やる気も全部真我

今日はやる気がでない

やるきさえ出れば、、、、このやる気を作るのは誰でしょう、、、個人がこのやる気をせっせと作れるか???全部が全部真我から起きます、、やる気は、、、生まれて死ぬまでの全やる気は真我から起こる、、そもそもやる気という決まったエネルギーはないのですが、、全部が全部真我の動きです、、、、やる気さえあればもっとやれるのに、、、、今この思考が真我から生まれました、、、

立ち止まる

人間活動に集中していますと、、この真実が理解できません、、なぜならば個人は一生懸命に生きていますから、、立ち止まることができない、、止まったら苦しくなってしまう、、個人活動は基本苦しいので、、止まれない、、、プールの中で泳いでいて、、、止まれば息が吸えなく、、苦しい、、、これが個人活動、、、、朝から晩まで空気を吸うために動く、、、、これを完全ストップする、、、すると体が水中から浮いて、、、動かなくても空気が吸えることが分かった、、、これが悟りです。

どうしても途中でもがく

ただこの瞬間しばらく止まっていれば、、、息が吸えるのに、、、途中で怖くなってもがく、、、これで振り出し、、しばらく活動をやめ真我にシフトすれば、、、苦しくない、、、途中でやっぱり怖いと自我はもがいて息を吸う、、、一瞬息が吸えてまた活動の日々に、、、この体に私は居るという個人活動のリスタートが始まる、、、だから覚者は何度でも言う、、、「活動を止めろ、ただそこで活動を止めろ」と。

手をあげると反応が必ず起きる

ある時自分が忘れ去られる

手を挙げればタクシーが止まる、、手を挙げればお店のスタッフが注文を取りに来る、、、この体から動きが起きると、、全体が反応する、、、これを皆さんは当たり前と思っている、、ですがこれが当たり前って凄いことです、、、、、世界中どこに行っても、、、手を挙げれば周囲が反応する、、、全部が全部真我の活動であるとすれば、、、真我の活動は手抜きがない、、、

反応が必ず起きる世界

手を挙げればタクシーが止まる、、この反応、、この反応を釈迦は縁起と表現しました、、何かしらのきっかけでこの世界は反応が起きる、、、だからこそこの個人は個人活動をしているという錯覚が起きます、、、ですがこの反応を個人は一切コントロールしていない、、、なぜならば全部真我の活動でしかないから。手をあげてもタクシーが止まるか止まらないかは真我次第、、これをコントロールできる個人は存在しません。

素裸で手を上げても

素裸で手を上げても誰もタクシーは止まらないでしょう、、これも縁起、、、だから活動をコントールしているという個人が居るという思考が真我から生まれる、、、次から服を着よう、、が真我から生まれる、、この次からは服を着よう、、、を私が反省した、、という思考が真我から生まれる、、、自我とは真我の活動そのものです、、、自我を自我在らしめている動き、それが真我です。

それでも私はやっている

必ずそこに帰る

なるほど、全部真我がやっているんですね、、、そこに自我が出る幕もなければ、、自我がやっているという思考が真我から出ていただけ、、、なるほど!!!ですが、、、一歩外に出ればそれを忘れる、、、個人がグワっと出てきて個人が全部をやっているという錯覚の世界に戻る、、、なぜならば道ゆく人々全員がそう思考して生きているから、、引っ張られる、、、誰も個人を含めた全活動を真我がやっているととは思っていない、、その気づきが起きていない、、、

だから山に篭った

昔は悟りを開く際には山に篭った、、これは理解できる、、、どうしても周囲の感覚とのズレがでる、、周囲は個人活動をしている〇〇さんとして扱ってくる、、これに騙される、、誰が????騙されるという動きが真我から生まれる、、、どこまでいっても圧倒的に個人が自由意思で自由活動をしていると周囲は思っている、、この中で真我の全活動スペースであるという腹落ちが起きない、、、これは本当に意識の完全なるシフト、、

悟りに集中する

悟りに集中した方が良い、、、というよりも事実として悟りの集中しないと、、、悟りが起きない、、起きにくい、、意識のシフトを日々忙しくしながら起こすのは難しい、、これは事実、、血反吐吐く覚悟でこれを行わないとなかなか難しい、、これが事実、、個人の活動に完全に興味を無くし、、、全活動が真我の活動であるという認識シフト、、、それでも勿論この体の活動は続く、、

旅の道中の全て

今日から旅に

今日から旅にでよう、、この思考が真我から生まれました、、そして旅に出る、、、ウキウキ、ワクワク、、全部真我から生まれています、、心拍数が上がる、、、全部真我から生まれます、、その心臓を心臓在らしめているのも真我、この体を体在らしめているのも真我です、、、飛行機に乗る、、この飛行機を飛行機あらしめているのも真我です、、見える景色をを景色在らしめているのも真我、、見えるという経験、この経験を在らしめているのも真我です、、全景色、全物質、全経験、全感想をそう在らしめているのが真我です。

旅でスリにあう

旅でスリにあってしまった、、、そのスリ師をスリ師として在らしめているのが真我です、、スリにあうという経験を作ったのが真我です、、そして落ち込む、、、この落ち込むという感情を作り上げたのが真我、感情を感情在らしめているのが真我です、、、そうです、、全部が全部真我の動きでしかない、、、それ以外が何もない、、、

この中で個人は何かしたのか???

全部が全部真我の活動でしかない、、では個人は何をやっているのか?????もう分かりますよね、、、何もしていない、、、全部真我からただ淡々と起こり続ける現象を、、個人がやったという誤解が起きているだけなのです、、ここが最重要ポイント、、ここがこのシステム次第の分岐点です。「旅に出よう」これが真我から生まれている、、これを「私はそう決めた」こういう思考が真我から生まれた、、、「私はそう決めた」が真我から生まれたならば自我の活動は皆無です、、、、「私はそう決めた」は自我の活動だと思う思考が、、、真我から生まれていただけだった、、以上

真我生まれ真我育ち見える物全部真我

我々は真我から一度も離れたことがなかった

我々は真我から一度たりとも離れたことがありません、、そんなはずは????こんなに苦しいのに、、なぜ???真我から離れていないのならば、、なぜ苦しい???そうですよね、信じられないですよね、、、ですが、、本当なのです、、真我から一切離れていなくても、、事実はがっつりそうなのです。真我がこの苦しくなるような動きを起こしたのです、、それが自我です、、、これは真我が生み出した創造物です、、この事実に気づくことが起きた時、この苦しには解消されます。

苦しみを作り出したのは真我

一切何も問題がないのは苦しみを作り出したのは真我そのものであること、自分でこの苦しみを作り出したのですから、、何も誰も悪くない、、悪いと言えば真我になりますが、、、真我も自由意志でこれを作ったのではなく、、ただそれが起こった、、という事実です。良い行い、悪い行い、、全部真我からただ湧き起こります、、良い悪いという判断すらも真我から湧き起こる、、、どこまでいっても真我劇場です。

真我総指揮自我物語

この世界は真我総指揮自我物語です、、ですから喜怒哀楽の全ては真我が作り出しています、自我があってこの物語があって喜怒哀楽がある、、、この全てを作り出しているのが真我です。。今私は映画を観て楽しくなった、、この経験の全てを作り出したのが真我です、、、神です、、そしてこの活動が起こるスペース、これも真我です、、もしくは空、絶対などと言います。だからなんだ???この疑問すらも今真我から生まれました。だったらもう深刻に考えなくていいな、、この感想も今真我から生まれました。

全現象を作り出しておいて

じゃあこの体の中の私は今後どうなるのか???

全現象を作り出している存在こそが本当の私、真我なのは分かった、、、では今後この体の中の私は一体全体どうやって生きていけばいいのか?????何も変わりません、、、これまでも本当の自分が全部が全部思考、感情、行動を起こしてきたのですから、、、、これからも全部が全部本当の自分がそれを起こすのです。

事実の再認識が起こる

悟りとは事実の再認識が起こることです、、どこで起こるのか???全体、本当の自分の中でそれが起きるのです、、、全部自分がやっていたという究極の気づきが、、、突然起きるのです。。。そしてこれからもこの体の小我はそれを踏まえた上で言動が起き続けます、、、ただし大我、真我の存在がはっきりと気づかれてしまった後に小我は頻繁には現れ得ない、、、大我、真我の中で全部自分がやっていたという気づきが起きた以上、、小我が今までのようにこの体をコントロールしているという動きは起きにくい、、、という話です。

今も動く、、全体の動き

今も必ず何かが起きています、、、冷蔵庫の音、風の音、、日の光、、全部が全部この私が起こし、経験、感覚を作り出しています、、、、全部です、、、、小我は、、、、この真我の中で、、、何をでしゃばれるのか????解決しなきゃいけない問題は、、、この私が全部作り出しています、、、本当にそれは問題なのか???友人から先週罵られた、、、その経験、友人、全部をこの私が起こしました、、、これは問題と言っていいのか???疑問です。

絶望の終わり

全現象を起こしておいて

ニュースではあらゆる絶望的なニュースが流れるでしょう、、、ですが今この体が居るこの空間でそのような絶望的な事件は本当に起きているのか????居ませんね、、、そうです、、いまこの空間で起きる全てを起こす張本人の自分が、、そこまで絶望的な状況を作っていないはず、、目の前で殺人が起き、強盗が起き、、、、ないです、、、

全現象を私が今も起こしている

この花も、この木も、この人の流れも、、、全部が全部本当の私が起こし続けています、、、そこに不満を持てるでしょうか????全生命現象、全物理現象、全感情、全経験を今この私が出現させているのです、、そこに不満はあるでしょうか???起き得ないし、、、そこまで酷い現象ではないはず、、、

天上天下唯我独尊

私みたいな非力な人間が、、、、とんでもない、、その私は天上天下唯我独尊、、、全現象を起こし、全現象を動かし、全現象を終わらせています、、、、目に見える全てを動かしているのがこの私です、、今私が居るという絶対的感覚の張本人が、、、、全現象を出現させ起こしているのです。。。私は非力どころか生まれてこの方全部を作り出してきた張本人だったという大オチです、、、残念!!!

全ての活動をストップする

体の中の自分として活動を止める

なぜこの体の中の自分は、、常に動くのか??これをやろう、あれをやろう、、ああしよう、、こうしよう、、動く動く動く、、、、この動きはこの体の中に自分が居るという勘違いが作り出した二次的三次的衝動、、、この衝動に従っていてはただ苦しい、、、そうではなくこの体の中の自分の活動を止めます、、全くもってこの体の中の自分の活動がストップした時に、、、本当の自分が現れます。。。

本当の自分はどこに居る???

本当の自分はどこに居るのか????居場所を教えて欲しい、、、お答えします、、、全部が全部本当の自分です、、本当の自分以外何もない、、、この空間、この椅子、この植物、この体、この友人、このコーヒーカップ、、全部が全部この私で、、これらをそう在らしめているのが自分です、、この感覚、この経験をそう在らしめているのが本当の自分です。

今までの自分はどこに居るのか???

今までの自分は自分を限定的に捉えていただけ、、、そう捉えるという動きが私から起きていました、、、その捉えが消えた時に全部が全部自分だという自分の再発見が起きるのです、、、この体の中に自分が居るという捉えを作り出していたのが本当の自分なのですからこれはギャグです、、究極のギャグが終わるのです。

目の前の荒れくれた老人

その荒れくれを作ったのは自分だ

目の前に荒れまくり、怒りまくりの老人がいます、、、その老人をそうたらしめているのは誰でしょうか、、、本当の自分、真我、大我です、、、その老人を出現させ、、その行動を起こすエネルギーはどこから出ているのか、、本当の自分、真我です、、、そこを完全理解できる時に老人に対する感想が変わります、、、ただの生命現象に変わります、、

逆に興奮する

多くの方は荒れくれた老人を見れば、、目を伏せるでしょう、、見たくないものを見てしまった、、、違うんです、、その状況、存在を作り出したのは本当の自分なんです、、、逆に面白い、、、興味深い、、、絶対的理解が進むと湧いてくる感情は間違いなく変わります。全てを自分ごとに捉える、、、どころじゃない、、自分こそがその動きを作り出しているのです、、、当事者意識どころじゃない。。。

目の前の犬

散歩している犬がいます、、その犬を犬たらしめ、、犬を動かすその存在こそが自分です、、それをこの私が見て「可愛い」が湧きます、、この動き、この感情の動き、経験を作り出す存在こそが自分です。。。だから何なのか?????違うんです、、本当にそうだとして、、、今後この体の中の私は、、、同じ反応で居れるでしょうか???居れません、、、、なぜならば、、、今までは全部が全部他人事でしたから。

欲求を欲求で終わらせない

衝動とは

人間には欲求が湧いてきます、、この体の中に自分が居るという感覚が定着しますと、、息苦しいので、、それを感じないために欲求、衝動が走るのです、、、この欲求、衝動をただ解消する、満たすだけでは、、、満足できない、、、ここで気づきを深めます、、、この欲求、衝動を起こしているのは誰だろうか???この自分か??でも自分で欲望や衝動を作っているという実感が湧かない、、そうです、、この体の中の自分が作ったのではないのです、、、ですがその代わり本当の自分が作っています、、意識はありませんが全衝動、全欲求、全感覚を自分で作り出しているのです、、、

お金持ちになりたい、、、

お金持ちになりたい、、、この欲求を作り出しているのが本当の自分です、、この思考を作り出している張本人が本当の自分です、、ですからこの思考、衝動は決して価値がない存在なのではないのです、、、ですがこの思考、衝動をこの体が作り出しているという勘違いが起きますと、、、友人から起こる欲求は友人のもの、、という分離意識が起きます、、本当は友人、私、親、子供、全員の欲求を本当の自分が作り出しています、、、

他人の欲求を批判できない

自分のことしか全く見えていない友人が居ます、、、ですがその感覚は本当の自分が作り出しています、、そうなるとその感覚を批判するのは完全にズレています、、、なぜならば自分でその感覚を作り出しておいて自分で批判するのですから、、、方便としてそこを批判するのは良いでしょう、、完全に他人が起こした感覚だと信じて批判するとズレています、、、このズレが苦しみを生み出します。