全体からの起こりに全体が判断するという喜劇

昨日は飲み過ぎてしまった、、失敗した、、残念!!

昨日飲み屋であのボトルさえ空けなければ、、、次のもう一軒が余計だった、、、残念!!全ては全体からの起りでからそれ以外の選択肢は一切なかったのです。それ以外の選択肢があったのならば全体以外の存在が居ることになってしまいます。全体は全部だから全体なのです、その全体が下した決断に間違いなどあろうはずがないのです。しかし個人はその決断に対して反省なんかをしちゃったりします、、、残念!!その個人の反省すらも全体から起こっているのです。それでは反省する意味はないのか???全体が下した決断に一切の誤りがないことを腹落ちできると反省が自然と湧いてこなくなります。

では人間は失敗から何も学ばないのか????

今十分に学んでいます、、これまで失敗し、反省してきたというこのメカニズムが一体どういう裏事情で行われてきたかを、、、裏事情というよりも真実、事実がこうなっていて、、それによって失敗、反省が行われてきたことが分かったのです。失敗、反省というこのサイクルを全体が引き起こしていたのです。じゃあ今までそんなことをしてこなければ良かったのに、、、違います、、そのサイクル自体を全体が起こしていたのです。ここに個人は全くもって関与できないのです。

あの時こうしておけば、、、

あの時、あの人と結婚しとけば良かった、、、、違います。。個人に選ぶという力など全く与えられていないのです。個人はただ全体からの起こりに身を委ねるしか選択肢がないのです。選択肢というものは全体が持っているものであって個人には選択肢はないのです。今コーヒーを飲む、、、これですらも全体からの起こりです。今トイレに行こう、、これすら全体からの起こりです。大きな決断をしよう、、それすらも当然全体からの起こりです。

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