全ての動きに自分を感じる

風が動く、、

風が動く、、この動きが自分です、、風を感じる、、この感覚を起こす力が自分です、衝動を感じる、、この動きこそが自分です、、森羅万象全ての動きを動かす存在こそが自分です、、どこまでいっても自分しか居ない、、、ただこの自分は最大限偉大な存在、この自分以上に偉大な存在は居ない、、そして自分以外も居ない、、全動きを起こす全存在が自分だということを意識して生活します、、、すると、、人間関係が変わる、生活の全てが変わる、、全現象に気づきが起きます。

自分がやっているという絶対感覚

子供は川で魚を見ると興奮します、、、なぜならば魚を動かしているのは自分であることを知っているからです、、魚を魚たらしめているのも自分、川を川たらしめているのも自分、魚を見るという行為も自分が作り出しています、、、だから興奮する、、、それが大人になると何も感じない、、ただ魚が居るだけ、、終わり、、自分が完全に魚と分離している、、だから興味も湧かない、、、

本当は魚であり、魚を動かしている、、、

本当の本当は魚を魚として動かしている張本人こそが自分自身です、、この感覚を子供は覚えている、、だから興奮してしまう、、、自分がこんなすごいことをやっているという喜び、、、はっきりと感じる万能感は嘘ではない、、俺が雲を作りその雲を動かしているという絶対感、、、そう今も全部を自分が作り出しています。

話しかけてもらうということ

この体の中に自分が居ることの再確認

話しかけてもらうというのは、、この体の中に自分が居るという絶対的な安心になります、、、だから人は話し相手を求め続けます、、、話をしてくれれば、、その中に自分を再確認できるからです、、、ところが、、その再認識は誤解の永続ですから苦しいのです、、、苦しみの延命措置です、、、

進化したコミュニケーション

本当には何が起きているのか???全部を全動かす力、これこそが我々の本質です、、、この体を作りあげ、会話を作り上げ、相手の話を聞くを作り上げ、相手の体を作り上げている存在こそが自分自身です。自分と自分の会話どころではない、、会話という動きも自分です、、、会話するためのスペースも自分、声が起こる場所も自分、、、全部が自分です。

同じ会話なのに、、、

同じ会話にも関わらず全く気づきが違います、、一方は自我の再認識、、、もう一方は、、全体が全体を起こしているという再認識です、、自我の再認識は苦しみの永続、、全体が全体を起こすという再認識は苦しいの終焉です。自我の再認識には気づきが起きません、無意識こそが自我だからです、、ところが全体が全体を起こすというのはそれに気づく存在が必要なのです、、その場所が静寂、平和です。

進化したコミュニケーション

本当のコミュニケーション

本当のコミュニケーション、進化したコミュニケーションとは、、、真我発見のための、、共同作業です、、自我の存在を見抜き、、自我の観察をお互いにし、、、自我を観察する「無我」になるのです、共同で。あなたの自我の動きはこうだね、、私の自我はこう動いた、、と観察の対象としてのコミュニケーションになります、、、これはお互いにとっての悟りセッションです。

自我を認めるのではなく、、

自我を観察するのは無我です、、、お互いが無我になって其々の自我を観察します、、、この瞬間、、、お互いが無我になります、、、静寂、平和がその瞬間に訪れる、、、自我の無意識な行動の話ではなく、、、その自我を観察する無我同士のおしゃべり、、、無我になるための練習の時間に変わります。

〇〇さんってこうだよね

〇〇さんってこういう癖があるよね、、、その癖を見抜くのは無我です、、、自我の状態は思考に取り込まれていますから無意識の行動が増えます、、、すると、、、苦しい、、、自我の無意識の行動をお互いに俯瞰すればその瞬間に無我に近づきます、、、俯瞰コミュニケーションです、、、お互いが悟りへの誘いになります。

自我のたわいのないお喋り

面白いかどうかではない

自我は生存戦略として自分を認めてくれる人を探し出し、、ただひたすらに相手にしてもらうことを作戦上とります、、、本当は自我は存在していませんから、、自我常に不安で不安で仕方がないのです、、、すると相手とのコミュニケーションは、、自分の話を聞いてもらうこと、、ただこの一点に尽きます、、ということで自我のおしゃべりはたわいのないもになるのです、、、相手のためではなく、、、この自分の存在を認識してもらえるかが最重要なのです、、、目覚めに近づいていきますと、、この自我のおしゃべりが退屈になります、、なぜならばその会話には意味が全くないからです

相手の存在を認めてあげるジレンマ

相手の存在を認めてあげれば当然相手は喜びます、、居ないにも関わらず居ると信じてくれる相手は最重要です、、、ですがこの話こそが相手の自我存続をさらに加速させます、、、安定させます、、ということで気づきが進んでいる方は、、この会話に意味を見出せません、、、くだらない時間だと思います、、

認めてもらいたい、認めてほしい

認めてもらいたい、認めて欲しい、、このやりとりこそが自我の延命共同戦略です、、、会話はこの一点に集約されます、、、、そして多くの場合このやりとりは成功を収め、、、自我は安泰の状態になる、、、ところが家に帰ると、、、苦しい、、、孤独感、、になります、、、、つまり自我を強く意識するということは真実から外れるのです、、結果苦しい、、、この終わらない苦しみに気づくと、、、コミュニケーションが変わります。

自分を理解してくれる人を求めて

自分を分かってもらうために

この自分、体の中の自分は実際は居ませんから、、、自我は本能的に自分を認識してくれる人、認めてくれる人を求め続けます、、、実際には居ないのですから、、非常に苦しい、、だからこそ自分を認めてくれる存在は圧倒的に重要になります、、、自我は常に常に自分を構ってくれる人を求め続けます、、、

この人は私を分かってくれる、、、

最大の自我生存戦略は自分を徹底的に理解してくれる人の存在です、、、この人が居れば、、、自我は一生生存できる、、、だからこそ、、、その相手を大切にします、、、自我は自身の存在を認めてもらうことでホッとします、、、ところが、、、本当の自分は自我ではありませんからそれでも苦しいは解放されない、、、自我は生存できるが苦しいは解消されない、、、これが争いの火種になります。

争いが絶えない

自我は自分を認めてくれる人がどうしても必要、しかし自我を自分だと勘違いしたままでは苦しいが終わらない、、、このジレンマに苦しみ続けます、、、だからこそ悟りが重要になります、、自分はこの体の中ではなく全体、大我であるという再認識が起きない限り、、この苦しみは終わらない、、、この苦しいを相手のせいにして相手を責め立てたりまします。だから争いが終わらない、、、

自我は悟りよりも争いを好む

争いの効能

自我は争いを好んでいます、、争いたくないと口では言いますが実際には争いを求めます、なぜならば争っているという活動そのものが自我を強化できるからです、、つまり争いは自我の延命活動なのです、、、ですがこの争いが辛いということもまた事実ですから、、、これは苦しみを作り出すのです、、、そしてなぜ私は争ってばかりなのだろうという絶望こそが気づきなのです。

毎回争っているなー

どの会社に就職しても、、、なぜか争いが起きる、、、どの組織に所属してもなぜか争いが起きる、、、これは自身のエゴが、、、争いを起こすことで自我を存続させようとしているのです、、、相手の粗を探し出し、、そこを突くことで、、争いに持ち込みます、、もしくは、、相手が困るような行動を無意識に行い、、争いを相手から仕掛けてもらいます、、、こうして争いが勃発します、、、そして苦しい、、、

相手にしてもらうには相手を困らせる

自我は自身の存続のために、、相手を困らせます、、、構ってもらうためには何だってするのです、、相談を通じて構ってもらう、、不満をぶつけて構ってもらう、、批判をして構ってもらう、、あらゆる方法で自我は自身の存在を認識させようとします。これが自我です、、、自分という絶対的な存在が居ないことを分かっているからこそ、、とにかく敵、味方、、関係なく必要とします。。。

自我の防御システムをいかに潜り抜けるか

究極のリアリティは自我には通用しない

私しかここにはいない、、こんなメッセージを自我は拒絶します、、意味不明、これで終わりです、、、そこで自我の拒絶反応、防御反応を起こさせない形での伝達をメッセンジャーには求められるのです、、、ストーリー、物語風にこのメッセージを伝えないと、、自我は基本受け入れない、、今しかない、、ダメです、、こんなメッセージは。時間という感覚は確実に在る、、、ここから入らないと自我は許さない、、

物語に入り込ませる

「あなた」はいつか絶対に幸福になれます、、ここから入らなければ自我は許容しない、、そしていつの間にかこの体の中には自分で実は居ないんだなーという気づきに導きます、、この気づきはどこから起こるのか、、全体、気づきの意識です、、、「あなた」は確実に居て相手も確実に居る、、友人も確実に存在する、、、ですが、、それって夜見る夢と何が違うのか???夜見る夢との決定的な違いはなんでしょうか???ないのです、、こうやって自我の拒絶反応をくぐり抜けます。

先ずは私が居るという感覚を絶対肯定する

自我最大の勘違いが、、「私は居る」という絶対的感覚です、、この「私が居る」があらゆる経験を所有することでこの自我物語は確固たるものになります、、「私が居る」が、、、あらゆる経験を時間の中で所有していくというシステムです。「私はゲームをやっている」という絶対的感覚が、、、この体が穴に落ちた、この体が批判にあった、、この体が称賛にあった、、、を蓄積していくのです。ここにいきなり「私は居ないんですよ」は無理ゲーです、、、だって「私は居る」は100%の感覚だからです、、ここからならば自我は存在を明け渡します。というよりも「私は在る」はこの体の中に居ないを気づくのです、「私は在る」の中で実は全部が起こっていたことに気づきます。

経験って何だ?

経験とは

経験という言葉があります、、この言葉の意味は何でしょうか??人が行動することで得た感覚の全て、、、ということにはなるでしょう、、、、五感の感覚、いや脳も入れれば六感の感覚でしょう、、、ではこの六感の感覚、経験を生み出すエネルギーは誰が作っているのでしょうか??この体を自分とすれば自分になりますが、、ですが自分は本当にこの感覚を作りだせるのか???痛いという感覚を自分で作った???違いますね、、感覚は勝手に湧くのです、、、この湧かす動き、、、この感覚を作り出す動き、エネルギーこそが本当の私です。

美味しい

何かを食べれば「美味しい」が湧いてきます、、この動き、、この動きこそが私です、、、お酒を飲めば酔う、、、この酔うという動き、、この動きこそが私です、、、だんだんと分かってきましたね、、全現象、、この私を取り囲む全現象を動かす存在、、これが私です、、、五感の感覚の全てを作り出す動き、、これが私です、、、

自転車に乗る

自転車を自転車たらしむ動き、、この動きが私です、、そしてこの体を体たらしむ動き、、これも私です、、、そしてこの自転車に乗る、、この経験の全て、、、風を感じる、、視界が動く、、日差しを感じる、、感じる全てを作り出す動き、、これが私です、、、視界が変わり続ける、、、この変化を起こす動き、、これが私です、、、全部が全部この私です、、私以外が一切いない、、、

寝ている間の心臓の動き

自分以外の動き

私は今心臓を動かしています、、この感覚はありません、、なぜならば寝ている時にも心臓は動き続けますから。では心臓は誰が動かしているのか???勿論自分自身です、、意識をしてはいませんが自分自身が動かしています、、、この動き、この動きを作っている存在、、、それが私です、、、爪が伸びる、、この動き、、この動きを作っている存在、、これが私です、、、、

思考が湧く、、

思考が湧く、感情が湧く、衝動が湧く、、、この動き、、、この動かす存在こそが私です、、、目の前の木、、この木を木たらしませる動きこそが、、この私です、、、、その木を、、、私が見る、、この経験、、この経験を経験たらしむ動き、、、それがこの私です、、、全部の動き、、、これが私です、、、、部屋に孤独に居る、、、違います、、この部屋を部屋たらしむ動き、、この体を体たらしむ動き、、そこに私が居るという感覚を感覚たらしむ動き、、全部が私です、、、

独り言を言う

思わず独り言を言ってしまった、、、この動き、、独り言を起こす動きこそが私です、、、意識的に人に話しかける、、、この意識、、そして話しかけるという動き、、この動きこそが私です、、、目の前を人が通る、、この人を人たらしむ動き、、その人が通るという動きを動きたらしむ動き、、、全部が私です。この体の中の全ての動きも、この体以外の全ての動きも、、そしてこの体を通して起こる経験という動きも全部この私です。ではこの動きはどこから起きるのか???空、絶対などと言います。この動きが起こるスペース(空)もこの私です。私(スペース)から動き(私)が起こる、、、この起こる動きも私です。動き(私)が動き(私)に気づき動くスペース(私)の存在に気づきます。

なぜ自分は幸福を求めるのか??

自分は不幸だから

幸福を求めていない人はいないでしょう、、ではなぜ幸福を求めるのか??不幸だからです。。。普段酸素を求めている人はいません、、ですが水中に潜ると、、、酸素を求めますね、、、水中には酸素がないからです。つまり幸福を求めるのは基本不幸だからです、、、ですから不幸を背負った状態で、、幸福を求めても無駄なのです、、、水中(不幸)から出なければなんの意味もないのです。

水中から出るには、、、

水中から出る、不幸からでるには、、、今が不幸であることを完全に認めることです。。。今が不幸だから幸福に興味があるのです、、、基本はここです、、、そしてなぜ不幸なのか???個人であるという状態は絶対的に不幸なのです、、、ここが重要です、、、人間のこの体を自分として生きるのは絶対的に不幸なのです、、全員が、、、では自分とは何なのか????自分とはこの体ではなく、、この体、、森羅万象の全てです。

森羅万象が自分であるという実感が湧かないが、、、

森羅万象全てが自分自身であるという実感が湧かないのですが、、、それはそうです、、、何年間もかけて、、、この体が自分であるという学習をしてしまったのですから、、その思い込みを作るには莫大な労力がかかっているのです、、、ということでこの思い込みを外すには莫大な労力がかかります、、ですがこの試みはどこかで必ず成功します、、、なぜならば、、、それが真実だからです、、、真実の前に概念は崩れます、、