探求は一体化の時に起こる

全体が個人に一体化

なぜ探求が起こるのか???なぜ真実を追い求める探求が起こるのか???それは全体が個人と一体化したからです。全体が個人と一体化した時にだけ探求が起こります。だから今探求が起こっているならば一体化が続いていることを自覚します。探求とは救いを求める衝動です、、この衝動はどこから来るのか????一体化です、、これが悪いとか良いとかはないんです、、ただ一体化が探求を起こすことを認識します。先ずは全体が個人と一体化しているという事実を認めるのです。

至福

至福で至福で仕方がない時に「探求」という衝動は起こりようがないのです。つまり至福じゃないから探求が起こるのです。どこでそれは起こるのですか????夢の中です、、夢の中の個人が居るという想像が、、この探究を起こすのです。「意織」「全体」が個人にフォーカスする時、、、夢物語が始まります。すると、、夢の中でこれを解決しようという動きが起こります、これが探究です。

対面時

対面時は、、個人を意識しがちです、、そうではなく全体にこの個人が現れるのです、、そして全体に相手が現れます。そして全体の中で会話という現象が起こるのです。私も相手も当然現れるのですが、、それは現象です。意織は全体です、、この会話が成り立つのは、、、全体としての意織があるからです。その不思議に触れるのです。

真実に寄せていく

会話時に全体としてそこに居るのは不可能でしょう、、慣性の働きで、、つい個人になってしまいます。この意識が個人のものになってしまうのです。個人を想像し、、その個人が意識と同一化します。この様子を認識するのです。個人が現れ、、意識が個人と同一化する現象を全体として認識します。本当は意識が全体が個人になるなど不可能なのです。だからその同一化の動きを意識として全体として見抜くのです。

緊張感

個人

緊張感とは「この体の中に全自由意志を行使する自分という存在」を信じるときに起こります。この存在実はこの物理空間には存在できません、、情報空間、夢空間にしか存在できないんです。この存在が「自由意志を行使してこの体を守る」と信じるのは自由ですが、、、自由意志を行使できる存在はこの世界には存続できません。なぜならばこの世界は現れて消えていく現象、幻想、幻の世界だからです。

ただ起こる

ただ起こるんです、、行動も思考も、感情も、、全て、、、だからこの世界は「変化」だけが全てです。それ以外は全部幻想、幻です。この変化の世界で自由意志を行使しできるコントロール戦士は居ないんです。居ないのですがこれを信じるという動きは起こせます。これがただ緊張を生んでいます。これがただ不幸を生んでいます。ここを見抜きます。

夢を信じてもいい

この自分が体の中に居るという夢を信じてもいいんです、、ですがその信じるは緊張感と苦しみを生み続けます。これを何度も落とし込みます、、信じるは起こっていいし、勝手に起こります。ですが信じている間は苦しみ緊張が起こり続けます。この事実を認識していきます。そして夢を捨てれる「個人」は存在しません。ただこの事実に触れるのです、、そして夢から覚めるのを待つのです、、待つのは自分ではないですよ。

全体が個人を発見する

緊張感が抜ける

個人が居るというのは夢の中でのことです、、この体の中には私が居るというのは夢です。この個人という存在が全体から見抜かれますと、、、緊張感が緩みます。世界でこの体を守ることができるのはこの私だけだ、、これは緊張感です。この私の世界との戦いは、、夢の中、情報空間の中で起こります。この発想こそが「苦しみ、緊張、違和感」を生むのです。

守らなくていいの????

エゴ、自我の目的はこの体を守ることであり、、今その現象が起こっています。ですがこのエゴ、自我を自分と認識する動きは、、苦しみ、緊張を生み続けます。そこまでしてこのエゴ、自我を保持する必要はあるでしょうか????本当はこの自我、エゴは夢の中でしか生じていないという気づきが起こりますと、、エゴ、自我の動きを見守る全体が登場します。緊張感が緩むのを感じます。

エゴも自我も

エゴも自我もこの全体から生じる現象、夢現象に過ぎません。このことに気づきます。それでも対話時にはこの自我は戻ってきます、、その時は戻ってくることに自覚的になります。あ、そうか、、この存在が今まで全体を覆い隠していたんだなと。「意織」に代わって「私意織」が乗っ取っていたんです。意織は常にあるんです、これをこの体の中の「私」と同一視する動きがあったんです。

友人との会話後

ここ注意して感じてください、、友人との会話の時は「私」がでます、、出ないと会話が成立しません。ですが終わった帰り道、、その時の「私」がそのまま残っています。。。。え?????そうです、、継続して存在する「意織」をこの体の中の私と思い込む、、、動きが起こり続けます。これ催眠です、催眠術です、、催眠術が解けていないんです。意識はあっていんです、当たり前です。ですがこの意識はこの体の中に収まるような柔な存在ではないんです。ここ最重要です。

神がこの体の中の「私」???

神以外にはなれない

「鈴木さん来週ゴルフどう?????」この言葉は、、神が認識し、、、イメージ化し、、「行きたい!」が生まれればそれを神が認識し「是非行きましょう!」という言葉が鈴木さんと呼ばれる体から発せられます。認識は全て神が行っています。言葉のイメージ化も言葉の登場も。。。。では鈴木さんは何をしているんですか????そもそも鈴木さんは居ないんです。

神の全行為を

言葉の認識、言葉の出現の全てを神が行っています。ゴルフに誘う友人の発言も認識も全部神です。この神の認識を「鈴木という私」がやっているという勘違い思考が起こっています、この思考も神によってイメージ化され、、「違和感」が生まれます。この違和感を埋めるために、、「ゴルフ後に飲みに行こう」が神によって発せられました、鈴木さんという体を通じて。

鈴木さんが間違いを犯しているのではない

勘違いを起こしたのは「鈴木さん」ではありません。。。神が起こす現象の中に「勘違いの思考」が起こったのです。この思考は神によって認識されイメージ化され、、違和感が生まれ、、その違和感を消すために、、、「その後は飲みに行こう」が生まれました。誰も悪くないのです、、これが起こっていることに気づくのです。

勘違いの思考のみ

今も全世界で行われている会話の全ては神から起こり神がそれを認識します。全部神です。神以外には言葉の認識も言葉の出現もできません。その全てがこの体を通じて起こっているだけです。その中で「この体が全発言認識を行なっている」という内容の思考が生まれます、、その思考も神から起こります、そして神が認識します。すると違和感、緊張が生まれます。するとこの違和感緊張を打ち消すべくあらたな思考が神から起こるのです。全自動です、ここに「意志のあることになっている体」が入り込む余地はありません。

神々の世界

我々は勘違いの思考が蔓延する神々の世界に生きています。『この体には自由意思がってそれをコントロール「私」が居る』という勘違いの思考が蔓延する神々の世界に住んでいるんです。この世界の勘違いを見抜いたら我々は即神の世界に戻れます。なぜならば勘違い以外は、、この世界には何もないのです。今も空(不変の自己)から全現象(色)が生まれ、、それに気づく意織があります。ただそれだけ。

スポーツ

体を動かしながら思考フル回転、、これって不可能です。体を動かす時は、、、思考が静まる。。。つまり体を動かしている期間はあるがまま「意織」のみの状態です。「意織」の中であらゆる現象が立ち現れては消えていくのみ、、悟った状態なのです。ですがスポーツ後は思考フル回転、、意織(本当の私)が思考をイメージ化し、、そのイメージには私(意織)がこの世界を生き延びる、、、という映画が始まります。急に緊張感が走ります。

意識と自分を剥がす

思考の中ではこの体を中心としたストーリーが生まれ続けるでしょう、、、ですがどれほどこの体を使ったストーリーが生まれてもこの体の中の「私」は意織ではないんです。我々が唯一信用できる存在「意織」はこの「私」ではないんです。だからこの「意織」をストーリーの中に閉じ込めてはいけません。これは違和感苦しみを生み出します。

キリスト意織、釈迦意織

こんな言葉聞いたことありますよね???????キリストが気づいた意識も釈迦が気づいた意織も私が所有していると勘違いしていた「意織」も完全の全く同じです。だからこの意識は「私」じゃないんです、、この意識をキリスト、釈迦と呼んだんです。意識は全部であって部分『私』では断じてないんです。

混同しない

意識と私

なぜあなたは生きているって思えるんですか????それは意織があるからです。。こう答えます。緊急時医者は患者の意織があるか否かを重要視します。つまり私とは意織でありこの体のことなんです。だから意識が起こると「私」も起こります。朝意識が生まれ「私」も生まれます。。これが人間業界の常識です。ですがこの常識によって人は一生苦しむのです。

私とは意識の一部でしかない

ここ最重要です、、、私が居る時意識があります、、意識がある時「私」が居ます。だから私=意織と結んだんです。ですが違います、、意織は意織であって、、「私」では断じてないのです。我々が私と呼ぶ存在とはこの体のことですよね?????この体は意識の一部でしかないのです、、、この机もこのカップも、この人もあの人も意識の一部です。つまり意織は全現象のことであり、、この体のみではないんです。

意識がある自分が居る

今日は18時間自分をやっていました、、なぜならば18時間意識があったからです、、、違います、、意識は18時間100%あるでしょう、、ですが私は、その意識の中にたまに登場しただけなんです。会話するときに名前を呼ばれその瞬間のみ登場したんです。それ以外は全体としての「意織」です。全現象に気づく意織です。もっと言えば意識は「私」には成れないんです。意識の中に「私」がたまに現れるんです。

会話

情報空間

二人の人間が会話します、、、言葉の全てはこの体から発せられますが、、、言葉はその場でイメージ化され、、情報空間に存在します。その言葉の全ては情報空間で、、認識され気づかれ感情を生み成り立っていきます。この際に「私」「あなた」というイメージは必須条件です。この二つがないと会話が成り立ちません。ですから生きていく上でこの二つがなくなることもないし、、これが消えるようなこともないのです。

意織

大きな大きな勘違いが起こるのはこの「私」=意織とする思考です。社会で生きていく上でこの体を「私」と呼ぶのは当然でありそこはそれでいいのです。ところが「私」=この体=「意織」とした瞬間に緊張感が生まれます。「私」=体ですが「私」=「意織」は間違っています。意識とはこの全現象を生み出す存在であり、、もっと正確に伝えれば空(不変の自己)から(現象の全て)が起こるときに生み出される現象=「意織」です。よってこの体=私=意織では絶対にないのです。

私(意織)は怒っている???

私は怒っている、私は不機嫌だ、、、この体(私)の中に怒りの感情、不機嫌の感情が起こった、、、これは真実です。ですが意織としての「私」が怒った、、、は間違いです。意識の中にこの私が現れ、、意識の中に怒りが現れた、、、これが正解です。この時意識は全体そのものであり、、私は体であり、、怒りは意識の中で現れたという真実を表現しています。。そこには緊張感が生まれないのです。

意織と「私」は別

ここを理解します、ここを把握します。意織は常に現れますが、、これは体を示す「私」では全くないのです。意識がある、、だから私が居る、、ではないんです。。意識は常にあります、、ですが「私」用件がなければ出る必要がないのです。意識は常にあります、、その中に体が登場し、、それが「私」と呼ばれます、この社会では。この微妙な違い、、超重要です。

情報空間

流れる映画

我々のこの体は意識の中から浮かび上がりそこに存在します。あらゆる体が物質という幻想でそこの立ち現れては消えていきます。この状態、ただ物質としての体が立ち現れ消えていく状態を意識が意識として認識する時「平和、愛、安らぎ」に満ちています。ところがこの体の中から思考が湧き「私」が登場した瞬間緊張感が生まれます。「私」を中心とした映画が上映されます、これが意織によって意識化、イメージ化されこの緊張感が拭えない状態で固定されます。

情報空間

この夢、映画は物質空間には存在しません、情報空間に存在します。その情報に意識が意織すると、、、流れます、認識されます、、緊張感が生まれます、苦しみが生まれます、、、これをやっているのです。なんのために???何の意味もないのです、、ただそういう流れになったんです、、、ただこの映画はこの体を守ろうとうとする動きが多いため、、、この体が安全に維持される可能性は高くなります。だからこの映画が終わることがありません。

止めたいんですが

え?????だったら私この映画止めたいんですけど!!!!!無理です、、、止める「私」が本当は居ないからです、「私」が居る前提でこの映画は進みますが、、「私」は居ないんです実際は。。だからこの映画の脚本にこの「私」が関わるって不可能です。じゃあどうすればいいのでしょうか????ただ単純にこの映画化の流れを理解します、、、、「私」も「私のストーリー」も映画であって実在ではない、、、この理解が起こったっ時に、、、、映画に意識が意織しなくなるという現象が起こる可能性があります。「あなた」が映画に集中できる時の条件ってそこんリアリティがあるからですよね?????無ければ集中できない、意織できない、、、ですよね!!!!つまりこの映画、私を中心とした映画が嘘であることを断定できると「意織」できなくなります。

終わった

今感じている、今起こっている苦しみ、緊張感、辛さって、、、実はこの映画に意織が意織していたことで起こっていただけなんです。起こる事件がこの「私」を巻き込み「私」にリアリティを与えたときに緊張感が生まれていたのです。だからその嘘を見抜くのです、、何が起きても緊張できない状態にまで持っていきます。すると安堵、平和、愛が訪れます。

見抜く

この世界は、、あるがままです。あるがまましかありません。その中で「私」という思考が湧きます、するとしれがイメージ化され映像化されます。そして私の家、私の車、私の家族、私の仕事、、、がイメージ化されていくのです。これらは全部全自動で思考化されイメージ化されていきます。そこに誰かが関与することは全くないのです。全ストーリーが全自動で映像化されストーリー化されます。

これを止める「私」は居ない

「私」とはイメージの対象であって実在ではありません。ですからこのストーリーを私が止めるなど不可能です。私もイメージの一つです、、この私は、、、という全ストーリーは実は真の「私」が奏でるイメージに過ぎないのです。だから私が苦しい、私が悲しい、私が辛い、、、全部イメージ、スクリーンに映る映像に過ぎません。

これが分かると

この辺りが分かってきますと、、、「私」に興味関心が無くなっていきます。だって私は真の私が映し出すイメージに過ぎず、、それ以上でも以下でもないからです。不幸になってしまった私、、悲惨な状況の私、、はイメージに過ぎず、、、実在しないのです。そこが本当の意味で腹落ちしますと、、、もう私を織りなすストーリーが止まります。そのストーリーが消えるのです。これが悟りです。

一瞥体験が不要な理由

完全な理解

重要なことは完全な理解です。一瞥体験と呼ばれるような体験はあってもいいしなくてもいい、どうでもいいんです。重要なことは完全な理解ただそれだけです。この体には自分が居てというのは嘘です、、自分という存在は間違いなくこの「意織」の所有者という意味ですが、、、、この「意織」は全体からしか起きないのですからそれは嘘なんです。この嘘を信じることであらゆる「苦しみ」が起こったのです。

この体

この体は現象としては100%存在します、、そこは間違いありません。それは100%です。ですがこの体の中に自分という「意織」があるというのは嘘です、、、「意織」とは全体から全現象が放出しその認識時に全体から起こるものだからです。つまり意識の横取り詐欺が起こったのです。

詐欺を暴く

このマイストーリーは完全なる詐欺事件です、、、この「意織」、全体からしか生じない空からしか生じえない「意織」をこの体の中の自分という存在が所有したという詐欺です。この詐欺を見抜けなかったばかりにその詐欺をベースにしたストーリーがエンドレスに続いたのです、、何千年間も。釈迦はこれに気づき、、人生を苦と表現しました。

詐欺の目的

この詐欺事件の目的は何ですか????ありません、、全くありません、、、この詐欺は勝手に起こり勝手に終わるんです。そこには目的は何もなく、、ただ化学反応的に起こったんです。だからそこには被害者もいず加害者もいないのです。ただ苦しみが終わるのです。