イメージのために犯罪を犯す

自分というイメージのために

この自分というイメージが侵された、侮辱された、、、これほど私というイメージを陥れるとは何事か!!!!と相手の体を殺めます、、、、、その体の中に「私というイメージを犯した誰か」が居るとやはりイメージして、、殺害するのです。これが犯罪です。この私というイメージを殺めようとした報復に、、あの体の中の「あいつというイメージ」を殺めよう、、です。

何をやっているのか????

この体は幻想であり、、ゆえにこの体の中の私も幻想、幻、イメージです。このイメージが損傷を受けたくても受けることは不可能です、、イメージですから。もしもイメージを受けることができるとすれば受けたというやはりイメージをする以外にない。この私がダメージを受けたというイメージが起こる以外に幻に変化は与えることができません。

それでも

イメージの殺し合い、、これもやはり根源の活動です、、、根源からこのような思考という現象が勝手に起こり、、、、そのような無残な事件が起こるのです。そこにはそれを操る悪魔は存在しません。それも勝手に起こるただの現象です、、、その現象を理解した時、、、自分というイメージのために他人を殺めようはなくなり、、平和がただ起こるのです。

役者

薬物

役者の薬物依存ニュースが後を断ちません。なぜでしょうか????役者とは何かになり切るのが得意な人々、、つまり役になり切ることができるということは「自分」にもなり切ることができるということです。自意識過剰、これってつまり自分になり切る意識が高いということです。本当は自分って居ないんです、、つまりなり切るのが得意か苦手なのかの違いんです。自我が強い、我が強いとは無いものになり切る強度のことです。

我が強い集団

あの集団って我が強いよね????要は無いモノになり切っている人種たちです。私って役であって実際には存在しないんです、にも関わらずそれになり切る力が強いのです。純粋です、真っ直ぐです、、だからなり切って苦しむのです、、、その苦しみを解消するために「ドラッグ」に手を出します。

自分になる前

自分になる前って何でしょうか?????何物でもない何かです。空即是色、色即是空があり、、全ての現象は無限の自己から現れでます、、、この中にこの体も幻想として現れこの幻想の中に「私」という幻想もやはり現れます。この私という幻を本当である、実物であるという思考の動きが起こり、、これを自我と呼びます。この動きが強ければ強いほどに「苦しみ」が起こるのです。

意識が奪われる

自我とはこの偏在する「意織」こそが「体の中の私だ」という思考の動きです。私が居る証拠?????「意織だよ!!」です。こうしてこの幻の「私」は意織という実在によって完全完璧保証されたのです。「意織」を私であるという思考の動きが強いと自我が強いと呼ばれます、この動きが弱いと自我が薄いとなります。我が強い弱いの境目はここなんです。

正念場

実は楽しい

修羅場、正念場、、、実は楽しいんです。。。なぜ???思考に逃げれないから。。。そうです、、思考に逃げる「苦しい」です。思考抜きで現実と向き合う「悟り」です。そうです楽しいに決まっているのです。実は思考に逃げる余裕があると、、思考にやはり逃げて、、「違和感」「苦しみ」が浮かびます。ですが今目の前に「ボクサー」が居る、、、思考で遊ぶ暇がない、、、楽しいんです。

自燃タイプ

自燃タイプはこのことを知っています、、あえて追い込む、、その方が思考に逃げずに楽しい。。。だから次々に目標を設定し、、現実に入る、、悟りに入る、、、です。。。。ですがここまで分かったならば対象に依存した「悟り」を卒業してもいい。。。もう「目標」に依存しなくていいのです。思考が犯人と理解できれば「あるがまま」に安らいでいい。

実は何もやっていない

自燃タイプは「自分でやっている」という錯覚からは抜けれていない、、だから正念場、修羅場にあえて身を置き、、、思考が湧く余裕を無くす。サーフィン、ロッククライミングみたいなことを人生をかけてやっているのです。ですがもうそれはやらなくていい。。。。。なぜならば本当は「私」は何もやっていない、、やらされている、勝手に起こっている、、、ということはつまり「私」も居ない同然、、、そして居ない。。。。

ドライ

ギスギス

大手町、ウォール街、、、大きなお金が動く場所ってなんかドライなイメージ、、厳しいルール、、一触即発、、そうです。トライアンドリターンの世界、、、大きなお金を得る個人はその分お大きなリスク、責任を背負い、、の世界です。個人には大きな大きなプレッシャーが。。。。の世界です。。惜しい、、惜しすぎる。。。そん全ての行動実はただの現象です、、勝手に起こっています。

これだけリスクを背負ったのだから

なぜ成功できたのか????「それは大きな大きなリスクを背負ったからです」聞きますよね???この手の話。ですが残念!!!!!あんた全然背負っていません。。。大きなリスクを勝手に背負わされたんです、、その行動全部勝手に起こったんです、、そして「俺は半端ないリスクを背負ったぞ!!!」という思考も勝手に起こりました。周囲の「あなたはギャンブラーだ!!」も勝手に起こったんです。

誰も話さず誰も聞かず

成功者の発言、、実は大元から勝手に起こりました。。そしてそれを聞いた質問者の「さすが!!」も勝手に大元から起こったんです。。成功者と呼ばれるその体は幻、質問者の体も幻、、発言もただの現象、認識も現象です。実は実は全部大元、根源が勝手にやっている劇です。

どのように見えても

エゴイスティックの象徴ウォール街で行われている人間喜劇は、、実は根源の劇です、、根源から起こる劇です。全てのストーリーははただの思考です、、思考のイメージ化です。。真実では全部勝手に起こり勝手に消え、、勝手に思考が起こりイメージ化されます。実は何も起きていないのです、生命の生命現象がただ起こっています。

都会で悟る

大昔は、、山に篭って悟る、、が主流でした。今はどこでも悟れます。。なぜならば、、全部分かってしまえば、、、全てが瞑想の対象です。ウォール街の鬼気迫る人間ドラマも、、、思考が作り出した劇です。それを分かってそこに立てば、、生命の生命現象がただ起こるだけ、、植物、動物、川、山と何も変わらないのです。

拒絶感

あって当然

お酒好きの人に「お酒って体に悪いんです!!!!」はアウトです。タバコ好きの人に「タバコって肺癌になりますよ!!!」はアウトです、、デザート好きの女性に「白砂糖はヤバイんですよ!!!」もアウト、、、なぜ?????これって言われても意味ないんです、、本人が好きで食べて飲んでいないんです。自我も全く同じ「自我ってないんです!!!!」はアウトなんです、、意味ないんです、、この話題。

社会が自我の必要性を作った

この社会は自我がなくては生きていけません。。。つまり自我は必要悪なんです、、、必要なんです、お酒、タバコと同じです。。。もう無しで生きるって不可能なんです。だから基本自我は必要です。。。ですがですが、、それでは至福には至れない。。。。

どうするか????

ということでどうしたらいいんでしょうか???社会的には必要、、、大丈夫です、大丈夫なんです、、、、真実に触れ続けて、、、触れ続けて、、自我を薄めていきます。。。自我の必要性をなくしていくんです。。真実が自我の必要性を無くしていきます。自我に依存しなくていい状況を作ってしまうんです。真実に委ねることで、、自我の必要性を奪っていくのです。そのようなことが可能なのか???可能です、なぜって今までも我々は真実にしっかりと生きていたのですから。ただそれを忘れていただけです。

脱依存症

依存を断つ

真実に触れていきますとあらゆる依存症が消えていきます。背徳感、義務感、責任感、あらゆる背負ってきた重りが消えていきますと、、、子供のように軽くなっていきます。子供のように軽くなっても、、、お酒、タバコ、ギャンブル、異性、買い物、砂糖、、、、求めないんです。ここに行かない、。、、なぜ????軽いからです。つまり軽さこそが依存という重りを下ろすのです。

全部やらされている

なぜ俺はこんなことをやってしまったんだ、、なぜ私はこんな簡単なことができないのか???なぜなぜ?????これが無くなります、、、真実を知ると、、、このプレイができません。。。全部が全部現象で、、この私の言動の全ても現象です、、つまりノーコントロール、、、起こるがまま、、なずがまま、、、責任の取りようがない。。。。つまりプレイができない。。。

こうなりますと

重くなれないんです、、結果がでない、、なぜ出来ない???なぜ達成できない????がないんです。。だってその「行為」は現象ですから、、、その現象をコントロールできる誰かはこの世には居ないのです。すると「頑張って」とか「何がなんでも」とか「無理をしてでも」とかが湧いてこなくなるんです、、こういった矛盾する思考が出てこなくなるんです、、、すると軽くなる、、依存症が消えていく。。。

最終依存

最終依存は「自我」「エゴ」です。それでも「私」は居て私の人生を歩む、、この概念が手放せない、、、でもこれも依存症です。。。つまり真実が染み込めば染み込むほどに、、、消えていきます、薄まります、、、要は自我エゴは消そうとするのではなく、、、真実に安らいだ結果として消えるのです。。。。だから真実に触れていく、、真実に照らして生活することが重要になります。

依存症

向き合ってはダメ

依存症、、お酒、タバコ、買い物、ギャンブル、、異性、、、なんでもいいのですがこの依存症、、、、向き合って止める!!!は無理です。なぜか????依存症とは、、、この世界に生きる「違和感」を一時的に忘れさせてくれる救命ボートだからです。。。この救命ボートを「ダメ!!!」とやれば溺れ死にます。。。分かっているんです皆、、これが体に悪い、経済的に悪い、、全部分かっています。。。その上で辞められない、、、、だからこれは救命ボートなんです。

そうじゃなく

そうなじゃなく、、依存症とは、、、真実に触れていくことで、、、、頼らなくて良くなるモノ、、と認識しましょう。真実に触れ、、義務感、背徳感、責任感、、、などが落ちていき、、、結果身軽になって辞めても大丈夫、、、になった時に終えるものなのです。つまり副産物です、、、この副産物の最終が自我です。

自我を辞める????

自我は最後の依存システムです、、、これは依存システムです。だからこれを辞めようとか不可能です。真実に触れて触れて触れまくって、、気づいて気づいて気づきまくって、、、、最後になくなる物です。。。そもそもはないのです、ですが「在る」という思考プログラムが誕生し、、今そこに依存するという動きが起こっています。これは依存ですから、、、言葉で「ない」と説明したところで無駄、無意味です。お酒は体に悪い!!!!と「のんべえ」に言って回っても無駄、無意味、、、同じです。

生命

この世界

この世界は生命の現れの場所です、、見てください、、見える世界は全部生命の現れです。ここに私が居るという思考が生命として現れ、、私は働かなくてはという思考が生命として現れたのです。全部生命です。思考は起こった瞬間にイメージ化される生命です。。そのイメージが半端ないので、、、イメージにイメージが起こるというイメージの連鎖が起こったのです。人間という生命はこのイメージの連鎖を起こし、、そのイメージが連鎖してイメージ化するという現象を起こします。街を歩けば皆ぼうっとしているのはイメージ化された現象を認識しているのです、生命が。。。これを外から見ると、、個人がぼうっとしているように写るのです、、ですがそれも生命です。

しっかりと頑張ってイメージ化

それでも何も問題はないのは言葉によるイメージ化もそれも素晴らしい生命現象だからです。生命現象に優劣はないのです。だから見かけ上の覚者(生命現象)も、、何も「問題は起こっていない」と言うのです。完璧な生命の現れに優劣はないのです。つまり「みんな悟ろうぜ!!!」という安易なスローガンは分かっていない、、となります。

このことが分かると

世界から悲壮感が消えます、世界から背徳感が消えます、世界から責任感が消えます、、、この結果として、、個人という概念が薄くなっていきます。。。個人というアイデアが消滅していきます。個人個人、、これが消えていくのです。あくまでこれは副産物です。先ずは悲壮感、背徳感、義務感、、、が消えていくんです、。。どこから????どこかから・・・その結果として自我という防衛システムが徐々に徐々に起こらなくなるのです。

副産物

自分が居ない

自分が居ないというのは副産物です、、あれ??自分って居ないじゃん、、、この感覚は求めるものではなく結果そこに至るものです。金メダルが欲しい欲しいと探し回ってもどこにもなく競技の結果ついてくるものです。つまりここを求めてはいけないのです、なぜか???求めるのが個人であり、この行為はストーリーに没入します。

あるがまま

そうではなく、、あるがままに浸るのが大切です。全ての現象を個人抜きで気づいていきます、、風が吹けば、それを個人という解釈抜きで感じ、、音が鳴れば個人という解釈抜きでそれを感じます。全然簡単なことです、、なぜって?????普段の生活で五感を使う際に個人なんてでてこないのです。そこに気づくのです、居ないんです、既に。それを個人が感じたという思考が後からついてきてそれがイメージ化されます。最初から居ないことに気づくのです。

加湿器

加湿器の煙に気づきます、、加湿器のビジュアルに気づいます、、加湿器の音に気づきます、、ここに個人は登場しますか????しませんね。。。。全く登場しないのです。。。目も耳も登場しないんです。。あとから、、この私がこの耳、目でそれに気づいた、、と付け加えます。。この付け加えが概念、思考、、の部分です。真実ではそのようなことは起こっていないのです、、そこに気づきます。

ないものをないと見抜く

私たちは学校であらゆる教科を学ぶことで、、真実をこの学問で分析する癖がつきました。ですがこの学問は真実は全く関係ないのです。学問とはこの起こる現象にフォーカスし、集中し、、どうなっているかを突き詰めていくことですが、、この行為は、、実は幻想をより幻想化していく、、幻をより幻化していくのです。蜃気楼のさらなる蜃気楼化を、、述べているだけなのです。

そうではなく

こに見える世界はどう考えても幻なんです。だとすれば、、この幻がどう動くかを観察するという視点に戻ります。右を見れば右に幻が登場します。左を見れば左に幻が登場します。幻の移り変わりに注力します。幻がただ移り変わる様に気を向けます。朝から晩まで、生まれて死ぬまで、、この幻が途絶えることは絶対にない、、このとんでもない創造主のポテンシャルに気づくのです。そしてこの創造主はこの「私」をも創造していることに気づきます。ではこの「私」と創造主は別人なのか????いやそもそも「私」は作られ物であって、、非創造物である。となると世界には創造主しか存在せず、、、この「意織」今あるこの「意織」は創造主のものではないか????となっていきます。

空気が読めない話

自我にとっては

自我にとって悟りとは全くもって空気が読めない話です。自分が居ない、、、ってこれまでずっとこの体と一緒にやってきたこの俺を居ないとするって冗談じゃない。。。何をふざけたこと言ってんだ!!です。この拒絶反応、この嫌悪感こそが、、、自我にとって真実のメッセージが受け入れ難い証拠なのです。この強烈な反応こそが真実に繋がる道標です。

人類最大の発明「自分」

生まれて七年間かけて、言葉を覚え、、「自我」を完成させていきます。七年間という膨大な時間をかけて言葉というシャワーを浴びせ自我を形成します。この自我が実は存在しないという脱催眠にはさらに膨大な時間を要します。真実から催眠をかけて自我を形成し、、ここから脱催眠を行い自我の嘘を見抜くのです。