲームです、、、なぜここを楽しまないのか???です。。。これを幻想と完全に見抜き、、この幻想を楽しみ尽くすのです。この幻想に後悔は禁物です、、、後悔できる自己は存在しません、、自由意志もないのです、、、本当は。。ゲーム中は勿論自由意志をフル発揮するればいい、、、本当はないけど。。

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分

幻想ゲームを楽しむ機能としての自分が存在します、、、この体です、、、この体を機能として、、いかにこの幻想ゲーム上で楽しみ尽くすかです、、、宇宙の機能として、、楽しいを追求していきます、、、神としてこの体をフル回転させていく、、楽しいを追求していきます、、こんな役として世の中に貢献したいな、、こんな機能として世の中にサービスを提供したいなーの連続です。自己超越して楽しみます。

思考への焦点を剥がす

思考に焦点が集中する

思考に焦点が集中しますと、、、思考との完全一体化が始まります、、すると思考していることに気づかなくなります、、、1日中思考していてもそのことに気づく存在がいなくなるのです、、、思考との完全一体化、、が起きます、、、この事実に気づき、、、思考の湧き上がりに意識的になっていきます、、、思考が湧き上がる瞬間に注意深くあるのです。たったこれだけで、、思考の渦に取り込まれなくなります、、平和が満ちてきます、、静寂に包まれます。

どこに焦点が当たっているか

私たちはコップを凝視しながらTVゲームをやることができません、YVゲームに集中すると、、コップを凝視できません、、、一度に二つのモノに焦点を当てることができないのです、、、つまり人間ゲームに焦点を当てると、、他のものが見えなくあります。。。個人というこの感覚に焦点を当てると、、他が見えないのです。今人生が大変に苦しいのならば、、この個人に焦点が完全に合ってしまっている、、ただこれだけです。

焦点を気づきの意識に戻す

焦点を気づきの意識に戻す習慣を見に付けていきます、、、思考が湧く時に、、、それを観察する存在になります、、地面を踏み付ける時に、、その経験のみに焦点を当てます、、、ジュースを飲む時に、、、その味そのものに焦点を当てます、、、目を閉じて現象を消し去り、、気づきの存在として音に気づきます、、全ての経験を個人に焦点を当てず、、、気づきの意識の気づきに焦点を移行します。。。

思考が湧いたら気づきの意識に戻る

思考はただ湧き続ける

思考はただ湧いてきます、、、エンドレスに、、、思考が湧き上がることはこの体を持つ以上当たり前のことです、、、ですがこの思考が湧くことに無抵抗のままだと独り言を一日中話す老人と同じになります、、、これは苦しい人生へのシフトです、、、思考が湧いたら、、その思考を観察する存在になります、、思考を観察する存在とは気づきの意識です。。。これを癖付けします、、これを新しい習慣にします、、気づきの意識に1日に何度もシフトします。

気づきの意識へのシフトに思考も動く

最終的には思考は、、、気づきの意識へのシフトにも動くようになります、、、気づきの意識そのものならば、、どうしたら気づきの意識そのものとして生活できるだろうか???と思考が湧き始めます。関心の全てが気づきの意識になっていきます、、、そりゃそうです、、、この体の中に自分が居ると信じ切っていたのに、、違ったのです、、、今更今までの自分のために活動していられるか???という話です。

気づきの意識万歳、思考万歳

気づきの意識にシフトが起きますと、、、思考は気づきの意識の道具として気づきの意識の衝動を支える仲間に戻ります。。。機能としてのこの体の役割を支える道具に戻ります、、次に何をしよう、これをしよう、、明晰な頭脳で、、ミッションを遂行していきます、、、もはや思考は現状維持の機能ではなく、、目標達成のための機能になります。