100%嘘と分かって自分をやる

この世界

この世界は「名前」で呼び合う世界です。。。ですから私だけ居ません、、とか不可能です。よって私を便宜上やる以外にない、、とはいえ、、本気でそれをやってしまうとまたストーリーに巻き込まれていくだけです。ということでこの世界を生きていくには100%嘘と分かって「自分」をやるのです。どう考えても自我はないのですがそれをそいと分かって自分をやります。

それで意味があるんですか????

あるんです、、大アリです。役者が役にのめり込み、、スッカリ入り込んでしまった状態、、それが自我です。役者が役であることを自覚して役中の事件事故によって感情を全く揺さぶられない状態、、これが悟りです。だから大いに自分をやってください嘘と見抜いて。何も問題が起きません、嘘と見抜けていれば。自分の存在が本当に居ると勘違いしてしまった役者は、、演技中に病気にもなります。ですが役を役と見抜いた役者は病気にはなりません。

瞑想

100%嘘と見抜いて自分をやる行動は瞑想です、観察です、、、自分をやってはいますが、、同時に全体であるという自覚があります。全体であることは間違いのです、、話しかけてくる同僚も全体の一部であり、、そことの会話は嘘の自分と嘘の自我(同僚)のキャッチボールです。嘘のキャッチボールは苦しくないですか????嘘と見抜くと苦しくないんです。この意織、気づきは常に全体から起こっており、、そこにフォーカスが合うとき、、苦しみが消えます。

気づいてみれば

自作自演

気づいてみれば、、、この世界の苦労って完全に自作自演だったんです。両親から勿論あらゆるプレッシャーをかけられ学校でもプレッシャーをかけられTVを観ればプレッシャーはかけられますが、、その全てはこの現象であって完全自動システムによって起こっていました。その起こった現象に対しこの体は完全自動反応を起こしこの「自分」を起こし、、反応し続けたのです。その中に独立した「自我」を持った存在は皆無であり、、誰も加害者ではなく被害者でもないというオチです。

苦悩

世の中には恨むべき人がいて、、あの時の悪友、あの時の先生、あの時の上司、、、と列に並んでいきますが、、この中の一人たりとも「自我」が存在しないのです。独立した自我はこの世界には存在できず、ゆえに全ては自動反応で現象化し続けただけです。それが分かったときに本当の意味での赦しが起こるのです。加害者も被害者も居ないという真の許し赦しが起こります。

分かっていた

周囲は反応を起こしているだけだ、、、これはなんとなく分かっていたことでした。そこには自由意志という崇高なものなどなく、、ただの反応だけではないか????これは誰しも気づいています。だから週刊誌やTV番組は最初から売上部数、視聴率を読めるのです、つまりこれはただの反応なのです。つまりこちらから起こる自動反応に外部は当たり前の自動反応を起こし、それにこの体が自動反応を起こす、これを毎分やってきたのです。

不満にならない

不満とは

不満というのは全て主語に「自分」があって「自分」にとってこの環境の良否が決まります。この誕生日プレゼントは「自分」に相応しいか否か。。。このお店は自分にとって満足か否か、、です。。。自分という存在なしに「満足」「不満足」は起きえないのです。だから「自分」の嘘を暴いたら、、不満って起きないのです。この体がこの自分が幻であることに気づいたら、、、不満は起きません。

せっかくの休み

大事な休みの日なのに、、この「私」がどこにも行けないなんてかわいそう、、、、これでしょう、、本音は。客観的に見てこの「私」が休みにどこにも行けないなんて可愛そうに決まっている、、、、です。ここからストレス、イライラ、苛立ち、、が起こるんです。注意深く注意深く観察すれば、、、今にある時、、部屋にいても外にいても、、満足感は何も変わりません。。。何も変わらない満足感、平安があるから、、、外に行こう、、が起こります。

大借金

でもそれでも大借金なんて抱えたら、、不満になりますよね?????その瞬間は苛立つでしょう、、、ですが、、大借金を返していく上で、、、このあるがままが犯されることはないのです、、、、あるがままとは、、、全現象が全現象のままに現れ認識する様です。。。大借金を返すときにもこの自分は出場できないのです。この体も自分も幻、幻想、無としては現れますが、、実在は100%しないんです、、、100%実在しないにも関わらず不満を持つ方が難しい、、居るというお見込みを持てない今、、どうしたら不満を持つ自分を作れるのか???ということです。

犯人が居ない

なぜやった????

犯人が居ないんです、、、例えば私がこのPCを開く瞬間、、、このタイミングで「私」が開くぞ!!!という掛け声など全くなしに起こります。そこに「私」など一切でてこない、、そしてこのPCを閉じる瞬間もそう、、全く私が出てこない。。。。あれ???お昼の時間だっけ????に自分は出てこない。。そういえばあいつ最近元気かな????この思考に「私など」一切関与していない。。。。全部が全部こうなっています。

当たり前

人間業界では「私」ってやつは絶対に存在するとされていますが、、、日常生活にそいつは全くでてこない。。。行動の総括として、、「私」が出てくるだけで、、、「私」は全活動、全思考感情に関与していないのです。にも関わらず人間業界では人の批判判断がとにかく多い、、どういうこっちゃです。

存在しえない

この体は100%幻想です、、幻想とは幻、、幻とは100%存在せず、、見える感じるだけのものです。この100%幻想の体に100%幻想の自分が居るのです。つまり居ないのです100%。だからもう自分が居るというゲーム、夢、映画に付き合わなくて大丈夫です。100%居ないのですから。人から評価を受けたり批判を受けても、、、、受ける自分が100%居ないのです。だから適当に合わせてください、、、この人は100%存在しない「自分」を居ると信じて、、話しかけているだけなのだと。

自尊心

自尊心、、自らを尊ぶ心、、、残念ながらこの自らというのは実在せず、、よって自らを尊ぶ心というのは、、存在しません。自らが確実に実在するならば、、、これは起こり得るのですが、、不可能です。よって自信や自尊心というのは偽りです。フェイクです。ですが同時に自信、自尊心に持ち溢れているように見える人がいるのは事実です。これはあるがままの状態に自我という思考がくっついた人間という幻です。

あるがまま

あるがまま、、、この状態に入れる時、、、本当の安らぎがあります、、、いつでもここに帰れる時、、不安感が飛びます、、、この安心感を所有する「私」が居るという思考が起こると、、、、幻想上、、、自信に満ち溢れた人間が現れるのです。成果が人に自信を与えるということはありません、なぜならば成果が与える安心は一瞬のことであり、、一瞬で消えるからです。

そこに帰り、、持ち帰りもしない

無我に入る時、、そこには安堵、平和、愛があります。。。そしてそれを持ち帰る動きが起こりますが、、それを持ち帰る人が居ないことを悟ります。この体が無我に入って成果を出しても、、この体は幻想であり、、この体の中の自分もまた幻想、幻、、無なのです。だから我々は生まれてこのかたひたすら無我であり、、ただ自分が居るという思考が湧いていただけなのです。

酸素濃度

自我全開は酸素が薄い

私が居て私が幸福になる、、そのためにはこの問題を解決しこの目標を達成し、、こうしてああして、、、、酸素濃度がどんどん薄くなっていきます。おかしい、これだけ活躍し、これだけ良い結果を出し、これだけこれだけ、、やっても苦しい。。。なぜ????酸素濃度が低いのです。自我の強度は、、酸素濃度の低下です。

無我全開

無我全開、、開放性は、、まさに酸素の解放です。この体は幻想でよってこの体の中に自分なんて居るわけがない、、この気づきは、徐々に徐々に酸素濃度を上げていきます。酸素をいっぱい吸えますから、、、とにかく気持ちが良い、、とにかく、、楽、、です。この時何かを成し遂げなきゃ、、、何者にかにならなくては、、、はないんです。だって今気持ちが良いのだから。

解放

解放とは酸素濃度100%です。。。目覚めとは酸素濃度100%です。自分が強烈に居るという思考が強い時、、酸素濃度は極端に下がり、、、苦しい、、辛い、、、動けない、、が起こります。なぜ多くの方が彷徨うのか????それはここは酸素が低く、、どこかに酸素があると信じているからです。そしてそれは確かにあります、、ですがそのどこかはどこかではなく今ここです。自分という存在の嘘を見抜くと、、酸素濃度100%になります。

無我と自我

カリスマ

カリスマと呼ばれるような人は、、何かに夢中になる時、対象がある時に無我夢中になれます。。自分という雑念を外に起き、、完全にあるがままに入れるのです。そして超人的な活躍ができます。ところがこの成果を、、「自分」がやったという思考が起こります、、、自我が無我の活躍を横取りします。評価されるべき「自分」が誕生します。

本当は

本当は、、その成果を出した幻想のこの体はあっても、、その中に存在するのも幻の自分です。幻、幻想というのは、、絶対に存在しないからそうなのです。つまりこれはないのです。成果を出した存在は「無」「幻」です。つまり無が、、、無我になって成果を出したのです。。その活躍に対し、、、自分がいるという思考が起こり、この自分はもっと評価されるべき、、という思考が続きます。

自覚する

無我の活躍を奪う自我という存在はないわけで、、ただ無の無我による活躍に、、自分がやったという思考が起こったのです。この思考にさらに思考が重なって、、、無限ループに入りました。これがマイストーリーです。そこには犯人は居ないのです。。。ただそのような思考が起こります、、その起こりを見抜くのです。すると無による無我の活躍を横取りする思考が起こらなくなります。

平凡が非凡に

この私に向かって起こってなかった

驚くべきことにこの世界は「私」に向ってなど全く起こっていなかったのです。私が居て私以外が居るって真剣に真剣に信じていたんです。ですが真実では、、この体も幻想、この私も幻想だったんです。幻想とはあるように見えて感じるが絶対にない存在です。

風を感じる

体があるから風を感じるのだ!!!!違います、、風を感じるから体があると思い込んでいるのです、、、足が大地を踏み込みます、、この感覚こそが足があるという思い込みを作り、大地の存在を思い込ませるのです。太陽の光が眩しい、、眩しいと感じるから目があると思い込み、太陽の存在を思い込みます。感覚こそがこの幻想にリアリティを与えているのです。ですが本当は幻想の起こりが気づきを作っています。

何もなかった

何もないのです、、この体も幻想であり、、この環境の全ても幻想です。。。この感覚があるから、、、幻想にリアリティを与えていただけで、、、幻想の出現こそが「気づき」を起こしていたのです。この気づきがあるから幻想は幻想ではなくリアルなのだという勘違いが起こっていました。ですが実際には幻想、幻の出現自体が「気づき」を起こしたのです。つまり我々は幻想そのものであり「気づき」であり、、気づきを起こす「空」です。

神であり私である????

不可能

西田敏行であり釣りバカ日誌の浜ちゃんである、、、「西田敏行を出しながら浜ちゃんをもっと出してください!!!」この要望が西田敏行に出されれば、、、「無理!!!」と答えるでしょう。監督、それは不可能です!!!となります。つまり一人が二役を同時に行うのは無理なんです。我々は本質は神です、、この神が人間になりきっているのが「自我」です、、自我を100%やりながら神を100%やるって不可能です。神であることを思い出した瞬間自我は薄まるのです。自我100%ならば神は0%です。

神である自覚

悟りとは神である自覚を100%に持っていくことで、、自我がゴソット抜けることです。西田敏行であることを100%自覚した時に浜田勘吉がゴソット抜けます。だからやることは簡単、、神であること、空であること、、事実であることを思い出すだけです。男であることを思い出しながら女を100%やるって不可能です。

真実に触れ続ける

真実は逃げも隠れもしません、、ですから日々日常の中でこれに触れていきます。もともとそこにあったわけです、、そこに自覚的に触れていくのです。真実に自覚的である時、自我に自覚的であることが難しくなっていきます。同時進行はできないからです。ですからいかに触れるかです、真実に。そんなことやって生きていけれるのですか???全く大丈夫です、真実に触れているつもりの時は自我を手放すは絶対に起きないので。真実にガッツリ触れて掴んだ時のみ自我へのしがみつきが少し減ります。

ベッド

寝ている

ベッドに寝ている、、、その時、、、ベッドを感じます、、だからこの体は「有る」と想像します。毛布を感じます、、だからこの体が「有る」と感じます。外の鳥の声を感じます、、だから耳が「有る」と想像します。陽の光を感じます、、だから目が「有る」と想像します。お腹が空きます、だから内臓が「有る」と想像します。分かりました????全部我々はこの感覚から逆算して「体が有る」と想像しているのです。本当は絶対にないのですが。

友人

友人に会えば「お早う!!!」と声をかけてくる、、、だからこの体は「有る」と感じます。。「久しぶり!!」と反応します、、だからこの口が存在し頭脳があると想像します。「昨日のドラマ観た????」友人の声に反応することでこの「耳」「脳」が有ると想像します。「あなたって本当に面白いね!!!」この友人の言葉で「私」が「有る」と想像します。この現象の全てが「この体」「この私」の存在が「有る」ことを想像させます。。本当は絶対にないのですが。

ない

つまり、、、この世界にはこの体の内と外という二元は100%存在しません。二元があるかのように現象が起こり続けるだけです。そうなると、、、この体ではなく、、、この私は、、この現象を作り出す全てであり、、現象の全てであり、、現象の「気づき」の全てです。空即是色、色即是空、、これだけがあるんです。。。