全人類全員が現象

どこを歩いても完璧な現象

この世界で間違った生き方をしている人は全く居ません、どんなに苦しんでいるように見えてもそれはそう見えているだけであって本当は苦しんでいません。全体の完璧な現れがこの現象ですからそこにミスは一切ないのです。ですからどんなに苦しんでいるように見える人が居てもそれは気にしてはいけないのです。もしも苦しむことが出来る人が居るとすればそれは自分です。この体の中に自分が居ると勘違いが起きれば同時に苦しみが湧いてきます。

苦しむことができるのは「自分」だけ

みんなもっと楽に生きた方がいいのに、みんなもっと人生を楽しんだ方がいいのに、、、残念ながら人生を苦しむことができるのは世界でこの自分だけです。ですから周囲を心配するほど無駄なことはありません、周囲はどれほど苦しんでいるように見えても実は全く苦しんでいない。。それはこの現象がそう演じているだけなのです。ですから周囲のことなど1ミリも心配せず悟ればいいのです。

周囲の心配など無駄

自分だけが幸せになるのは図々しい、自分だけが苦しみを解消するのは心許ない、、、これは傲慢なこと、全くの見当違いです。この世界で苦しむことができるのはこの自分だけ、周囲の人間はただの現象ですから苦しむことはできないのです。そして自分のこの体も現象、実はこの体は苦しむことはできません、出来るのはこの体の中に自分が居ると勘違いする全体のみ、、その時同時に苦しいが湧くのです。全体がこの体を自分と勘違いした時にだけ分離感、不足感が湧くだけです。

都会の喧騒で「静寂」を楽しむ

騒がしいレストランで目を閉じる

今賑やかなレストランに居ます、そこでスッと目を閉じます、、すると途端に静寂を感じます。目を閉じるだけで目の前の現象が消え失せます。そして音、声という現象が残ります、椅子に座っているお尻の感覚が残ります。現象が一気に減りその分静寂が起こります。賑やかなのに静寂が起こるのを感じます。目を閉じるとこの体が視界から消え失せるので「自分」を感じることが難しくなります、目を閉じるとこの体が現象化しなくなります。

耳で音を聞いている???

自分の耳で音を聴いています、ですが目を閉じるとこの体も消えますからもう耳では聴いていません、ですが音がします、音が起こっています、この音は誰が聴いているのでしょうか、、全体が音を感じます、もうそこにはこの体が音を聞くは起こっていません。音だけが在ります。椅子に座っているお尻の感覚はどうなるのか?目を閉じて体を消しますからもうお尻はありません、そしてそれを感じる体もありません。ではその感覚は誰が感じているのか。全体です。

目を閉じて全体に戻れば、、

目を閉じて全体に戻りますと全体がただ音、感覚を感じ続けます。主語が突然「自分」から全体に戻ります、すると静寂が音を感じる、静寂が触れるを感じ始めます。どれほどの喧騒の場所でも静寂がそれを感じますから静寂なのです。そしてその音は静寂から湧き出していますから喧騒すらも静寂になっていきます。

ありのままとは

ありのままとは起こりに任せる

ありのままとは何も特別なことではありません、今目の前に広がる現象はありのままです、そしてこの体も現象で在りありのままです。この体の中に自分が居るという錯覚を起こしますとありのままに「苦しみ」が湧いてきます。これが完璧なありのままの姿です。この体の中に自分が居るが抜け落ちれば「苦しみ」が湧いてこなくなります。これがありのままです。湧いてくる行動に委ね続けばそこに自分は居なくなり至福に包まれます。湧いてくる行動に「自分」が介在していると勘違いが起こり、もっとこうすれば良かった、次はこうしよう、、が湧いてきますと同時に「苦しく」なります。

「苦しむこと」が悪いことではない

苦しむことが悪いことでは断じてありません、「この体の中に自分が居る」という錯覚が苦しみを起こし、この苦しみを回避するためにあらゆる行動を取り続ける、、、これが人生の苦しみのメカニズムであるということだけです。苦しいからこそ、、高級車を買ってみたり、旅行に行ってみたり、暴飲暴食をしてみたりとここから逃げ続けようと動くのです。ですがこれらの試みが全て失敗に終わるのは「苦しみ」のメカニズムを誤解しているかです。

この体に閉じ込められた「自分」を解放する

この体の中に本当に「自分」という存在が居るならば開放は非常に難しくなります、ですがそのような自分は実在しないのですから本当は簡単なはずです。実際には接する人間のほぼ全てがこれを信じていますからそこが解放を難しくします。本当はこの体の中に「自分」など居ないのでは???その発想で事実を確認していきますと自分など本当に居ないことが明白になります。

いつだって現象そのもの

自分など居なくても何も問題はない

街を歩く時に「自分」が今歩いているという思考は一切無駄です、食事をする際に「自分」が今食べているなどの思考は何の役にも立ちません。つまり何かの行為をする際に「自分」など全く必要ないのです。つまり我々はいつだって現象そのもに戻れるわけです、そして戻っています。ここに安住の地が在ることを知っています。ところがなぜか人とのコミュニケーションではこの自分を強く意識します、自分が馬鹿にされた、自分が蔑まれた、自分が無碍にされたと、、ちょっと待ってください、、、自分など全く必要なく現象が進むのですから、、何もこの自分を取り出す必要がないのです。

馬鹿にされた時には

もしもこの体が馬鹿にされたとしても、、ただその現象が起こっただけです、何の意図もなく、何の策略もなく、、一見作為的に見えてもそう見えただけというのが事実です。現象に裏はないのです、現象は完璧な形でただ起き続けます。この完璧な現象に対して「自分」がしゃしゃり出ると最後、、苦しみが同時発生で起きるのです。これが事実です。馬鹿にされたと捉え、そこにやり返すという行為をするな、、というわけではありません。そこに自分を介在させようとすると「苦しみ」が湧き上がるということです。「なぜ自分が」「なぜ自分が」「なぜ自分が」が苦しみを自動的に湧かせるということです。

湧き出るままに動く

「自分は次に何をしたらいいだろうか?」「自分はこんな計画を立てたらいいのだろうか?」とこの自分の存在ありきの思考を回しても、、同時進行で苦しみが湧き上がります。「この体の中に自分が居る」ありきの発想の全ては「苦しみ」を湧き上がらせます。これが事実です。ですから「湧き上がるままに行動」これで十分です。「湧き上がるままに行動」は現象に委ねること、全体に委ねることになります、、、この現象、全体こそが至福の場所です。つまり全体(至福)に委ねて動くということです。

何かに集中している時自分など居ない

TVゲームに夢中になっている時に自分を意識している子供はいない

何かに夢中になるのが気持ち良いのは、、その時だけは自分を完全に忘れることが出来るからです。この体の中に自分が居るという錯覚が抜け落ちます。ではその時は誰がいるのか、、現象が起きているだけです、つまり現象の揺れ動きしかありません、もしくは手の感覚、足の感覚、肌の感覚はあるかもしれません、ですがこの「手」「足」「肌」という存在は忘れています、夢中になってゲームコントロールをしている子供がボタンを押す際に、、手が押しているなどの感覚はありません、ただ感覚だけがあります。

ボールを夢中で蹴っている少年の場合

サッカーに夢中になるのが楽しいのは「自分」を忘れることができるからです。サッカーに夢中になりながら自分をしっかりと意識するのは難しいものです。自分が今ボールを足で蹴った、自分が今敵を抜き、相手からボーールを奪ったなど思考が湧くことはありません、、ただボールの感触、地面を踏む感触があるだけです。世界から名前が消え去ります。この時少年は現象そのものになっています、感覚そのものになっています、、色そのものです。

活躍すると自分がそれを所有する

サッカーをしているだけで楽しかったのに、、活躍して周囲から褒められたら最後、、褒められた「自分」がにょきっと登場します。全体、現象、感覚に溶け切っていた状態から「自分」に戻ってしまいます。すると一緒に苦しみが湧いてくるのです。サッカープレイ中は至福そのものだったのがインタビューを「自分」を受けた瞬間この体の中に閉じ込められ牢屋に打ち込まれ苦しみが同時発生で起こるのです。至福から孤独への強制返還です。

もう自分に戻らない

サッカーで活躍しインタビューを受けるならば、、、先ずインタビュアーのことを現象と見抜くことです、そしてインタビューを受ける際は「自分」をしっかりと演じるという自覚を持つのです。どれほど褒め称えられても「自分」を演じそこにのめり込まないことです。ただ役割としてこの現象界を乗り切ります。そしてインタビューが終われば自分など忘れてしまい現象と共に在るようにします。つまり全体に戻るのです。

しなければならないことは無い

人間は食べなくてはならない?

覚者が話す「すべきことはない」とはどういう意味でしょうか??人間として生まれたからには「食べなくてはならない」「寝なくてはならない」「そのために働かなくては」ではないか?違います、人の中にどのような思考が湧こうとそれは根源から湧き出しているのです、「働かなくては」という思考が湧いているだけです、寝なくてはが湧いているだけです、、、全員が全員そうだから人間は何かしなくてはならない、、がデフォルトになっただけなのです。しなければならない、、などの思考とは関係なく人は動きが湧き上がってきます。現象化します、現実化します、それがこの現実世界です。

では人間は何をして生きるのか?

答えは簡単、ただ湧き上がるままに動くしかできません、ただ湧き上がるままに思考するしかありません。そこに自己というアイデアは何も関与できないのです。自己、自分というアイデア、発想はこの「自分の体」を通じて湧き上がる行動、思考を何一つコントロールしてこなかったしこれからもすることはないのです。生まれてこの方経験しか起きていないし、これからもそうなのです。この独自の経験を全体、根源が回収しているだけです。

現象がこれからも湧き続け、感覚が起き続け、思考が湧き続ける

見かけ上、人は生まれてきて死ぬまで、、、現象が湧き続け、感覚が起き続け、思考が湧き続けるが起き続けます。見かけ上のこの体も現象として変化を続け、見かけ上この体も老いていきます。現象の中の何かが見かけ上のこの体に話しかけた時だけこの体の中に自分が居るかのように演じ、また全体に戻ります。全体とはこの現象そのもであり、音であり、香りでありこの体です。全体とは見かけ上話しかけて誰かであり、その声であり、その表情です。

私以外の全ての人間はエージェントスミスになってしまう

周囲の人間関係は全部エージェントスミス

エージェントスミスとは映画マトリックスで主人公NEOを攻撃してくる適役です。彼らの真の目的はNEOを覚醒させないこと、、NEOをNEOの体の中に閉じ込めておくことです。NEOが覚醒に近づけば近づくほどに彼らは束になってそれを阻止しようと企てます。この体の中に「私」が居るというのは全体の大いなる勘違いなのですが、、この勘違いを引き起こす大きな要因が周囲の人間関係です。周囲の人間はこの体に向かって間違いなく話しかけています、この体の中に「私」が居るという前提で話しかけてきます、、すると思わず全体は「私」になり切って話をするわけです。私に成り切る千本ノックが始まります。星一徹ばりの猛練習です。

話かけられると全体から「私」に戻る

我に返るとは面白い言葉で何かに集中してうると我を忘れて物事に打ち込んでいます、この我を忘れるというのが全体に帰っている瞬間です、、ところが人から話しかけられると、、、「私」に瞬時に戻ります。我に返ります。周囲の人間関係はどうしてもこの作業の連続になります。集中して小説を読んでいたら「お客様、ご注文は何にしますか?」で我に返ります。集中して映画を見ている時に「ピンポーン」のチャイムで我に返ります。本当の私は全体なのだという感覚が芽生えてきますと、、「我に返る」のが面倒になります、我に返る苦しさを強烈に感じます、、人間関係こそ苦しさの原因であることを悟ります。

では人間関係から逃げるのか???

では人間関係から逃げるのが正解なのでしょうか??違います、、人間関係をエンタメに変えてしまうのです、人間関係を遊んでしまうということです。周囲の人間はこの体の中に「私」に話しかけるというお遊びをしかけてきていると捉えます。その瞬間私を演じて楽しむのです。人間関係とは所詮3D映像同士の戯れ、蜃気楼同士の遊び、と感じていきます。その関係の良し悪しは絶対幸福、至福とは何も関係がないことを悟るのです。帰る場所は全体です、ここを強烈に意識します。我に返るのではなく全体に返るのです。

この体という蜃気楼の中に自分が閉じ込められるという思い込み

その瞬間苦しいが湧く

この体は蜃気楼です、五感で完璧に感じることができる蜃気楼です。本来の蜃気楼は視覚の錯覚ですが、、この体は五感の錯覚です。五感を利用した錯覚がこの体です。この体の中に自分が居るというさらなる誤解が生まれますとその瞬間に苦しいが生まれます。なぜか??誤解しているのが全体だからです。全体がこの小さな体の中に自分が居るという思い込みが生まれたのですかその瞬間に苦しくなるのです。

朝起きて長澤まさみだったら嬉しいが湧く

ある女性が朝起きて鏡を見た時に、そこに長澤まさみの顔があったら嬉しいが湧くはずです。新しいドレスを着、、長澤まさみに見えたならば嬉しいが湧くはずです。髪型を変えてみたら、、え、これって長澤まさみ??と勘違いしたら嬉しいが湧くはずです。そうです。勘違いとは感情が湧くものなのです。なぜ人間は基本苦しいのか???それは全体がこの体の中に居るという勘違いを起こしているからです。この勘違いからくる苦しみを解消するために人は次から次へと目標や欲望を作りそれを達成しようとするのです。これが人生が苦であると言われる理由です。

この五感は勘違いを最強のものにする道具

殴られれば痛い、何かを食べれ味を感じる、太陽の光を眩しいと感じる、冷蔵庫を開けば冷気を感じる、この五感システムはこの体が蜃気楼ではなく実在していると実感するための最強ツールです。五感全開ですからどう考えてもこの体は実在している、、こう信じこめるわけです。そしてこの体が実在しこの体が自由に動くことからこの体の中に自分という確かな存在が居るという実感が湧くのです。ですが五感で感じたのだから実在するというのは視界で感じたから蜃気楼は実在すると言っているのと全く同じです。見えるから実在するのだ、、五感で感じるから実在するのだ、、は破綻しています。

現象とは形が現れてること

現象ってつまり蜃気楼

この世界を現象界と表現しますが、、現象とは象(かたち)が現れたということ、、まさにこれは仏教用語で色のことです。かたちが現れた、、、我々は漢字で既に真実を表現していたのです。事実のことを現実と呼びます、、実が現れる、、と書きます。実とは何か物質が詰まったような存在、これが現れるのです。どこに、、空から色が現れたのです、蜃気楼として。3D映像として、、色即是空とは、3D映像是インターネット空間、、空即是色とは、、ネット空間即是3D映像です。我々が使っているこのネット空間はどこに在るのでしょうか、、これぞ空、、、そして目の前のPC、タブレット、スマホに現れる動画は、、3D映像、、これが色です。

この体が自由に動くことで勘違いを継続できる

この体だけは自由に動かすことが一見できます、この体だけは自由意思で動かすことができる、、一見そう見えます。だからこそ我々はこの自分ゲームに完全に騙されます。素晴らしい自分、守らなくてはいけない自分、ししてそれ以外の環境、他人、敵、味方、、、です。ですが実は全部蜃気楼、3D映像であり、、この自分の体も蜃気楼、3D映像です。そして自由のままに動くと信じ切っていたこの自分の体もマリオ同様に完全にマリオの外から操作が起こっていました。マリオの動きをマリオが操作しているという勘違いが起きていたのです。

3D映像が動くことで自分が動いているという錯覚が起こる

街を歩く時に感じてみてください、、実は景色が動いているということを、、景色が動いていることで自分が前に進んでいるということを、、歩くとは3D映像全体を動かす行為だったのです。走るとは3D映像を凄まじく早く動かす行為だったのです。地面を踏み込む足の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。吹き抜ける風の感覚はこの錯覚を強烈なものにします。街ゆく人々との挨拶はこの錯覚をリアルなものにします。

全体が回収できない感情はない

今目の前の相手の感情は「存在しない」

我々が今見ている世界において、、友人との会話は面白いものです。ですが我々は大きな勘違いをしています。それは目の前の相手には感情が湧き出しているはずだということです。例えばブラックジョークを失敗し相手が怒ってしまった時、相手の心の中に怒りの感情が間違いなく湧いているはずだと推測します。。。ですが実際には何の感情も発生していません。なぜそこまで言い切れるかといえば、、今この現象を作り出している存在、根源こそが私という蜃気楼を通じてこの世界を見ているという錯覚ゲームをしているのでしから錯覚であればなんであれこの現象界で起こる全ては根源が責任を持って全て回収しているからです。友人の中で怒りの感情が湧いたならばそれは推測などのレベルではなく確実に感じなければならないのです、根源が。なぜ私は寂しい、私は悲しい、、私は辛い、、を感じることができるかろ言えば目の前の光景の中で湧き上がった唯一の感情を根源が全回収したからです。「私」が見ている世界において感情はたった一つしか湧き上がっていないのです。

友人の感情も自分の感情も根源しか回収できない

自分のこの体から湧いている(本当は違う)感情は感じることができるけど、友人の感情は感じることができないのはこの世界では自分の感情しか湧いていないからです。根源だけが感情の全てを回収できます、自分は感情を回収できません、なぜならばこの自分の体は画像に過ぎないからです。友人の体(画像)から湧き出した感情が存在するならば根源が責任を持って全回収します。ということは今完璧な感情でそれを感じます。自分という完璧に独立した存在が実在するならば自分の感情のみを感じることができますが、そのような存在が居ない以上、、自分も友人も、友人Bの全感情が湧き出した瞬間根源が回収できるはずです。

生まれてきてこのかた、、目の前の全ての景色で湧いていた全感情を根源は回収してきた

友人6人で旅行に行ってきたとします、、、友人6人全ての感情が湧き上がっていたと思うでしょう、、一人は最高だった、一人はつまんなかった、一人はまあまあだった、一人は憂鬱だった、、自分は前回よりも楽しかった、、、ところが実際には自分と呼ばれる画像からのみの「前回より楽しかった」だけが湧き上がったのです。残りの五人から一切感情は湧き上がっていません。なぜならば感情を回収しているのは根源そのものであり、、本当は「自分」という存在も居ないことから、、フラットに見てそれしか感情は湧いていないのです。それしか感情を回収していないからこそ「自分」の感情という勘違いが起きているのです。