思考が湧いたら無我になる

思考が湧けば自我になるはずが、、、

自我とは思考に取り込まれ、思考していることすら気付いていない状態です、、、無我が思考に取り込まれ、一体化し自我という幻が出現した状態です。これは幻ですから苦しいのです、、、この幻を幻と見抜くには、、思考を観察するしかない、、、思考に二度と取り込まれない習慣を獲得するしかありません。すると常に無我の状態でいれます。

自我同士の人間関係

思考に取り込まれた無我(自我)同士の関係においてトラブルが起きないはずはないのです。。。なぜならば思考に取り込まれているということは思考を観察する存在(無我)が消滅しているからです。何を思考し何を行動しているか、、、全く確認する術がないのです、、、、これが自我のコミュニケーションです。自身が何を言動しているか気付いていない、、、これでトラブルが起きないはずがない、、、

思考が湧くたびに無我に入る

思考が湧くたびに無我になって思考を観察します、、思考が湧くたびにそれを観察する存在(無我)になります、、、すると一日中無我でいれます、、、、この状態が最高に気持ちが良い、平和、安堵、歓喜そのものです、、、思考を使って無我に入られてしまったら自我は出現できない、、、思考に取り込まれ思考していることに気づけない状態こそ自我だからです。無我が思考と一体化した状態、無我不在の状態、、これが自我です。

思考に取り込まれる自動反応

自我は嘘を繰り返す

自我を観察する存在、思考を観察する存在でいれない時、、つまり気づきの意識が完全に思考に取り込まれている時、、思考を観察する存在が居ないのですから、、、、その人から出てくる言葉は、、何の整合性もなく、、、ただ湧いてくる思考そのものです、、、、その思考を観察する存在は存在しないのです、、相手は自分が何を言っているのか気付いていない、、そこに嘘も本当も一切ないのです。観察する存在が居ないのですから。

思考に取り込まれないトレーニング

思考に取り込まれない、、、これを毎日の習慣にします、、、思考に取り込まれない、、、これを心の中で連呼します、、、すると次第に思考に取り込まれなくなります、、、思考に対して意識的になる意識が出現します、、、この存在こそが、、、大いなる存在、気づきの存在、ユニティーです、、、思考を野放しにしない、、、思考を注意深く観察する存在を出現させます、、、

思考が湧くたびに瞑想になる

思考を観察する存在でいるということは無我になることでもあります、、自我を観察するのは無我です、、自我は観察されることで無我に変化します。なぜならば自我とは無我が思考に取り込まれた状態だからです。自我を観察したら無我になります。思考を観察することで無我が出現します、、、無我が思考に取り込まれ自我になり再び思考を観察することで無我に戻るのです。

人間のトラブルの全ては、、、

人間関係のトラブルの全て

人間関係のトラブルの全ては、、、そこに自己が存在しているという大勘違いこれだけです。。。Aさんという体の中には、、Aさんの言動全てを決めている自己が存在しているという大勘違い、、これがトラブルの原因なのです、、、Aさんはあんな酷いことを言うとはなんという残虐な人だ、、、、違うんです、、、Aさんという体の中には、、それを決めるAさんは存在しておらず、、ただ勝手に森羅万象の動きが起こるだけなのです、、、この大勘違いのみが人類のトラブル全てです。

お店で注文が間違えられたら、、

お店で注文間違いが起こった、、、ビールを頼んだらウーロン茶が出てきた、、、、この時やるべきことは????ただこの事実を受けいれ店員さんに替えてもらうだけ、、、ここに感情が湧き上がることがおかしいのです、、、そのような森羅万象の動きがあっただけでなのです。注文を間違えることができる店員さんの自己は存在しないのです。

私は意図的にそれをやりました、、、

店員さんに注文を改めて言ってみたら、、、「意図的にわざとやったんです」と回答があった、、、これはどういうことでしょうか????店員さんの悪意でしかないじゃないですか、、、違います、、、店員さんが意図的にやったのだという勘違いが起きたのです、、、店員さんの中に自己が存在し、、その自己が意図的にやったのだという思考が起きたのです、、、事実はこうなっています。これでも感情が湧きますか???

雲は動く

雲の中に個人は居ない

雲の中に鳥のような形が生まれます、、この鳥はいつの間にか生まれいずれ無くなるでしょう、、形の崩壊です、、、、この鳥の誕生と消滅には意味があるでしょうか??ありません、、、この雲の動きには狙いがあるでしょうか?ありません、、、雲の動きは森羅万象の動きでしかない、、そこに鳥が生まれ、人間が生まれ、、ドラマが生まれる、、、これも森羅万象の動きでしかありません、、、ドラマに没入するのも自由、ドラマと見抜いて没入から離れるのも自由、、没入は疲れる、、非没入は疲れない、、、ただそれだけ。

今目の前にも、、、

今目の前にも、、、ドラマが起きてますよね、、、完全な森羅万象の動きに、、、勝手にラベルを貼り付け、、、共有した意味を持たせ、、、ドラマを共同で作っていますよね、、そこに没入すれば疲れ、、没入から離れれば疲れない、、、、ドラマに埋没すれば楽しい時もある、、、ただ疲れる、、、ラベルを剥がしてしまえば、、森羅万象の動きに戻ります、、、意味を持たせるにはラベルを貼ってドラマにするだけ、、

この現象は雲よりも動きが遅いだけ

我々が見ている世界は雲よりも動きが遅い現象です、森羅万象の動きです、、、雲の動きに後悔や心配は起きないのは、、雲だと見抜いているからです。。。。我々の動き、、、もただの森羅万象の動き、、時計もコップも、、実はゆっくりと動いている、、、心も動く、、、我々の活動、我々を取り巻く環境も雲のように動くのみ、、何を心配し、何を後悔するのか???何一つこの動きをコントロールなどできないのに、、、

この体の中を観察する

心臓も肺も

この体の中において何が起きているのか???心臓が動き血液が動き、血管が収縮し、、肺が動く、、勝手に自然に動き続ける、、、思考も同じ、、勝手に湧き上がり、勝手に無くなる、、、感情も同じ、、勝手に起こり、勝手に静まる、、、全部が全部全自動、森羅万象の動きでしかない、、、

だから何?

それが何の意味があるのか???ないのです、、、私と言われる体の中が完全に森羅万象の動きでしかないというこれが事実です、、これだけ、、、だから私の人生には価値があるとか、、嘘です、、だってただの森羅万象の動きでしかない、、、しかし森羅万象の動きに価値はないのか????価値も何もそれしかないのです、、、神の動きです、、、神の動きに意味を見出すのは不可能、、、

心配も後悔も滑稽

心配するも後悔するも意味がない、、、なぜならばこれが森羅万象の動きとして起こったのだから、、、森羅万象の動きを後悔する???誰が???ギャグです。森羅万象の動きを後悔できるのは森羅万象をコントロールできる存在です、、、誰????居ません、、、空から生まれた色(森羅万象)はただ動くののです、、目的もなく意味もなく、、、動くから動かない存在に気付けるだけ、、色即是空です。

森羅万象

動きのみ

我々が生きているこの世界はただ動く世界です、、動きのないものは一切存在しない、、微妙にもしくは大胆に常に動き続ける世界に居ます、、万物は全て動いていますから固定した存在はありません、、例えばリンゴという固定した物体は存在せず、、一時的な状態を説明したものです。。リンゴというイメージに沿った状態にある万物の動きを説明したものです。

動きのみの中で

万物は常に動き続けます、この体も例外ではなく、、日々動き続けます、、、、思考も欲望も、衝動も、感情も常に動き続けています、、、その中でこの体の中に自分が居るという発想が起きました、、これが自我です、、これも万物の動きの一つです、、、そしてその自我が活動した記憶が起こり、、自我物語が誕生したのです。動きのある万物が分離しているように見える世界が誕生したのです。

再びしっかりと観察する

今目を閉じて現象、万物の動きを観察してみてください、、一時となく何かが起きるはずです、、冷蔵庫の音、鳥の声、目を閉じても差し込む光、、、隣の家の豚汁の香り、、何かが起きます、、、そうです、、我々は一時と静止しないこの万物の中に居るのです、、、思考も起こり、感情も起こり、、この体も動く、、、これが真実、事実です。。この森羅万象、諸行無常、、の中で安定、平和、幸福を手に入れようとする試みが不幸を作るのです。何一つ固定されない諸行無常、、、しかない、、この体も心も、視界の全てが移ろうだけ、、、終わり。

私の居場所

私はどこに居る?

私の居場所はどこでしょうか?この体の中???違います、、、この体の中に自分は居ません、、では一体どこに居るのでしょうか???今ここに居ます、全体としてここに居ます、、、変化が起こるこの場所そのものが私です、、、そして変化が起こることに気づくためには変化がない場所でもある必要がある、、絶対的存在そのものでもあります。

変化すらしない場所

変化する存在が居て、それに気づく存在「アイアム」がいます、、変化はアイアムの中で繰り広げられるわけですがこのアイアムを生み出す場所こそが絶対の場所、空です。空の場所から色(森羅万象)が生まれ、、、それに気づく存在(アイアム)が生まれます、、

アイアムも空の投影

アイアム、、私が居るという絶対的感覚、、、この感覚は空の投影です、、何もない場所から鏡のようにこの存在が現れました、、、しかしこの存在には実態がなく、、、変化に気づくことで、、、気づきの意識としてそこに居ることを実感します。そしてアイアムが居ることでこれを生み出す場、空が再発見されるわけです。

集団意識とエゴ

集団意識とは?

集団意識、、これは人類の歴史からくる、、記憶の集積場、、あらゆる人が経験した記憶が集まる場所です、、ここに脳がアクセスしますと、、その記憶の影響を受けます、、、例えば日本人独自の恐怖心、、この影響を受けるのです、、、なぜ会社を辞めて好きなことをできないか?集団意識からくる恐怖心の影響を受けます、、、ここを乗り越えるには集団意識のカルマを超越する感覚が必要になります。

本当の自由とは

本当の自由とは、、集団意識を超越する必要があります、、、毎日会社に行って真面目に働かなくては、、、この集団意識の影響を脱出するにはそれを超える感覚を所有する必要があります、、今にいる時、、恐怖心を超越できます、、思考を観察する存在として居れる時に集団意識の影響から脱出できます。朝起きて寝るまでを瞑想状態で過ごせる時に集団意識の影響を遮断できます。

自由が私を再発見する

本当の自由とは偽りの自己が実は居ないという再認識です、いつも瞑想状態にあり、、偽りの自己に支配されなくなると、、、自由が私を解放してくれます、、、本当の自由とは自分そのものであり我々は自由であり明晰であり静寂です、、、、これが我々の本性です、、これを思い出すには思考に支配されない生活を取り戻すしかありません。

他人の小賢しさといかに付き合うか

相手の小賢しさからエゴを見抜く

小賢しい行動をエゴは取り続けるわけですがこことどう付き合うかは重要になります、先ず一番重要なことはエゴの小賢しさと不幸をしっかりと見抜くことです、、エゴは小賢しさをフル発揮して生き延びようとしますが、、これが幸福に繋がっていないことを見抜くのです。エゴの小賢しさは幸福に繋がらないのです、本当に幸福になれていれば小賢しさを手放すはずです、ところがそうはならない、、、不幸の本質にエゴは切り込めないのです。

小賢しさには堂々とNOでいい

エゴは自身が小賢しさを駆使していること自体に気づいていません、ですからエゴと付き合う時にはこの小賢しさに付き合わなくてはならなくなります、、だからと言って小賢しさの被害にあってもいいというわけではありません。エゴを観察する存在、気づきの意識として明晰さの中で小賢しさをシャットアウトすればいいのです。無意識にとってくる相手のエゴの小賢しい行動に明晰さでもって堂々とNOと言います。

賢さで小賢しさをシャットアウトする

本当の賢さとは、、本質的に生きている時に芽生えます、、本質として生きるとは自我が偽りであることを見ぬき自我を観察する存在として生きることです。この時本質は賢さそのものですから他人の小賢しさを見抜くようになります、、これは生きにくくなるとも言えますが、、他人はその小賢しさに気付いてもいない、、ただ思考に飲み込まれそう動かざるをえないだけなのです、、すると他人の小賢しさに寛容になれます。

エゴの小賢しさを相手にしない

エゴは常に小賢しい

人間関係が苦しいのはエゴとエゴの付き合いだからです、このエゴは基本小賢しく、、小賢しさが土台になっています。この小賢しさを基本にした人間関係が平和であるわけがないのです、、ですからこの小賢しさの人間関係から脱出したければ自身が先ずエゴを観察する存在になるしかありません、エゴを観察する存在こそが本当の自分です。この自分に戻った時に小賢しさが全く必要ない明晰さが残ります。

小賢しい人間関係に興味すら持たない

小賢しさを基本にするこの人間関係に関わることは大変なことです、ですから無理して関わる必要はない、、代わりにエゴを観察する存在として明晰さとともにいます、この場所は安全な場所、平和、静寂そのものです。そして無理して人間関係に関わらないことで明晰さで行動を起こしていきます、、益々人間関係を必要としなくなります。

小賢しさの先に未来はない

なぜエゴは小賢しさを駆使して生き延びようとするのか?苦しいからです。苦しいからこそ小賢しさを駆使するのです、そして小賢しさを駆使して何かを得ても全くこの苦しさは解消されない、、結果益々小賢しくなっていくのです。そうではなく小賢しさの先には一切幸福がなく、、小賢しさを手放すことを目的に変えます。本当の賢さは自我、エゴを手放した先にあります、自我、エゴを観察する存在、それが賢さです。