副産物

自分が居ない

自分が居ないというのは副産物です、、あれ??自分って居ないじゃん、、、この感覚は求めるものではなく結果そこに至るものです。金メダルが欲しい欲しいと探し回ってもどこにもなく競技の結果ついてくるものです。つまりここを求めてはいけないのです、なぜか???求めるのが個人であり、この行為はストーリーに没入します。

あるがまま

そうではなく、、あるがままに浸るのが大切です。全ての現象を個人抜きで気づいていきます、、風が吹けば、それを個人という解釈抜きで感じ、、音が鳴れば個人という解釈抜きでそれを感じます。全然簡単なことです、、なぜって?????普段の生活で五感を使う際に個人なんてでてこないのです。そこに気づくのです、居ないんです、既に。それを個人が感じたという思考が後からついてきてそれがイメージ化されます。最初から居ないことに気づくのです。

加湿器

加湿器の煙に気づきます、、加湿器のビジュアルに気づいます、、加湿器の音に気づきます、、ここに個人は登場しますか????しませんね。。。。全く登場しないのです。。。目も耳も登場しないんです。。あとから、、この私がこの耳、目でそれに気づいた、、と付け加えます。。この付け加えが概念、思考、、の部分です。真実ではそのようなことは起こっていないのです、、そこに気づきます。

ないものをないと見抜く

私たちは学校であらゆる教科を学ぶことで、、真実をこの学問で分析する癖がつきました。ですがこの学問は真実は全く関係ないのです。学問とはこの起こる現象にフォーカスし、集中し、、どうなっているかを突き詰めていくことですが、、この行為は、、実は幻想をより幻想化していく、、幻をより幻化していくのです。蜃気楼のさらなる蜃気楼化を、、述べているだけなのです。

そうではなく

こに見える世界はどう考えても幻なんです。だとすれば、、この幻がどう動くかを観察するという視点に戻ります。右を見れば右に幻が登場します。左を見れば左に幻が登場します。幻の移り変わりに注力します。幻がただ移り変わる様に気を向けます。朝から晩まで、生まれて死ぬまで、、この幻が途絶えることは絶対にない、、このとんでもない創造主のポテンシャルに気づくのです。そしてこの創造主はこの「私」をも創造していることに気づきます。ではこの「私」と創造主は別人なのか????いやそもそも「私」は作られ物であって、、非創造物である。となると世界には創造主しか存在せず、、、この「意織」今あるこの「意織」は創造主のものではないか????となっていきます。