どこまでもあるように感じる

この世界の全ては幻想です。幻想とは「有るように見える、感じるが絶対に存在しない存在」です。つまりこの体はどこまでもあるように見える、感じるが絶対にない存在なのです。つまりこの目も鼻も口も、手も足も、内臓の全ても脳も、、、有るように見える、感じるが絶対にないのです。ここが理解できますとこの体の中に自分がいるというこの自分も「有るように見える、もしくは感じるが絶対にない存在」であることが導かれます。

認識

この体が100%実在しないとして、、とはいえこの感覚には嘘はないし、、この視覚も嘘はない、触覚にも嘘はない、嗅覚にも嘘はない、、、この感覚は何だ?????ということになります。そうです、、この世界は感覚だけが100%実在する世界なんです。感覚のみです、つまり経験のみ、、この経験だけが100%です。あとは全部幻想です。この経験、感覚を作り出している存在、、それが我々の本質です。空です。

色は全て幻想

見える現象は全て幻です、、、、この幻の全ては空という不変の自己、無限の存在、、、から現れでた鏡です、、鏡に写った姿すなわち幻想です。この幻想の現れに「気づく」という動きが起こります。これが今我々が感じる感覚のことです、、、これを経験、体験と呼びます。本当は感覚しかない、、そしてその感覚が空即是空、色即是空から起こることを認識する時、、、本当の自分「空」を自覚します。

思考の内容

刺激的

思考の内容って刺激的なんです、なんか面白そうな香りがします。。ですが残念ながらいかに面白そうでも「違和感」が起こります。思考は常に「違和感」を生じます。自分という存在が主語になった内容の思考は「違和感」を必ず生じます。この違和感を解消すべくひたすらに思考が湧きます。

責任

責任を下します、、責任という重い重りを下します。どうやって真実を知るのです。全部が全部全自動で起こっています、思考、感情、行動、、、全部が全部自動運転でどうやって責任を取るのか?????不可能です、この真実を知って、、重りを下すのです。自身が重りを下すとどうなるか?????他人の責任を問うことがなくなります。

真実を掴み自我を手放す

自我を手放すから真実が見えるのではありません。真実を掴むから、、自我から解放されるのです。真実という確かな何かを掴むことで自我という自己防衛システムを手放せます。順番が逆なんです、、、圧倒的に信用できる真実に先ずは触れて触れて触れまくるのです。すると自我という最強の自己防衛システムを手放すという動きが起こります。

難しい方向に行かない

真実

この現代社会を見れば分かりますが複雑怪奇、、文明社会、、超情報化社会、、、ハッキリって意味不明、、、高度過ぎます。思考が生み出すこの社会は、、とんでもなく複雑に構築されます。思考とはそのようなものです。思考がこれだけ複雑に作り上げた社会の中に存在する「自我」を手放すとか、、無理ゲーです。ですから真実に触れ続けて、、真実をしっかりと握り、、自我を手放すように導くほかありません。

真実を掴む

自我は、、超高度文明の真っ只中に存在しており、、ここでサバイブしているのです。いきなり自我を手放すとか意味不明、現実乖離、不可能です。そうではなく、、、真実をガツっと握ります。真実に縄をかけて、、とんでもない命綱にします。すると自我を手放すが起こる可能性がある、、、です。真実に全てを明け渡すというトレーニングを重ね続け、、、自我を手放すが起こるのです。

自我が本当だろうと嘘だろうと

自我が本当であろうと嘘であろうと、、、この超複雑化した社会で生きるのは大変なのです。だから、、手放せるわけがない、、何かを変える余裕がある人など居ないのです。自我があってもなくてもどうでもいい、とにかく生活を変える余裕がない、以上です。だから真実に触れるのです、、真実は超シンプル、、全くもって簡単質素、、、そこに触れ続けた時、、、あまりの心地よさに絶句します。そしてその延長線上で、、気づくと「私」が居ない。。気づくと私のストーリーが消えています。

一瞥体験

みんな大好き

一瞥体験ってみんな大好きです、、、ですが、、、真実に触れ続けていますと、、、小さな大きな様々なそのような感覚は当たり前に起こります。ストーリーと、、真実を行ったり来たりする感覚は、、平凡と非凡、異常と正常のどんでん返しですから、、もう何が何だか分からなくなります。つまり、、、今までの平凡が非凡になり、、今までの非凡が平凡になります。。だからそれは色々起こっていいんです。催眠術が解ける時、、何かが起こるのは当たり前であり、、、そこは驚くべきことではありません。

顔がない

見かけ上のこの私がそれでも驚いたのは、、、「顔が無かった」という真実に出会った時です、、顔がなかったんですこれまで。。。。生まれてこの方この顔をずっと付き合ってきたと思っていましたが、、嘘でした。。。真っ直ぐ前を見る時、、、目耳鼻口が現象化されていないのです、、、、あると思っていました。。。。ないんです。少なくともこの見かけ上の私の世界には。

みんな騙されている、、このことが一番凄い

この現象を物質として100%「有る」と信じているということ、、、このことが一番凄いんです。。。真実に触れますと「ない」ことが100%分かります。するとあるという前提で動く全員が逆に凄いんです。そりゃ騙されます、、そりゃ苦しいに決まっています。そりゃ、、孤独にもなります。

生きる瞑想

座禅ではない

生禅とでも言いましょうか、、、瞑想とは本来あるがままをあるがままに見ることですから、、本質を理解できれば日常生活の全てが禅になります、瞑想になります。あるがままに見る、、、そのために座禅を組むのでは????勿論そうです、、ですがそれだけではないんです。あるがままに今何が起こっているか正確に正確に掴めば、、、生きること=瞑想になります。

風、音、光

風が起こり、光が輝き、音が鳴る、、、この全てはその現象そのものが現れた場所、スペースで気づかれます。この体は実は何もしていない、、、、道を歩きます、、、足が地面を踏む感覚、、この感覚だけが起こるのです。。。思考が湧きます、、、この思考は勝手に起こり、、、イメージ化されます。。。脳が????違うんです。、、思考は思考が起こった場所でそのまま認識されイメージ化されるのです。そのイメージに意識が行く場合もあれば行かない場合もある。。ただそれだけ。

それじゃあ

それじゃあ、、自分は何もしていないではないか?????そうです、、、その発想が今まさに勝手に起こったんです。勝手に起こり勝手にイメージ化され、、、そのイメージによって勝手に焦りの感情が起こり認識されます。もっと真実を知りたい、、が起こるかもしれないし、、なんか気持ちが悪い止めよう、、が起こるかもしれない。

真の瞑想

真の瞑想とはこのように今という真実を真実として捉えるトレーニングです。最初は、、直ぐに思考の世界に巻き込まれるでしょう。。ですが途中で気づくんです、、あれ、、また私私やってるぞ!!!と。これが気づきです。これが和尚が叩く棒切れです。無知がこの私ストーリーを作り上げました。。。知はこの私ストーリーを壊すのです。

ストーリーへの関心

真実

ストーリー上で、、、悟る方法を教えてください。私の人生の中でどうやったら悟りを開ますか????これが多くの方の発想、本音です。私の人生を大切にしながら、、どうしたら悟れるのでしょうか?????です。ところがこれって幼稚園児に「TVの中には仮面ライダーが居ない」理由を教えるようなものです。不可能なんです、、幼稚園児に光学、物理学を教えてこれを証明しますか???不可能です。。。

TVをぶっ壊す

幼稚園児に仮面ライダーがTVの中に居ないことを証明するには、、TVをぶっ壊せばいいんです。。。ほらいないでしょ!!!です。理屈で教えて欲しいという幼稚園児が居たら「罠」だと思ってください、不可能です。悟りも全く同じ、、この夢物語の中の言語で、、悟りを理解するのは不可能なんです。なぜ???この言語こそが悟りを閉じる道具だからです。我々の脳には悟りを理解できるキャパがないのです。

ヨギー

だからヨギーは先ずはヨガ瞑想を勧め、太極拳があり、弓道、武道、禅が発展したんです。言葉での理解は不可能であることを目覚めた見かけ上の覚者は理解したのです。そして今見かけ上の私は真実をシンプルな言葉で説明しています。本当はこうなっている、、本当はこうなっている、、、この繰り返しの理解が、、、幼稚園児の頭から仮面ライダーの謎が消えるように、、、人間からストーリー、夢を消します。何度もTVを壊して中身を見せるように何度も真実に触れて自我、エゴ、ペインボディの嘘を見抜きます。

本物

勘違いの欠如

本物と偽物の違いって何でしょうか????勘違いの有無、、これだけです。。。この人は性格が悪いし卑怯だし攻撃的だし、、、、、勘違いが強いんです。。勘違いの強度が強いんです。この人は優しくて思いやりがあって無欲で、謙虚で、、、かつ自信に溢れている、、、、勘違いの強度が弱いんです。ただそれだけです。真実を真実を見抜いて、、、騙すとか、攻撃すると、できません、、なぜならばする必要が全くないから。座っている椅子の中に「100億円」あると分かってから、、、人の財布に興味が湧きますか?????

真実

真実はとにかくこうなっています「全部が全部現象であって、全思考、全感情、全衝動、全行動の全ては勝手に勝手に起こっています、これをコントロールできる誰かもいず、、全部が自然現象です」これだけ、、この二行で終わってしまうんです。ですがこの二行を深く深く馴染ませていきますと、、まさかの自我が薄くなり、エゴが薄くなり、ペインボディが薄くなり、、、マイストーリーが薄くなり、、、、あれ?????なんか楽なんですけど、、、になります。

真実に触れていきますと、、、楽になっていくので、、、周囲よりも行動が目立つかもしれない、、なぜあなたはそんな行動ができるのか?????になる、、、、、それ罠です、、それ引っ掛け問題です、、、不自由を脱却できた「自分」という自我の最終報復が起こります、、、一発逆転大暴れです。俺様を見ろ、俺様を尊敬しろ、、俺様をもっと評価しろ!!!!が起こるんです。。。こんな経験したことないだろ????です。ですがそれ嘘です、、居ないんですから、、自我が。。

この罠を脱却できると

関心が消えていきます、。自我に。。勘違いの解消だけに興味が湧きます、、それ以外に興味がない。。だって勘違いが消えれば、、、そこには至福しかないことを知っているからです。誰が????誰でもない何かがです。だからひたすらに真理の探究に入ります、勘違い解消の旅です、、、そしてその旅には主人公が既に居ないんです。居ないことを知りながらこの勘違い解消の旅が始まります。

飲酒時の気持ち

解放

飲酒時の気持ち、感覚って解放を目指す人間には大変参考になります。なぜ皆が集まる空間バーにお酒があるのか????タバコが吸えるのか?????なぜ????簡単です、、自我の感覚を薄めて、、全体の感覚だけに導くのです。自我の感覚は「違和感」「分離感」を起こします、体に起こすのです。この感覚をお酒の力、タバコの力で弱めるのです。これによって、、全体である感覚が強化されます。自我の感覚が薄れ全体の感覚が強化され、、「認識」のギャップが縮まるのです。結果「解放感」「開放感」が生まれます。

全体

全体の感覚が強化され、、分離感が体から拭われると、、、人間関係が楽しくなります、仲間感が強化されます、、シラフでは味わえない、、親しみを感じます。悟った後の人間関係の疑似体験が起こるのです。ですがこれを疑似体験で終わらせては勿体ない。できればお酒を飲まなくてもそうなれたならば最高です。できます、だって仕組みが分かってしまったのですから。

自我

自我の動き、思考の動きを強制的に止めるのがお酒ならば、、、自我の動き、思考の動きを俯瞰するのが開放です。自我の動きに関心を寄せない、思考の動きに関心を寄せない、、なぜならばその内容はどうせ間違っているから。自我なんて空想でしかないし、、私なんて空想の動物です、、だから私を主語にしたストーリーって全部空想、妄想、夢です、、それが分かると私にまつわる思考のほぼ100%はどうでもいい、となります。すると思考に関心、意識が向かないことで、、これが起こりにくくなる、、、これが新しい解放のスタイルです。

漫画

興味の湧かない漫画を100巻最終話で読めますか?????読めない、、、つまり関心を寄せないと、、ストーリーって読み込めないんです。つまり自我を空想の産物と見抜くと、、思考に入り込めなくなるんです。だって居ないものを居ると勘違いし続けるってしんどいじゃないですか。。。。つまり真実に触れてしまうとストーリーって展開しなくなっていくんです。

一大イベント????

悟りを何か一大イベントみたいに考えている方は、、既に自我に騙されています。悟りとは自我への興味の半減、軽減、無関心です。自我ストーリーを続けるためにはそこに関心を寄せ続けなくてはいけないのですが、、、関心が持てなくなるように促すのです。そのためには真実に触れる以外にありません。偽物を偽物と見抜くには本物に触れ続ける以外にありません。本物ってどこにありますか????そのために覚者は本を書き、サットサンをやり、、芸術家は至福の音楽を奏で、絵を作り、、とやっています。触れるのです、本物に。

違和感の処方箋

お酒

なぜ大人はお酒を飲むのか????なぜ???わざわざ思考を薄くするような感覚を求めるのか??????違和感です、、違和感を消したいのです、、、思考が作りだす、、自我、ストーリーによる「違和感」を消したい動きそれが「飲酒」です。自我、ストーリーが鮮明に描かれますと、、同時に「違和感」が体に芽生えます、、この体に芽生えた「違和感」を消すには、、、自我、ストーリーを不鮮明にする必要があるのです。それが飲酒です。

自我が強い=お酒が強い

自我が強いとは、、自我というイメージがより鮮明に描かれているということです。その場合、、体に起こる「違和感」は大きくなります。よってこの違和感を消すためのお酒の量は増えます。借金1000万円が発覚したその夜に1杯のビールで酔えますか????酔えません。自我がハッキリと映像化されたからです。自我がハッキリと映像化されれば映画に夢中になる感覚が強くなり、、結果「全体」「本当の自分」との乖離が生まれます。これが違和感です。

飲まなくていい

お酒の真の目的が理解できますと、、飲酒は、、違和感の薬でしかない、、、もしくは違和感の放置えすらあることが理解できます。そうです、、、飲酒は「違和感」と上手く付き合っていくための道具なんです。ストーリーを維持するための動きです。だからこれを知ったら飲まなくていい、、飲んでも解決にはならないから。「違和感」は実は悟りへの原動力です、違和感は真の解放へのガソリンなんです。

解放

今目の前が解放

実は実は今目の前に解放が起こっています。今目の前に現象が起こりそれに気づくが起こります。これ空即是色です、、そしてその現象が変わりますよね、、、、色即是空が起こり空即是色がエンドレスに起こるのです。これを解放と呼びます。そこに自分という存在のコントロールなど起こっていません、全く何もなくただ現象が現れては消えていくのです。これを解放と呼びます。実は実は我々は解放以外の状況など起こったことがないのです。

自我

自我とは自由意志でもってこの体を外部環境から守っている、、、とされている存在です。ですが実態を暴けばこの自我の行動の全てはただの色(現象)です。。。自我も実は色(現象)でしかなく、、、、コントロールしているように「見える」だけです。だから自我があろうとなかろうと解放が汚されることなど全くないのです。だから見かけ上の覚者は「なにも問題は起こらないしこれからも起きない」と断言します。

あってもなくても

そこが分かってしまうと、、自我の有無、エゴの生む、ペインボディの有無ですら、、、どうでもいい。。。となります。だってそれも現象(色)ならば解放、開放において何も問題ではないからです。視点を空に置いた時、、ただただ現象は現れては消えていきます。この真実に触れ続けますと、、自我の動きが薄くなるという現象(色)が起こるのです。ストーリーが薄くなるという現象(色)が起こるのです。自我とは空の視点の欠如からしか起きえないからです。