悟りが木をしている
木は悟っています、そして悟りが木をしています、木は悟りの表現そものです、一本の木を見ているとそこに悟りがあることを確認できます。誰が確認しているのか?悟りがです、悟りから確認が起きます。禅問答のようになってきました、禅問答が意味不明なのは主語が入れ替わってしまうからです、「バチン」という扇子がなった音、、、この音は何か?と和尚は聞きます、多くの人は扇子が閉じる音です、、と答えます。事実はただ音が在るです、それを聞いた「自分」は思考です、「扇子が音を作った」も思考です、目を閉じればただそこに音が在ったになります。
木はただそこに在る
木はただそこに在ります、何を当たり前のことを言っているのか?ですが多くの方は本当の木を全く見ていません、「私」が見るみんなの「木」を見ています。これは本当の木ではないのです、本当の木は悟りそのもの、静寂そのもの、至福そのものなのです。同じ木を見ているにの関わらずそれがこの世から分離した物質に写るか、悟り、静寂に写るかは大違いです。そしてその違いは「自分」が作ることができません。この違いは起こるのです、悟りからそれが起きます。木も悟り、その悟りを感じるも悟りです。木を見ても何も感動が起きないも悟りです。
ファンタジーから事実への切り替え
ファンタジーとは悟りが作り出した悟りの表現です、そしてそのファンタジーが消えた時に悟りが残ります。この世界に悟りでない場所はないのです、悟りが作り出したファンタジーを感じるが起こるという悟りがあり、そのファンタジーが消え去って悟りが残るを感じるが起こるという悟りもあります。最初から悟りしかなかったが起こる場合もあります。答えが最初から決まっているからこそそれに気づかせないよう思考が次々と湧き続いていきます、悟りから。悟りしかないが分かるが起こればもうファンタジーにドップリ浸かるは起こりません。なぜならば事実を分かって再び幻想に戻るのは無理ゲーだからです。これが偽物だということが分かって再び本物だと思い込むのはほぼ不可能です。