自燃

自燃とは

自燃とは自ら燃えて自ら動ける人のことを言います。他人の影響を受ける必要なく動けることです。なぜそのようなことが可能なのか?????大前提としてこの思考を自分とする感覚が薄いことがあります。思考を自分と認識しますと、、この思考が変幻自在、移り変わる全く信用ができない存在になります。この感情を自分とするとさらに全く信用できない安定しない存在になります。思考感情を自分と認識する限り人生は七転八倒の暴れ馬です。暴れ馬の状態で何かに積極的に動くがありえません。

先ずは認識を変える

思考雑念感情を完全に抜いた状態、時間を1日の中にどれだけ作れるか、、ここが重要になります。ここに自ら帰ることができれば、つまり無我に積極的に帰ることができますと、、そこに本当の自分が居ます。思考感情を抜いた場所に意思で帰ることができると絶対的な「安心」が広がります。まさに絶対的な「安心」が自身の本性であることを知っているのです。そこには暴れ馬は居ないのです。

動いているようで

自燃タイプは周囲からは暴れ馬に見えるかもしれません。ですが実際には真逆で、、思考感情を自分とはせずむしろ思考感情が全く出ない状態無我こそが、、自分であることを知りさらにそこに1日に何度も入ります。その領域は駆け引きゼロ、取引ゼロのゾーンの場所、、ここで行われる行為はまさに神による神の行為です。つまりこれは瞑想なのです。

無我とは何だ????

私は1日に何度もこの無我に入ることで、、、この無我自体に非常に興味を持つようになりました。何だこれは????全くのノー思考ノー感情、、、何この感覚?????そして関心が無我自体になる、、、神、大いなる存在、ノンデュアリティからの誘いが勝手に起こるのです。そしていつの間にか無我になって何かを成し遂げることではなく「無我」そのものを突き止めること自体に関心の全てが向くようになりました。それがここ4年間です。

正体

分かったこと、、それはこの意識こそが自分自身、無我であり、、、、この「意識」のみの状態に入りますと、、全現象はらだの無我の鏡になります。意織の鏡がこの全現象です。この体には自分が居なくなり、、本当の自分「無我」と「全現象」そしてそれを認識する「意織」になるのです。無我とは「空」であり全現象は「色」です。そして「空と色」のみになったっ時に「意織」が生まれます。この三者のみの状況が空即是色、色即是空です。自燃タイプとは、、この状態に自ら入れる人のことを言います。

幸福を手に入れる

誰が???

我々は基本幸福とは努力の結果として手に入れるものだと信じています。人よりも多くの努力をした結果として人よりも多くの幸福を手に入れれると信じています。ですがこれは不幸になります。幸福を手に入れる「自分」という思考を強固にします。ですがこの手に入れる個人は存在しないのです、結果この発想こそが「違和感」を日に日に増していくのです。

幸福とは

幸福とは、、全思考全感情が、、根源の現れに過ぎないことに気づくことです。この自分がこの体には居るという思考も根源から現れでた思考に過ぎないことに気づきます。するとこの思考に思考を被せるという流れが起こらなくなります。この体には自分が居るという思考からの思考の連鎖が消えます。なぜならばその先には幸福がないからです。

次へ

幸福は先にある、、これが我々人間が考える幸福の場所です。ですが幸福は先にあるのではなく、、、この思考、この感情が我々の本質である根源から起こっていることに気づくことなのです。根源には先などあるわけがなく、、根源には時間も空間も存在しません。。先に先にあるはずの幸福が確実に時間の中で起こりますが、、時間が先ずは存在しないのです。この時時間の中で幸福を探すという構造的矛盾に気づきます。我々はこの根源でありそもそも時間という制約の外に存在します。

思考感情は根源の子供

思考感情

思考感情はその内容が何であれ根元の子供です。思考感情は根元からひたすらに湧いてきます、これをコントロールできることはありません、、根元の子供です。この思考が指し示す内容は基本的に間違っています、そしてその内容が間違っているから、、、辛い苦しいという感情が湧くのです。ですが間違っていようがなかろうがこれが根元の子供であることは間違いないのです。

自分が居るも

自分が居るという思考も根元の子供です、そしてその思考が指し示す内容は完璧に間違いです、だからそこから湧く感情は苦しい、違和感になります。ですがこれは全部根元の子供です。重要なことはこの事実に気づくことです。思考の内容は基本的には間違っているのです、ですが思考自体は根元の子供です。

辛い時

辛いという感情が湧く時、、間違った内容の思考が湧いています。それ自体はどうしようもない、、ですがこの事実に注意深くなることができます。真実とは異なった内容の思考が湧けば、違和感が湧きます。そして思考の内容は多くの場合間違っています。ではどう間違っているのか????多くの場合その思考の主語は肉体の主人である「私」です。ですがこの肉体の中には自分が居ないんです、実は。よってその真実とは異なる思考が湧けば違和感という感情が湧くのです。

真実

真実とは、、この根源から全ては現象化され、、この根源こそが我々の本質です。この体の中に「私」は必要ですがこれは社会的に必要な記号に過ぎません。この記号を真実と捉えることで我々は混乱の世界に入り込みます。苦労、違和感、孤独、辛酸、の世界に入っていきます。根元から全ては現象化されその現象の全ては根源の子供です。この子供が指し示すは真実は全くかけ離れたものもあり、、それが苦しみになります。この事実に向き合えるようになる時、、真実への扉が開きます。

ツイテル、ツイテル、絶好調

ペインボディ

ペインボディとはネガティブな波動エネルギーですから、、ポジティブな言葉波動が嫌いです。反りが合わないのです。ですからこれらの言葉を意図的に発するのは重要です、ペインボディが嫌がる言葉を積極的に発するのです。嬉しい、楽しい、絶好調、有難い、、などなど。こうやってペインボディをこの体から追い出していきます。

スムーズな流れ

ペインボディとは重い重いエネルギー体ですから、、速やかな流れ、、スムーズな流れとは真逆です。つまり健康で健やかな状態とは真逆なんです。ですからこれを最初から叶えてしまいます、スポーツで。太極拳、ヨガ、ストレッチ、、、水泳、、、で最初から流れを作るのです。体に。するとペインボディは威力を半減します。

エゴの肥大化

ペインボディの影響を脱した「私」は周囲から一目置かれるでしょう、モテるでしょう、評価されるでしょう。。この時にエゴが出しゃばります。私って凄くない????私って半端なくない????私って、、、、満たされない何かを、、、評価を受けることで満たそうとする動きが起こればまた戻されます。苦しい、苦しい、、、です。そうではなくペインボディはエゴを維持するための装置だったことを見抜きます、、すると、、エゴの活動に興味が失せます。エゴをエゴと見抜く活動にシフトします。

「私」への無関心

根源

根源が我々の本質です、、ここからこの体が立ち現れ、、、この体の中に「私」が居るという概念が立ち現れ、、それが記憶されます。この結果この記憶、概念をベースにあらゆる思考感情が湧き上がってきます。これが人生と呼ばれるものです、夢物語です。我々はどこまでいってこの根源であって、、そこから立ち現れる現象ではありません。この現象の一部であるこの体を自分とする概念が自我、エゴです。

エゴを維持する動き

エゴが完成されてきますとこれを維持する動き、、ペインボディが育ちます。このペインボディは不幸、争い、競争にエゴを巻き込み、、エゴを維持しようとする不幸体です。喧嘩、闘争を好んで仕掛けエゴを維持しようとします。先ずはこれを見抜きます、、これを見抜かないとエゴは不幸とセットになります。

ペインボディを見抜くと

ペインボディを見抜くと、、次は、、エゴの拡大が待っています。ペインボディは不幸依存症であり、、そこから解放されても、、今度はペインボディを見抜いた「私」が拡大肥大するのです。すごいでしょ!!!私って!!!が起こります。あなたたちみたいにグチグチ、グダグダ生きていない「私」を見て!!が起こります。ですがどれほどの評価を受けようと、、全く満たされないどころか、、益々苦しくなる。

「私」を止める

私を生きている限り、、不幸からは脱却できません。なぜならば「私」は第二の私であって第一の私ではないからです。第一の私とは、、この現象をありのままに認識する存在です、、第二の私が現れるまえから存在する、、存在です。この存在に気づけない限り、、我々はこの世界には第二の自分しか存在しないと勘違いして彷徨うのです。

どこで我々は苦しむのか???

苦しんだり楽しんだり

我々は時に苦しみ、時に楽しむような柔な存在ではありません。我々は時に悲しみ時に嬉しがり、時に鬱々とし、時に喜ぶような柔な存在ではないんです。我々はその全現象を認識する大元の存在です。その全感情を認識する存在です。私は長い期間苦しんできました、、このストーリーを認識する存在こそが我々の本質です。だから我々が誰かに奪われたり誰かに傷つけられたりなど起こるわけがないんです。

万全の存在

我々の存在に喜怒哀楽などあるのだとしたら我々は柔で安定性のない脆い存在です。そのようなことはあるはずがなく、、我々はその喜怒哀楽を認識する存在です。今日は良い天気だなー、気分が良いなーという思考感情を認識する存在が私の本質です。え???じゃあ思考も感情も私ではないんですか????厳密にはそれらは私から現れたアートみたいなものです。。

現れた思考感情を

現れた思考感情は勝手に勝手に立ち現れては消えていきますから、、そこには関心を寄せなくていいのです。それよりもそれが現れ出た根源に意識を向けるのです、、この根源が我々の本質です。この根元の上に体としての「私」が立ち現れ、、「私」を中心にした思考感情が立ち現れては消えていきますが、、、それらは全部嘘です、、根源が自分であるという認識を欠いた思考の全ては嘘です。だから信用しなくていいのです。

背景に自分を重ねる

あるがままから

本来は我々はあるがままからの景色しか見たことがなかったんです、、あるがまま、、背景が、、現象をそのままに認識する世界に居たんです。。全ては光り輝き、、現象はそのままに美しく輝く世界に住んでいました。ところがこの体が自分だという学習をすることでこの自分をベースにした認識がこの上に重なったのです。その結果この世界が薄汚れてきたのです。

音を音のままに

生まれてきてしばらくは音を音のままに聞いていたんです、、この耳を介在することなく音を音としてそのままに感じていました。ところが「あなたはこの耳でこの音を聞いている」という概念を学習することで、、あるがままの認識の上に、、耳で聴くという認識が重なり音が燻んでいったのです。

あるがままに戻る

この世界は神が神の写し姿を認識する世界です、、ですからこの体を介在しなくても認識は起こせます、、最初はそうやっていたんです。ところがこの体の中の自分が居てその自分がこの認識を起こしているのだという新しい概念を記憶したことでそのままの認識の上に新しい認識が重なったのです。これによって息苦しさ、重苦しさ、居心地の悪さが生じたのです。

これを解消しようと

これを解消しようと、、、この個人が動けば動くほどに、、苦しみが継続されます。新しい認識こそが居心地の悪さの元であるなどとは知らずに、、起こす行動の全ては無駄に終わるのです。そしてクタクタに疲れ果て、、疲労困憊、、もう動けないと諦めたその時、、、個人の活動が終わり、、、真の安らぎに気づきます。

客観的事実

客観的事実とは残酷で、、ここに意識を向ければ向けるほどに苦しくなります。なぜか????それは客観的事実とは、、幻想事実だからです。全部幻想ではこうなってますよ!!!!という情報です。真実は幻想でそのものを生み出し認識する存在こそが我々です。我々は全幻想を生み出し全幻想を認識する存在であって、、幻想の一部では断じてないのです。

葛藤がない

太極拳

太極拳を極めていくことで太極に至るとうのは大変現実的かつ無駄がないシステムです。先ず一番最初に取り組むのが経絡、そしてそこに潜むペインボディであるということが凄いのです。このペインボディは軽楽に住み着む不幸依存症です。不幸依存症を住ませた状態で悟りとか先ず不可能。ここに最初からアプローチします。不幸依存症ペインボディの住処を崩していくのです。ペインボディを小さくすることが一番最初の取り組みになります。

大地にしっかりと踏み込み

大地に足をしっかりと踏み込み、、上半身を自由に操っていく、、全経絡が開いていく、、と同時に大地のエネルギー天のエネルギーが身体に入ってくる。。ペインボディが追い出されていきます。そして体は健康に元気になることで、、エゴは全く怖がらない、、この体を守る主人は安心の域に入るのです。ペインボディという不幸依存症を必要としなくなるのです。

お役御免

不幸依存症ペインボディの代わりに元気を通すことで、、、ペインボディの存在意義をなくすのです。ペインボディは「元気」の代わりにこの体に住まい、、「エゴ」を守ってきたんです。このペインボディにお役御免を言い渡すことが、、「元気」です。元気を体に注入し、、ペインボディに引き払ってもらうのです。エゴは自分を守ってくれるのが「元気」だろうと「ペインボディ」だろうと関係がない。よって「元気」が体に住まえばペインボディは居なくて結構、、となります。

元気が満ちれば

元気がこの体に満ちれば、、ペインボディは必然的に姿を消し、、エゴだけが残ります。そしてさらに元気を増やせば増やすほどにエゴという体の防衛システムは必要性をなくし、、エゴは小さくなっていくのです。元気が体に満ちれば、、何かを欲するエゴの動き、、大きく見せようとするエゴの動きも自然となくなります。さらに全生命エネルギーが体に流れ込むことで「大我」の存在を強制的に感じるようになり、、ここに戻りたいという欲求が生まれるのです、自然と。これが大極への欲求、悟りへの欲求です。

小我、大我

中国人

中国人は大変現実的です。今の体を小我と呼び、、この全体を大我と呼ぶ。。そして小我を完成することを小周天、、、そして次に全体であることを思い出すことを大周天とする教えがあります。先ずはこの体の全経絡を通す、、すると次第に宇宙との繋がりが起こり始め、、、宇宙全体になる、、これを体から入るのです。ペインボディを消し去って、、、エゴの解体を邪魔させない。

全体という感覚

全体という感覚を体から思い出してしまう、、、全経絡を開いてしまうことでペインボディを消し去って、、エゴの維持機能を封鎖、、、エゴそのものの動きを抑える、、なぜならば体は非常に鋭敏で健康ゆえに守る必要がない、、エゴが出しゃばる必要がないのです。。。結果エゴの肥大化を抑えながら、、、そのまま全経絡を開き切り、、全体であることを強制的に思い出してしまいます。

小我は大我の道具

大我、背景の感覚を思い出すことで小我は、、、この体の主人に過ぎないことを思い出します。強制的に思い出すんです。本当はこの大我こそが自分で、、小我はこの体の主人に過ぎないと。この流れを経絡という流れを使って行います。太極拳とはそのことです。太極とは非二元、ノンデュアリティです。

第二の自分

自我とは第二の自分のこと

自我とは第二の自分のことです。エゴとは第二の自分のことです。本当の自分は背景です、、この世界の背景が私です。今見える聞こえるこの世界の背景が自分です。この背景の中にこの透明肉体が出現し、この透明人間を自分とする動きが起こったんです。透明人間?????そうです、、透明人間です、、だって、、上を見るとこの体は消えます、下を見ると腕が消えます。右をみれば全体が消えます。はい、、目を閉じて下さい、、この瞬間に目が現れました、、目蓋を感じますね。はい耳を触ってください。、、この瞬間「耳」と呼ばれるフォルムが生まれます。鼻を触ってください、、この瞬間鼻と呼ばれるフォルムが生まれます。

この意識すると現れでる存在

この意識すると現れでる存在「体」を自分と勘違いすることから私ストーリーがこの世界に生まれたんです。背景には人生なんてありえないんです、、背景としての人生????不可能、、、だからこの体を自分とする発想が生まれなければ、、、この人生は存在できないわけです。

苦しい

この現れでる体を自分、主人とする概念がエゴです。そしてこのマイストーリー、、が本当に存在すると信じること、、これが幻想、夢と呼ばれる真相です。本当の私「背景」の存在を忘れて第二の私「自我」「エゴ」を真実する発想を釈迦は「無知」と称したのです。

今更遅い?

今更そんなこと聞いたって、、もうこの私には家も家族も子供も車も会社も役職もある、、、自我を捨てるなんて無理ですけど??????全くもって自我を捨てる必要なんてないんです、、というか不可能です。この体に自分が居ないという発想で生きるのは。。。コミュニケーションが成り立たないのですから。ですが真実では背景が我々の本質であり今もこの「意識」はそこから生じています。そしてこの体はただ現れては消える現象なんです。そこを一生懸命やるんです、、、意識はそこにはないのですが。

本当を知っているだけで

本当を知るととんでもない癒しが訪れます、、それは特に他人に対してです。なぜ苦しんでいるのかを明確に理解できるのです。なぜ怒りっぽいのか???なぜ悲しみにくれるのか???なぜ鬱々としてしまうのか????全部分かってしまう、、、だって本当の私(背景)を忘れて第二の自分を真剣に信じれば寂しいし悲しいし孤独出し、、違和感だし、、、、、辛いに決まっているからです。だから優しくなれるんです。もうそれだけで第二の人生はハッピーです。