自我がやることは「クソ」

自我の存在に気づくと、、

残念ながら自我がとる行動というのは、、終わっています、、ですから全人類が基本的に終わっていると思ってしまうのが重要です。自我は自身の存続以外に興味がなく、、、そのため、、、全くもって得にも損にもならない行動をただ繰り返し、、争いも絶えません。。。。この自我の人間社会に参加するのは大変骨が折れるのです、、其々の自我は幸福になるための確実な行動を取れるならば問題がないのですが、、幸福とはかけはなれた行動を取り続けるのですから、、、それは大変なのです、、、

お腹が空いていなくても食べる

一瞬の幸福を求めて過食に走ります、、一瞬の幸福、、、この後に体調が劇的に悪くなろうとも一瞬の幸福を求めて走ります、、これが自我です、、苦しくて苦しくて、、、どうにかしたい、、、これを一瞬でも解消したいから、、過食に走る、過稼に走る、過飲に走る、過色に走るを繰り返すのです、、、この自我の動きを見抜きます、、

そして絶対的に肯定する

見抜いてたと、、、自我は、、、飲酒を、過食を、過剰行動を繰り返すのですが、、、それを後悔しない、、、後悔するのは実は自我の策略です、、、そこを絶対的に肯定します、、、ああ、、それが起きたんだなと、、、それでもやってしまった自我のクソ行動を絶対肯定するのです、、、昨晩は浴びるほどに飲んでしまった、、、が起きたんだけだと、、、これによって自我は徐々に縮小していきます。

電子は常に回っている

この動きは誰が作った?

我々の体は原子で構成されていますがこの原子には電子というものがあり原子核の周りを電子は回り続けています、、この動き、、、全原子の中で動き続けるこの電子の動きは、、、誰が作っているのか??私の体の中の動きを作っているのがこの「私」とするならば、、、電子を動かしている存在は「私」です。

ではコーヒーカップは?

では目の前にあるコーヒカップ、、このカップを構成する原子の電子の動きは、、、誰が作っているのでしょうか???コーヒーカップです、、コーヒーカップがこの電子を動きを起こす存在ということになります、、、????違いますね、、、コーヒーカップの電子の動きは、、、勝手に起こっている、、これを起こす存在は居ません、、、、とするならば、、、私の体の全細胞の全電子の動きは勝手に起こっています、、つまり「私」など何の力もない?

私が死んでも電子は動く

仮に私が突然死したとしても、、、その体を構成する細胞の電子は動き続けています、、、私が居なくても、、、全く関係なく電子は動き続けます、、、つまり私の存在とは全く関係なく、、電子は動き続ける、、、これが事実です。。。私というのはこの体が動く期間のラベルに過ぎません、、思考が湧く、感情が湧く、、期間のラベルに過ぎないということです、、そしてこの電子を動きを生み出している存在こそが本当の自分、真我、ユニティーです。

全部自分だけど所有権はないですよ

ニューヨークの高層ビル

ニューヨークの高層ビルも我々の本質でできています、、つまり我々です、、、ですが所有権はないですよね????そうです、、後付けのラベルを所有する個人は別に居ます、、、ですがそのラベルのエネルギーは我々の本質ですし、、、ニューヨークの高層ビルを所有する個人を構成するエネルギーも我々の本質です、、どこまでいっても我々の本意以外が存在しないのです。

最初から自分の物ならば、、

勿論旅行に行くにはお金がかかりますし、、何かを所有するにはお金がかかります、、、ここからはどうしても逃れられない、、、ですが、、本質は全部自分なのだ、、、という絶対的理解に達しますと、、、何かを手に入れたい、何かを欲したいという衝動が希薄になっていきます、、、、今というこの状況が決して苦しくない、、これまでの苦しみを解消するための衝動が無くなっていくのです。

欲求も衝動も思考も湧かない

万物を構成するエネルギー全経験、全感情、全思考、全衝動を構成するエネルギーが我々の本質であるという絶対的理解に達しますと、、、焦りが消えます、、個人という存在に全フォーカスができなくなります、、個人のみを特別扱いできなくなるのです、、、すると思考、感情、衝動の絶対量が減っていきます、、

現象に良し悪しはない

現象の良し悪し

我々は現象に良し悪しをつけますが、、我々はこの現象を生み出したエネルギーそのものですから良し悪しは本来ありません。現象に良し悪しをつけるという経験そのもののエネルギーです、、植物を構成するエネルギーに良し悪しは全くありません、、人間の体を構成するエネルギーに良し悪しもありません、、全ての現象はエネルギーで構成されていてそのエネルギーが我々の本質です。

この自分にとって

この自分にとってこの現象は良いことだ、、、という判断が下るという経験を作っているのが我々の本質です。この自分にとって今日の天気は最高だ、、という気分を作っているエネルギーが我々の本質なのです。どこまでいってもそこには自分しかいない、、全経験も自分です、、、全部が全部自分ならば何を焦って成し遂げることがあるのか?という話です。

たった一つのエネルギー

たった一つのエネルギーが万物を生み出し、経験を生み出しています、、、たった一つ、、そのたった一つのエネルギーこそ私です。。。このたった一つのエネルギーが変化していく様を諸行無常と言います、、森羅万象です、、あらゆる思考、衝動、感情が湧き出しますが、、このエネルギーもたった一つのエネルギーの様です。この中で個人は焦って何かを手に入れようとすることもできるし、全部自分ならば何を手に入れるのか?と気軽に考えることも自由です。

万物を動かす完璧なエネルギー

我々はこのエネルギーそのもの

我々は実はこの万物を動かすエネルギーそのもの、エネルギー自体です。一見分離独立しているように見えますが、、分離独立した物体を物体たらしむエネルギーそのものです、、このコップも、このPCも、この植物も、この体もそうさせているエネルギーがあり、、、それです。ですからこの個人を個人たらしむエネルギーもそれですし、全部が全部このエネルギーによって構成されています。

コーヒーを味わう

コーヒーを味わうという経験を作っているエネルギーこれが我々の本質です、、、音を聞くという経験を作っているエネルギーこれが我々の本質です、、お金を得るという経験を作っているエネルギーこれが我々の本質です。この幻想を現実だと勘違いする経験を作っているエネルギーこれが我々の本質です。個人としての全経験を作っているエネルギーが我々の本質です。

個人が吹き飛ぶ

個人としての全ての経験を作っているエネルギーが我々の本質であることが腹落ちしてきますと、、個人が徐々に軽薄になっていきます、、個人にフォーカスが当たらなくなっていきます、、全体としての全体の行動に意識がフォーカスされてきます、、全経験を生み出すエネルギーに意識がフォーカスされてきます、、、これが悟りです。

夢だとしてだから何だ?

夢なのは分かった、、、

これはどう考えても夢です、、、夢を構成するエネルギーがこの私の正体です、、、夢を構成するエネルギー?それを仏教では色と言います、、色がある世界、、これを構成するエネルギーが私です。ではこの夢を見ているのは誰だ??それももう一つの私です、、、気づきの意識とか言ったります、、、、ではこの夢を構成するエネルギーはどこから生まれたのかそれが空です。

なぜ空が現れるのか?

これが夢で、この夢を見ている存在がいて、、この夢を構成するエネルギー(色)があって、、そうすると子の色を生み出す存在が必要になります、、そこで空が登場します。。。これによって色は空を生み出したのです。空が色を生み出しておいて色に気づく存在が現れる(気づきの意識)が現れ、結果空の存在に気づきます。色即是空です。

これが夢だと見抜き、空を見抜く、空と色は一つを見抜く

これは完全ある夢で、、、この夢のことを色と言い、、、この夢を見ている存在を気づきの意識と呼ぶ、、、そしてこの色を生み出す存在、空の存在に気づく、、、色は空であり、空は色でもある、、、私はこの世界を生み出した全存在、夢も私生み出した存在も私、、、私しかいないが、、、この私が作り出す世界は正気に溢れ、生命に溢れ、毎日、毎秒移ろう世界、、、究極のアートです。

完全なる夢だという気づき

生命の動き

もしもこの私の体を動かすエネルギーが、、私なのだとすると、、、心臓、肺、思考、感情、衝動を起こすエネルギーが私なのだとしますと、、、この私と、、、今目の前に居る人間とは別々の存在でしょうか?今目の前に居る人間を動かすエネルギー、心臓、肺、肝臓、思考、感情、、を動かすエネルギーは私の体の中を動かすエネルギーとは別物なのでしょうか?私がこの心臓、肺、思考、感情を起こしているという実感がないにも関わらず、、、そして相手も心臓・肺、肝臓、思考、感情を起こしているという実感がないのですから各エネルギーが別物だという証明ができません。

この体、コーヒーカップ

この体を動かすエネルギーが自分だとします、、目の前のコーヒーカップをコーヒーカップたらしむエネルギーは誰の物でしょうか????この体の心臓、肺、肝臓、腎臓を動かすエネルギーとコーヒーカップを動かすエネルギーがもしも別々だとしたら、、、そこを切り分ける種別は何でしょうか???ありません、、、、私を動かす全エネルギーとコーヒーカップを動かす全エネルギーは同じものです。

これって夢と同じだよね、、、

今日私が見る夢の中のこの自分と、相手を構成するエネルギーは全く同じものでできています、、、夢を構成するエネルギーをもしもここで出せるならば全く同じエネルギーで、自分、相手、登場人物でこの夢は構成されます。今私が生きているこの世界も全部同じエネルギーで運営されているならば、、、これは夢と同じですね。では誰が見ている夢でしょうか???この夢は空、神、絶対が見る夢です。

なるようになる

これは堕落ではない

なるようになるさ、、、こんな言葉が出てきます、、絶体絶命の状態で、、、なるようになるしかない、、思考が諦めた時にこの言葉が出てきます、、、ですがこれが真実です、、いつでもなるようになっているのです、、生まれてきてこれまでが全部「なるようになっている」のです。だから絶体絶命、思考が抜けた時にこの感覚を思い出します、、

これからも「なるようになる」

今までが「なるようになってきた」のですからこれからも「なるようになり」ます。いやそんなことはない病気になってしまう人もいるではないか???そうです、それがなるようになったのです、、?????世の中で起きることの全てがなるようになっているので、病気も大成功も、大努力も、大失敗もなるようになった結果なのです。。あなたの大努力は、、そうなるようになっていたのです。

大努力も大怠惰もなるようになっていた、、

大努力は本人の絶対的意志の力、、大堕落も本人の怠慢でしかない、、、違います、、全部そうなるようになっていたということです、、、、血が滲むような努力すらも、、、そうなるようになっていたのです、、それを遂行する意志の力が起きたのです、、たまたま、、、ですがこれらの事実が腹落ちしますと、、、思考が湧かなくなり、感情も湧かなくなり、、、明晰さ、賢さが現れ、、結果達人的な動きが起きます。

幻想だから落ち込める

究極の現実は平和

なぜ落ち込めるのか?それは幻想の世界に居るからです、、幻想の世界に入り込んで居るときだけ落ち込むことができます、、、この幻想では地獄も天国も状態としてあるからです、八方塞がりも状態としては確実にあります、、この自分が居るという大前提でしか周囲を塞がれるという感覚を持つことはできません。実際には周囲を塞がれる個人が居ませんから八方を塞がれても落ち込むことはできません。

究極の現実は生命そのもの

究極の現実は、、我々は生命そのものです、、生命そのものですからこの体、このコップ、この光、この雲、、全部を動かす生命そのものです、、、その中に思考が生まれ、感情が生まれ、この体の中に自分が居るという感覚が生命として起きているだけです。ですから我々は全生命そのものなのです。この体を動かす生命と、このコップを動かす生命が別々だという事実はありません。

幻想に入り込むという生命の動き

幻想に入り込むのも生命の動きです、、幻想の中に入り、自分が居て、相手が居てという現象が起こるのも生命の動きです、、そして我々はこの幻想を作り出す全生命です、、その実感が無いだけ、、、ですが実感が無いのも生命の動きです、、そこに突然全体だという気づきが起きます、生命の動きとして。。これが悟りです、ノンデュアリティです、、ユニティーです、、、。

この自分が居るという瞑想

我々が行っているのは自分が居るという瞑想に集中している

自分が居るという瞑想に集中した状態、、それが我々の瞑想活動です、、、自分が100%居るということを瞑想している、、、この瞑想が苦しいのですね、、、過去にあらゆる経験を重ねてしまったがゆえにあらゆる感情が自動反応で起きます、、例えば犬に噛まれた記憶はあれば、、犬を見るたびに怖いという感情が湧き起こります、この感情を感じたくないがゆえに思考が湧き上がるという自動反応が起きます、、、これによって思考していることにすら気づかない状態、気づきの意識が自分が居るに集中している状態になるのです。

感情が勝手に湧き上がり、思考が勝手に湧き上がる

何か行動が起きれば過去の記憶によってあらゆる感情が自動反応で湧き上がります、、この感情を避けるために思考がさらに湧き上がるという二人三脚が起きます、、、負のスパイラルです、、思考に無我が取り込まれ、思考を観察する存在(無我、気づきの意識)が思考に集中しきっている状態です。これが苦しい状態なのです。。全体が部分に集中しきっている状態、閉塞感を全開で感じることができる状態です。

閉塞感を全開で感じているのに

閉塞感を全開で感じる活動(瞑想)をしておいてこの苦しさをなんとか解決しようとしているのが我々です、、、ですから答えは自分活動、この瞑想を辞めてしまうことなのです、、今この場でこの瞑想を辞めてしまうということです、、何をしたらいいですか??今この場でこの人間活動、自分が居るという瞑想、活動を止めることなのです。これ以外に方法はありません。逆に言えば、、、この瞑想を今完全に終わらせてしまえば、、悟りに入ります、、気づきの意識が深まります。