気づきの存在は気づきの存在であるために努力を必要としない

気づきの存在であることの安心感

全ては気づきの意識の中で起こっています、この自分という感覚も、、音も光も、会話の全ても、、気づきの存在の中で起きています、、、この事実に気づくことの大切なことはもう努力がいらないということです、自らが気づきの存在、全体であるという気づきに至った時、、ここからさらに努力して何かになる必要がなくなります。我々は個人として生きてきたので、、、努力を必要としてきました、、今が苦しいから、、努力して、、、明るい未来を手に入れようとしてきました、、ですが気づきの意識そのものであるという気づきが起きるともう努力のしようがないわけです。

自分の存在、思考が起きていなくても、、、

自分が居るという感覚がなくても、思考がなくても、、、ただ気づきの意識だけは確実に在ります、、、何かに没頭していても、、没頭していなくてもそれに気づく、気づきの意識があります。我々はこの気づきの意識なのです、、、それ以外であるわけがないのです。この気づきの意識の中に一時的に自分をこしらえただけ、、こしらえていない時もそれに気づく気づきの意識、、、

徹底的に気づきの意識になって起こりを楽しむ

私は気づきの意識だ、、この意識が芽生えてもそれでも自分は登場しますし、、友人も、仕事仲間も、、みんなこの気づきの意識の中で登場します、、それをただ気づきの意識として楽しみます。この体から出てくる思考、行動を楽しみます、、友人の体からでてくる言動を楽しみます、、、安心の場所で事の起こりを楽しむです。

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