いつだって現象そのもの

自分など居なくても何も問題はない

街を歩く時に「自分」が今歩いているという思考は一切無駄です、食事をする際に「自分」が今食べているなどの思考は何の役にも立ちません。つまり何かの行為をする際に「自分」など全く必要ないのです。つまり我々はいつだって現象そのもに戻れるわけです、そして戻っています。ここに安住の地が在ることを知っています。ところがなぜか人とのコミュニケーションではこの自分を強く意識します、自分が馬鹿にされた、自分が蔑まれた、自分が無碍にされたと、、ちょっと待ってください、、、自分など全く必要なく現象が進むのですから、、何もこの自分を取り出す必要がないのです。

馬鹿にされた時には

もしもこの体が馬鹿にされたとしても、、ただその現象が起こっただけです、何の意図もなく、何の策略もなく、、一見作為的に見えてもそう見えただけというのが事実です。現象に裏はないのです、現象は完璧な形でただ起き続けます。この完璧な現象に対して「自分」がしゃしゃり出ると最後、、苦しみが同時発生で起きるのです。これが事実です。馬鹿にされたと捉え、そこにやり返すという行為をするな、、というわけではありません。そこに自分を介在させようとすると「苦しみ」が湧き上がるということです。「なぜ自分が」「なぜ自分が」「なぜ自分が」が苦しみを自動的に湧かせるということです。

湧き出るままに動く

「自分は次に何をしたらいいだろうか?」「自分はこんな計画を立てたらいいのだろうか?」とこの自分の存在ありきの思考を回しても、、同時進行で苦しみが湧き上がります。「この体の中に自分が居る」ありきの発想の全ては「苦しみ」を湧き上がらせます。これが事実です。ですから「湧き上がるままに行動」これで十分です。「湧き上がるままに行動」は現象に委ねること、全体に委ねることになります、、、この現象、全体こそが至福の場所です。つまり全体(至福)に委ねて動くということです。