説明裁判

自我は説明に持ち込む

全部は幻想ですから気づきは全て全体から起こるんです、、、そう説明するとじゃあ体は何をしている????脳は????網膜は????脳神経は????となります。。。。この動き、、この動きこそが「絶対に幻想にはさせない」自我、エゴ、ストーリー夢の動きです。じゃあそれを分かりやすく「私」に説明してくれ!!!!が起こるんです、、私が住んでいるこの場所(マイホーム)で、、、となります。

夢の世界、ストーリーの世界、、映画の世界で、、、説明裁判にかけられますと、、「幻想ではない」を証明する物的証拠が出てきます、次から次へと、、、ですがその全てが幻なのだ、、、と説明しても、、、その証拠がない、、となります。結果この裁判は、、、うやむやになり勝敗がつかないのです。というよりも勝敗をつけるのが不可能なのです。

だから「説明裁判」には行かない

だから説明裁判には行かなくていいのです、、、そうではなく、、真実に触れ続けます、、、真実は説明をして受け入れてもらえるものではなく、、、触れ続けて実感するんものです。。実感でしか分かりえないものを説明で納得しようとする動きこそが、、自我、ストーリーの動きなんです。夢から醒める以外にこれが夢だったと実感する方法はないのです。夢の中でこうこうくいう理由でこええが夢だと説明を受けてもその納得も夢の中です。。だからこそ、、説明裁判に導き夢を長引かせようとする動きが起こります。

昨日何してたの????

こういう夢を見てました

昨日は、、恵比寿にいて、買い物をして、、その後友人とランチして、夜はカラオケではっちゃけました。そういう夢を見ていました。。。こう説明します。本当の説明は、、恵比寿と呼ばれる現象が起こり、あらゆるお店が立ち上がり、、この体がその中で何かを買うが起こり、、友人と呼ばれる体が登場し、、そこで会話が起こり、ランチが起こり、、、となります。この体を含む全現象が立ち上がったというのが正解です。ですが多くの方は、この体がそこに「行き」「行為」を行いが正解と信じています。

夢全体が私

昨日見た夢の中で「私」だけが夢で、、背景は、、真実ってないですよね?????全部が夢です。これはこの現実も全く同じで、、、、恵比寿という現象、お店という現象、、その中のこの体、、この体の行為、、友人の現れ、、会話、、、全部が現象という夢なんです、、、この中で「私」という自由意思全開の存在が居るという思い込みが起こり、、、第二の夢が起こります。

現象も夢、その中に自由意志全開の「私」が居るというもっと夢

この現象も幻想ですから夢みたいなものです、、ですがその中でこの体が登場しその体の中には「自由意思全開の私」が実在するという更なる夢が起こります。私はこの現実社会を「自由意志」使って生き抜かなくてはならないという更なる夢が起こります。全部間違っています、、、この世界は幻想でありよってこの体も幻想であり、、ゆえにこの体の中の「私」も現れては消えていく幻想です。

何にもないを嫌がる「自我」

何にもないんです

見かけ上も覚者は言います「本当は何にもないんです」このメッセージに自我は敏感に反応します、、何それ???なわけないじゃん、、、じゃあこの手の感覚は???目の感覚は??耳の感覚は????五感の全てを使って「ある」を証明しようとする動きが起こります。。。そして説明不能な箇所を見つけ出し「ある!!!!」で完全勝利を起こそうとします。

それでもない

それでも絶対にないんです、、この有限の物質の世界、、は嘘です。ないです100%。その上でもう一度この世界を理解しようとするとまたまた「自我」発生、、、あれは???これは???これはどうなるの????と「ある」に導く質問をマシンガンのように連発します。そして説明が不能であると「ある!!!!!」で完全勝利に導くのです。

説明はつかなくていい

説明は実はつかなくていいんです、、説明100%の引っ張る動きこそが自我です。「説明裁判」に導く行為が自我であり、その場所では自我に勝てないのです。「説明裁判」に行かないでください、、、勝てないです、、そこは自我のホームタウンです。そうではなくただ真実に触れるのです、、真実に触れ続けていますと、、自我、エゴ、ストーリー、夢が勝手に消えちゃうんです。。毎晩見ている夢も同じ、、、、真実に触れ続けていると、、、覚めちゃうんです、、その夢から。だから、、、気にしないでください、、自我の動きに、、説明を求める自我の動きを自覚して、、、そこに行かない。これが正解です。

脱催眠しようとする私も催眠

どうやったら脱催眠できますか????

私が脱催眠?????いやいや、、私という存在こそが催眠によって誕生したんです。私が居るという概念こそが催眠です。私というイメージが湧くことが催眠です、、、、、だから私のストーリー、映画、物語中で、、この催眠を解こうという動きを起こさないことです。真実がこのストーリーを溶かすのです、、真実がこのストーリーを崩します。

全体の全体による再認識

私のストーリーの崩れは、、、、真実の理解、、本当の私の再発見が起こすのです。「意織」の「意織」「全体」の「全体」が起こすのです。私のストーリは無知が作り出すのです、、、知はこのストーリーを溶かします。なぜならば知の中でストーリーは崩れる運命なのです。無知が私のストーリーを作り、、知が私のストーリを崩すのです。

覚者がなぜ覚醒体験を語りたがらないか

ストーリー

質問者の多くはどうやって悟ったか、覚醒体験が起きたのか???そこに最大の関心を寄せます。覚者の反応の多くは、、言いたくない、、です。なぜか?????私が居てこのストーリーを生きるというのが夢だったという気づきが悟り解放目覚めです。つまりストーリーは嘘だったということです。にも関わらず私がこうしてああしてこうしたら突然「ドカン!!!」が起きました、、、という話を期待されても困るのです。

毎晩の夢

毎晩の夢の中で、、覚める瞬間って重要でしょうか??????夢から覚める時、、夢の中でやっていた内容って重要ですか?????私がああしてこうして、、と夢から覚めることに因果関係がありますか????あるかもしれないしないかもしれない、、、だから因果関係がある前提の質問には応えにくいのです。

因果関係

質問者は因果関係を知って私もそのやり方にあやかろうという意図を持ってこの質問をします。ですが、、因果関係はないのです、、、夢から覚めるのと、、、夢中の個人の活動には因果関係がないのです。夢から覚めるのは誰ですか?????全体です、、個人ではないんです。全体から、、覚めるが起こるんです。だから個人へのフォーカスはそれ自体が勘違いです。よって見かけ上の覚者は、、、この話を避けるのです。

私は誰?????

これが劇を終わらせる

結局のところ、、誰しも、、リッチマンも、落第者も、浪人生も、成功者も、、本当のところ私は誰?????という究極の問いを追い求めていきています。深い場所では確実にその疑問を持ち生きます。なぜならば苦しいからです。この私をやっている限り苦しいのです。。だからこの疑問が人生において消えることはないのです。

私は空であり色である

この認識は劇のリアリティを終わらせます、、この認識が映画の臨場感を終わらせます、、この認識が夢のリアリティを終わらせるのです。この認識を持ちながら、、、夢のリアリティを維持する方が難しいのです。だから自己の再発見こそが重要になります。ストーリー上の個人が自分を求めて彷徨っても個人を強化します。

本質の理解

真実を理解するのに「私」は必要ありません。ただ粛々と真実を理解します。この真実の理解が、、個人のストーリーを薄めます、弾きます、解かします。真実においての私は「空」です「色」です「意織」です。ここの理解は、、ストーリー上の「私」を溶かすのです。真実においてのこの体の「私」は認識される対象に過ぎません。本当の私は認識を起こす「空」であり「色」であり「意織」です。

全体は知っている

個人的活動の謳歌で

どれほど今楽しくても、友人のパーティー、、夜通しのお祝い、誕生日、、目標達成祝い、、、どれほどの謳歌中もちゃんと分かっている存在がいます。。。そうじゃないよね????というこの感覚、、この冷静な眼差し、、分かってますよね、皆さんも。そうです個人という活動の先に至福はないんです。架空の個人活動の先には先しかありません。

この意織

この意織、、今も確実にあるこの意識は空から色が起こる瞬間に現象化する「気づき」です。この気づきは、、、分かっています、、本当の至福の場所を。だから「私って最高!!!!」が認識された瞬間、、違和感が湧きます、自動的に。最高な私って誰?????という冷徹な感覚が湧きます。この意識は「全体」が「全体である」証拠です。この証拠が、、、しっかりと「私って最高」を認識しながらも「違和感」を出します。

止めれる誰かは居ない

よし分かった、、じゃあこの劇、ストーリーを止めよう!!!!それをできる個人が存在しないのです。この劇、夢、映画は、、、止めるものではなく自動的に薄れていきます。一発ドカンかもしれないし徐々に徐々にかもしれない、、、それを決める誰かは居ないのです。全体の中で何かが起こるだけです。

ストーリー

自覚

この私、私のストーリー、、これがあるのは明白です、多くの方にとって。働かないといけないのは誰???食事を食べないといけないのは誰????掃除をしないといけないのは誰????と常に外部環境はこの体をストーリーに誘います。もう当たり前のように。だからついこのストーリーに入り込みます。ですがこれが罠です、、働くのに「私」は必要ありません、掃除に「私」は必要ないんです、食事にも「私」は要らないんです。ただやればいい。

全体の自覚

全体であるという圧倒的自覚が、、ストーリーへの埋没を止めます。どこまでストーリーに入ってもどこかで気づいています。。これが嘘であることを、、これ重要です。あれ、、また私は入り込んでた、、、です。あれ、、また私やってた。。です。つまり、、、、入り込むことに、、、自覚的になれるのです。入り込む、、、と同時にそこを俯瞰する全体が現れます。そしてどのような状況になろうとも深刻にならない全体が現れるのです。

時間空間が薄れていく

今何時だ????時間と空間の認識が薄れていきます。今年中にこれをやらなきゃ、、今月中の目標は、、今週までにこれを!!!が起きにくい。。なぜ。。。達成する自分が居ないことを知っているから。これは全体であるという自覚がそうさせます。どうせ全体ですから、、、これが重要なんです、、全体という自覚は架空の個人の成果に興味がないのです。全体は架空の個人の評価に興味がないのです。

崩れる

もう知っているんです、、架空の個人の成功、達成、成就が至福に至らせないばかりか、、、この活動自体が緊張感、分離感、孤独感、を作り出していることを。これを分かってどうして個人的活動に興味がでるのか????です。架空の個人が、、夢の中で七転八倒、、、、これが全体であるという認識の間にギャップを生み出し苦しみを生じます。

全体が全体でない時などありえない

空即是色

今も完全にこの見える世界は完全完璧に空の現れであり色であり、、、よって全部が意織されています。「私」が欠落した瞬間に全体としての意織が現れるのではなく、、、現象すなわち「意織」ですから全体としての意識は100%あります。構造的に付加可能なのです、、全体としての意織が欠落するのは。ただその中で同時に「私」というイメージも意識によって意織されます。この矛盾、ギャップが苦しみをもたらすのです。

意識とは空即是色で起こる

意識は空即是色でしか起きえないので、、全景色は意織化されます。そういう意味では生まれてこの方全体であるという意織が亡くなったことなどないのです。ところが同時に、、、「私」「私の物語」に意織され、、イメージ化され映画が始まります。これが苦しみの元です。だから友人との旅行から戻ると「あー疲れた」が起こるのです。全体であり個人でありというギャップ疲れです。

籠る

多くの方が部屋に篭って一日中家にいるのが好きなんです、、、と言います。これは本音でしょう、、なぜならば外に出れば全体でありながら個人をやるという二重生活に突入するからです。このギャップが襲ってきます。これが苦しい、これが緊張感、これが違和感です。ここに気づくのです、、個人をやるとなぜ苦しくなるかに気づきます。すると個人をやらなくていい、、個人という存在は嘘なんだという決定的な気づきが起こるのです。

そうは言っても

そうは言っても会話ってどうするんですか??????圧倒的に全体として個人を演じるんです、、個人とは演技でありそこに自覚的になるのです。多くの方は個人を演技とはみなさず真実であると信じています。個人とは演技なんです、個人とは役です、、個人とは場当たり的な役回りです。この個人がどう思われようとそれは役ですからどうでもいい、、、この心境になれますと、、個人を実在とする「信念」が崩れます。すると全体と個人のギャップが崩れ、、どこに居ても苦しくない、、が起こります。

会話

催眠共同作業

会話とは共同催眠です、、、共同でお互いに催眠をかけます。私が居てあなたが居て会話は成立します。あなたは「私」の存在を絶対的なものにし「私」はあなたの存在を絶対的なものにするんです。共同で合同で催眠をかけあっているのです。これが悪いという意味ではなく、、何が起きているかに自覚的になるのです。

会話が終われば

意識に戻ります、、全体が全体として起こる現象を認識する意識に戻ります。空から色が起こる認識に戻るのです。機能的自己は起こります、、、何かに触れば、、触ったこの体を感じるでしょう、、ですが精神的自己に行かない、、、そこからこの体の中の「私」に入らないのです。入っても違和感緊張が起こるだけです。意識は「私」のものではないんです、、意識は全体のものです。この意識から全体を感じます、意織から空に戻るのです。

相手

相手の裏にはそれを作り出す全体があります、背景があります。。そこに意識を向けます。相手はそこから現象化し全てが起こっています。全体の表現を見守るのです。相手の顔はアリアリと見えますが、、、その顔は実はこちら側からしか存在しません。相手の背景からはこの顔は現象化していないのです。その神秘に触れます。すると会話から全体に入れます、会話を通じてIAMに入れます、会話を通じてありがままに入れます。