霊的進化の罠

魂という存在は便利

魂とは思考です、アイデアです、実在はしません、ですがこのアイデアは大変便利で応用が利きます。霊的進化のために霊的成熟のためにとあらゆるセラピー、メソッドが溢れかえっていますがこれは我々が一般社会でやってきた活動と何も変わりません。より高い偏差値の学校へ、より就職人気会社へ、より高いリッチな家を、、より高く高くというこの活動は魂に受け継がれここでも同じことをするのです。

より高く、より優れた、より強く、、、の輪から抜ける

我々が現実と呼ばれた社会でやってきた進化に疲弊し、スピリチュアルという世界に逃げても待っているのはこの魂の進化ゲームです。魂が進化するのは大変魅力的で神聖な香りがします。ですが散々このパターンで人生が疲れてきてまた同じような進化ゲームに参加するのはもう嫌だ、そう考えてもおかしくはありません。そうです、もう十分、進化発展ゲームは終わりにしたい、、その時に腹落ちするのが悟りです。悟る自分は居ないし悟る魂もない、、という進化ゲーム究極の終焉です。

悟り人すらも人生の最終ゴールにしてしまう

イエスキリスト、釈迦、空海、、、悟ったと言われている人は人生のゴールにされてしまいますがこれは全くの誤解、、、彼らは彼らを形成してきた「自分」「自我」が抜け落ちた体です。つまり人体の中に形成されているだろうとされてきた自分という存在が形成されなくなった体、、、自分という感覚が抜け落ち全体がその体の口を通じてメッセージが湧き上がったという事実があるのみです。多くの方がイメージする悟り人と悟りは全く異なります。

時間の中で結果をだすということ

この感覚こそが自分感覚

自分という存在は時間の中で結果を出そうとします、来週の試験のために今から準備をしよう、来年の入社に向けて今から就活をしよう、20代で結婚するために今から美容に力をいれよう、、などなど、、、これが自分という存在の通常行動です。ですが実際には時間はなく今を記憶したものに過ぎません、そしてこの自分という感覚も記憶に支えられて湧いて来た感覚であり実在では絶対にありません。だからこそ自分という感覚は将来目標を設定しそれに自分がなると思考し安心するわけです。

夢とは自分維持ツール

将来は何になりたいの???こんな質問を何回されてきたでしょう、、将来の夢は?将来つきたい仕事は???とですがこれらは全部自分という感覚を強める装置になります。この自分が居るという前提でこの質問はされます、この夢の中です。そしてそれによって将来の夢はあった方がいいのかと思考し何か夢を探すのです、時間の中です。夢を持ってそこに歩んでいる期間は確実に自分を維持できますから安心です。安心してこの喜怒哀楽の夢を自分が歩むことができるのです。

ある時気づく、この夢こそが夢に安住するための道具だったと

将来の夢は???その夢こそが自分をこの夢の中に安住させていました、なんとも皮肉なことです、夢というのは自分が歩む最終目標のことであり、、この夢こそが自分を夢の中に閉じ込めて来たのです。夢も思考、夢の中も根源の現象に名前がつけられた幻想の世界です。この幻想の中でさらなる夢を見るという大変面白いことをしていたのです、自分が。

ではどうするのか?

ではどうしたらいいのか???ほぼ全員からこの質問をもらうわけですがどうかできる自分という存在は感覚でしかなくその感覚も根源から起こっているだけです。どうかできるような自由意志がある自分など居ないのですからとにかく諦めるしかありません。もしも根源に触れるという衝動が起きるのならば自分から覚める根源の動きがこの体を通じて起こるのでしょう。

木が悟っている

悟りが木をしている

木は悟っています、そして悟りが木をしています、木は悟りの表現そものです、一本の木を見ているとそこに悟りがあることを確認できます。誰が確認しているのか?悟りがです、悟りから確認が起きます。禅問答のようになってきました、禅問答が意味不明なのは主語が入れ替わってしまうからです、「バチン」という扇子がなった音、、、この音は何か?と和尚は聞きます、多くの人は扇子が閉じる音です、、と答えます。事実はただ音が在るです、それを聞いた「自分」は思考です、「扇子が音を作った」も思考です、目を閉じればただそこに音が在ったになります。

木はただそこに在る

木はただそこに在ります、何を当たり前のことを言っているのか?ですが多くの方は本当の木を全く見ていません、「私」が見るみんなの「木」を見ています。これは本当の木ではないのです、本当の木は悟りそのもの、静寂そのもの、至福そのものなのです。同じ木を見ているにの関わらずそれがこの世から分離した物質に写るか、悟り、静寂に写るかは大違いです。そしてその違いは「自分」が作ることができません。この違いは起こるのです、悟りからそれが起きます。木も悟り、その悟りを感じるも悟りです。木を見ても何も感動が起きないも悟りです。

ファンタジーから事実への切り替え

ファンタジーとは悟りが作り出した悟りの表現です、そしてそのファンタジーが消えた時に悟りが残ります。この世界に悟りでない場所はないのです、悟りが作り出したファンタジーを感じるが起こるという悟りがあり、そのファンタジーが消え去って悟りが残るを感じるが起こるという悟りもあります。最初から悟りしかなかったが起こる場合もあります。答えが最初から決まっているからこそそれに気づかせないよう思考が次々と湧き続いていきます、悟りから。悟りしかないが分かるが起こればもうファンタジーにドップリ浸かるは起こりません。なぜならば事実を分かって再び幻想に戻るのは無理ゲーだからです。これが偽物だということが分かって再び本物だと思い込むのはほぼ不可能です。

東京という桃源郷に住む

多くの方は桃源郷に住んでいる

桃源郷とは幻の街のこと、東京とは事実多くの方にとって桃源郷です。何を言っているのか??東京は超シビアな街、現実剥き出しの街ではないか??違います。桃源郷だからシビアなんです、桃源郷だから苦しい街なのです。田舎から出て来た若者が東京って楽勝だよねってあまり聞いたことがないのです。それは桃源郷だからです。人間は名前が付いた物を目にした時にそれが視界に入り込んできます。椅子という名前が付いた物を見れば椅子が入り込んでくるコップという名前が付いた物をみればコップが視界に入り込んできます、渋谷駅に行けば人間という名前がついた物、男と名前がついた物、ビジネスマンと名前が付いた物、学生と名前が付いた物、、これらが次々に入り込んできます。本当はそれらに名前など全くなくただの生命現象です、揺れ動く生命現象にも関わらずしっかりした独立した物であると認識し入り込んできます。朝起きて寝るまで名前がついた物に囲まれさもそれが実在するかのうに錯覚しながら起きています。そして眠りについても夢の中でまた名前がついた世界に居ます。

本当はただ生命が揺れ動くだけ

本当の本当はただ生命の揺らぎだけがあります、大自然に囲まれれば分かりますが名前が付いていないものばかり、、、これが静寂、至福です。大都会は全部名前が付いていてそれが実在するかのように「自分」に迫ってきます。この中で「私」はいかに幸福になれるかを真剣に考えています。名前という「思考」の世界が自分に入り込んできてその中でいかに生きるかを考えている、、、一日中実は思考の世界に居るのです、これが本当の桃源郷です。

じゃあ東京を離れよう

だから東京に居ない方が良い、そんな単純な話ではありません。東京を再び桃源郷から事実、根源に戻してしまえばいいのです。名前が付いた物が視界に入って来てもそれこそが幻想の入り口であることを見抜き、自分もそこに参加させない、、幻想ゲーム、妄想ゲーム、思考ゲームに参加しない、、、そしてこの体を通じて湧き上がる思考も行動も勝手に起こっていることを見抜く、すると今まで重くのしかかっていた何かが取れているのに気づきます。桃源郷独特の息苦しさが軽減しているのに気づくのです。

価値観を変えると楽になる??

日本人は真面目すぎる??

日本人は真面目過ぎ、もっと気楽に考ええればいいのに、、これは外国人が感じる日本人の印象でしょう、、真面目は素晴らしいという価値観があるのは事実です。ですがでは不真面目は素晴らしいという価値観に日本人全員が変われば本当に幸せになるのでしょうか、、、不真面目は素晴らしいに変えればまともに働く人は減りレストランに行っても汚い店ばかり、、結局どこかで歪みが起こりそれはそれで不幸に感じるはずです。真面目すぎもだめ、不真面目もダメ、、、そうです価値観というもの自体が不幸を生み出しているのです。

あの人の価値観は素晴らしいは嘘

価値観とは思考でしょう、、思考そのもに価値を置くことを価値観というのかも知れません。思考を変えれば幸福度が変わるという思考をも持つことが苦しみの元なのです。思考を信じている証拠です。事実とは思考はただこの体を通じて湧き上がるだけでありそれだけです、そしてこの体を通じて湧き上がる行動は思考とは全く関係なく湧き上がります、それだけ、、そんな思考に重きを置けば苦しくなりますという事実です。

勝手にガンガン湧いてくる思考を相手にしない

湧いてくる思考と湧いてくる行動に因果関係があるのなら思考にも価値はあるでしょう、ですが全くないのですから価値はないでしょう。価値観を変えればと言ってもその変えるも勝手に起こります。強制的に変えられ続ける価値観には価値はないでしょう。そして価値観がガンガン変わってもそれとは一切関係なく行動が起き上がっていきます。その行動にも価値はないはずです。川を流れる落ち葉の動きに価値はあるのでしょうか、右に曲がれば価値が上がり左に曲がれば価値が下がる、、などないです。人間のすべての思考、行動には価値が全くないことが分かるとただ軽さ、静寂が起こります。

ポケモンカードに一億円の値段が付く世界

全てが幻想である理由

ポケモンのレアカードには一億円の値段がつきます。ポケモンカードは紙でできていてその上にカラープリントがされているだけです。この模様が違うことをマニアは多様なカードが存在していると言います。その中のごく一部の模様に対してそれは数が少ないから価値があると思います。これによって一億円の値段がある模様に付けられました。宇宙人から見たら模様が異なるだけ、、ですが人間にとってはその模様には一億円の価値があるとううことになります。

我々は勝手に作り上げた価値観の中で喜怒哀楽を勝手に作り上げ生活している

人間の価値観とは全部ポケモンレアカードです。さつまいもは100円でレアカードは1億円です。これが人間の価値観なのです、その価値観の中で喜怒哀楽が湧き上がりサツマイモを手に入れても嬉しさはなくレアカードを目の前にすると卒倒するほどに喜びます。ポケモンは実在せず人間のアイデアです、これは空想です、この空想に一億円の価値がつくのです。一億円の価値があるというのも思考です。なんとなく分かってきたと思いますが我々は幻想の中にどっぷりと浸かって生きているのです。

現実が厳しいのではない、幻想が厳しいのだ

レアカードに一億円の価値があるという思考が湧き上がり、100年ローンで買う価値があるという思考が湧き上がり、それまらば寝ないでも働こうが湧き上がり、、本当に4時間睡眠で働き続けるが湧き上がる、、、これがこの世を苦しくしているメカニズムです。全部思考の策略です。思考が悪いのではありません、思考というプログラムの中に生きていると苦しくなりますという話です。

あの世などない

あの世があるならこの世は不完璧

あの世がある、、私は何十年もこの言葉を信じてきた一人です。この世で死んだらあの世に行く、、非常に魅力的な(考え方)です。ですがこれは事実ではありません。事実は簡単この世は今見える場所だけ。これ以外は一切存在しません、もしも存在するならば今見えている世界はごく一部(不完璧)になり完璧では無くなってしまいます。今ここで感じる静寂がごく一部ならばこの静寂は完璧では無くなってしまいます。そうですあの世を肯定するということはこの世が完璧で在ることを全否定することになるのです。

この世が完璧であるわけがない、、

この世のどこが完璧なのか??毎日あらゆる犯罪が溢れ返り民事刑事裁判が起き続け、、争いが絶えないこの世のどこが完璧なのか???完璧なのです、不完璧に見えているだけで、そして不完璧に見えていることこそも完璧なのです。完璧な世界が不完璧に見えるためには、、神羅万象、この現象(色)に名前を付けまくりさも独立した存在同士が争っているように見える必要があります。そこまでの手間隙をかけて初めて争いが起こっているように見えているのです。これが完璧なのです。種明かしをすれば全ての素粒子は完璧で、完璧でできた素粒子が構成するあらゆる物質が争いを起こしているように見えることで不完璧を感じるが起きているのです。

この世が絶望的までに不完璧に見えるから

この世が絶望的なまでに不完璧に見えてしまうからこそ人(アイデア)はあの世を想像し(アイデア)輪廻転生を(アイデア)を思いつきました。今まさに夢、幻想を言葉のマジックで見ることができる自分(アイデア)が体が死んでもこれが続くと発想するのは自然なことです。ですが事実はこの目の前に完璧がありこの完璧の上に不完璧に見える世界を作り出しただけということです。紙という完璧な土台に不完璧に見えるような絵を描いただけです。

都会の喧騒で静寂を感じる

都会に静寂なんてあるのか??

田舎に行けば誰でも感じます、静寂を。鳥の声、虫の音、川のせせらぎ、全てが静寂を与えてくれます。不思議な物で虫の声が激しい場所ほどに静寂を感じるのです。おかしいですよね、虫の音が煩すぎるのに静寂を感じるのです。大自然からの音は全部静寂から発生しているのです。だからこそ田舎に行くと静寂を感じるのです。大自然の中に行きたい人は静寂に触れにいっているということです。では都会に静寂はあるのか??都会にも確実に静寂はあります、ですがこれは真夜中の静かな時間という意味ではありません、大都会の喧騒そのものが静寂から生まれているということです。これは言葉で説明しても分かるわけがありません、静寂に触れ続けた結果としてそれを感じることができるということです。

友人との会話の中で静寂を感じる

友人との会話の中で静寂を感じるなどできるのでしょうか??本当にお喋りな友人との会話で静寂を感じるなどあるのでしょうか、、答えはあります。なぜならばその友人そのものの現れも、言葉も全部静寂から浮かび上がっているからです。これを言葉で理解することはできません。日々静寂に触れ続けることでこのことが分かってきます、感じてきます。全部静寂から浮かび上がっているだけなんだなーが湧いてきます、静寂から。

言葉で理解したら実践に

悟り本を読み漁る、悟り系の動画を見まくる、、、これは全部意味があります。言葉で悟りを完璧に理解してしまう、、これはこれで大いに重要です。ですが悟りは感じるものです、静寂は感じるものです、至福は感じて初めて価値があります。至福を文字で理解して満足という人は居ないでしょう。悟りとは感じるもの、だとすれば日々どれだけ感じまくるかです。釈迦は突然木の下で悟った、、これも起こる可能性はあるでしょう、ですがそうでないケースの方が多いはずです。幼少期に何十万回と名前を呼ばれ続けて「自分」を身につけたように何十万回「静寂」に触れ続けて静寂になる方が現実的(静寂)です。

人に会えば会うほどに孤独感を感じやすくなる

相手は必ず自分感覚を強くする

人との会話とは「自分」と相手を生み出します。相手は必ずこちらの名前を呼んできますからそこには確実に名前が付いた存在を感じるわけです。自分という感覚が強化されるに決まっているわけです。だからこそ人は孤独になると人と会いたがりそして人と会うとでより分離感、孤独感を強めていくのです。友達は多ければ多いほどに良い、これは自分感覚が強い証拠になります。自分とは本来存在せずこれは感覚でしかありません、この感覚が強化されればされるほどに分離感、孤独感は強化されるのです。

一人の方が楽、、は至福と友達である証拠

一人の方が楽、、これは孤独感が強い人には無理な発想です。自分という感覚が強い人には信じられない発想です。ですが一人が楽というのは本当です、一人の時人は自分を意識しにくくなります、呼びかけてくる相手が居ないからです。そして何かに夢中になって静寂を知り、目を閉じて静寂に触れることができれば常に静寂(至福)が目の前にあることを肌感覚で知っています。静寂の場所、至福の場所がいまここにあることを知るのです。

至福が常に在るのに人に会わなければはない

自分から静寂、至福に会える人が、、人間という相手を渇望するということはありません。1日に何回か会話ができればいい、に切り替わっていきます。自然とそれが起こります。そして常に静寂の中に入りたいが起こってきます。常に至福に包まれたいが起こってきます。この衝動が起こり始めると悟りは近い、人間よりも静寂、至福への渇望が起こっているのですから。

孤独を感じやすいのは静寂を知らないから

人と居るよりも静寂が心地よい

人と一緒に居るのが好きな人は自分感覚が強い人です、自分感覚があれば分離感、孤独感は湧き出し続けますから自然と人と一緒に居たくなります。私は一人ではないを感じることが出来るからです。ですがこれは分離感自体を減らすことではありませんから常に誰かと一緒に居続ける必要もでてきます。静寂を常に感じることができる人は人を必要としなくなります。静寂とは根源であり根源とは至福です、至福に触れ続けれる人にとって人は逆に自分を意識する存在になりますから疲れるわけです。人と一緒に居て疲れるのは相手は話しかけて来ますから自分を意識しやすくなるのです。分離感と一人ではないが沸き続けます。

目を閉じて静寂に入る

人はいつでも静寂に触れることができます、それは目を閉じることです。目を閉じれば名前がついた物が消え去ります、物が消え自分も消えます、、熟睡中に孤独感を感じないのは当たり前でそこには自分という感覚が存在しないからです。起きるとなぜ孤独感を感じるのか?それは自分を意識するからです。目を開くと自分の所有物が飛び込んできますし、体も飛び込んできます。これによって自分とあらゆる物という幻想の世界が広がるのです。目を閉じると幻想の世界が消え去り静寂の中でただ音がする世界が広がります。これを1日に何度も行います、すると自分という感覚よりも静寂に触れる時間の方が増えていきます。孤独感が消え去り静寂に包み込まれていきます。

何かに夢中になる時

人は何かに夢中になる時我を忘れます、実はあの時間は静寂に包まれています。何かに夢中になっている時に雑音が凄まじかったという記憶はないでしょう、何かに夢中になれる人は体感で静寂を知っている人です。そしてこの静寂が心地が良いために人に会って孤独感を埋めるよりもより何かに夢中になることを優先するのです。静寂に触れる方法の一つです。