空(不変の自己)の外

空には外がない

空には外がありません。不変の自己である「空」これにはこの外がないんです。もしも外があるならば、、空以外が誕生してしまいますが、、空以外は存在しないのです。ですから空の説明は、、本来不可能なのです。ですから説明が不可能な全存在、、と呼ぶしかありません。そうです、、真実とは説明不可能なのです、、よってこれは触れる以外にないのです。

鳥とは

鳥とは羽が生えていて、空を跳び、、、羽毛に満たされている。これは鳥を外から描写したものです。ですが空(不変の自己)には外からの描写がないので、、、これを理解するには、、、実感以外にありません。我々はこの空の投影を認識することで空を実感していく以外に方法はないのです。空の投影とは何か???それがいまここです、いまここに広がる景気こそが空の投影です。

景色が無限に変わる

空が無限であることが理解できるのは、、この景色は一瞬たりとも同じものはなく、、体験も何もかも同じものがないということです。この人間という現象も全部が異なり、、人間から現れる固定観念によって体験が全く異なります。どのような固定観念も起き得るわけでそれに準じて経験は変わっていきます。空とは無限でありよってこの投影は無限に広がりここでの体験も無限です。

悟りとは結果を捨てることではない

結果になること

悟りとはこの個人が結果を諦めて捨てることではありません。個人を含む結果そのものになってしまうことです。この個人が結果を求めるストーリーそのものが本当の自分だと気づくことです。今見かけ上の私がキャリアを求めているならば、、そのストーリーそのものが私であると気づくことです。ストーリーは思考であり、、このストーリーを築き上げる思考が私であり、、その内容もしかり、、ストーリーの全現象が本当の私です。そしてそのストーリーの認識も、、その認識を起こす空(不変の自己)も私です。

つまり

この見かけ上の「私」は本当の私の一部でありそのキャリアもキャリアを構成する全てが私です。会社の同僚も私だし、、出会う全てが私です。。つまり瞬間瞬間の現れの全てが私なのです。ですからこの中で求める結果は私によって作られるのです。このストーリー上の私が結果を捨てようと執着しようと、、そのどちらも私です。だからこのストーリー上の私の苦悩と、、悟りとは全く関係がないのです。

もしもあるならば

もしもあるならば、、このストーリー上で私がもう無理と倒れ込み、諦め、、絶望の淵に立った時、、前に進もうという動きが止まり、、、至福(私)への気づきが起こるかもしれません。見かけ上の私はこのストーリーの中で、、霊的進化、人格向上、あらゆる努力を重ねてきたかもしれませんが、、その全てが私なのです。

決め事

できない

今年一年間はこれをやり続けよう、、、、今月は絶対にこれをやり切る、、毎朝必ずこれをやる習慣をつけよう、、。。。真実に目覚めますと、、これ辞めたほうが良いことがわかります。なぜか????思考は毎日毎日勝手に湧いてくることが分かるからです。しかも自分など存在せずに。自分など一切存在せず、、勝手に湧いてくるのが思考です。だから自分はこのルーティンを守ろう!!!って構造的に不可能なんです。

それでもできる人はいますよ

居るんですが、、それはたまたまそれが起こっているんです。現象としてそのようなことが起こっているんです。それを見て私も必ずそれをやるんだ!!!は違うんです。その私が居ないし自由意志はないし、、です。だから騙されないでください、、ルーティンマスターを見て、、私も!!!は根本的に不可能なんです。それ不幸への入り口です。

スローガン

だから何かを習慣化したい時は、、できたらいいよね!!ぐらいのノリに抑えましょう。HAVE TO 禁止です。楽しいスローガンだったら何個あっても良いのです。イチロー選手みたいにルーティンの鬼に!!ではないんです、、たまたま続くルーティンがそれだったのノリです。そしてルーティンが続くから偉い、という発想も捨ててOK…なぜならば、、それをコントロールできる自我などないからです。

スランプ

勘違い

人間業界は上手くいっている時と上手くいっていない時を分け、、、上手く行っていない時期をスランプと表現します。ですが真実の観点から話せば、、スランプは存在しません。。先ず第一にスランプになる自分が存在しないのです。この体の中に自分が存在しないのにどうやってスランプになるのでしょうか???人間はこの体の中に自己が存在すると決めているので、、スランプ、乗っているなどと評すのです。

この体に自己がないならば

この体に自己がないならばスランプやフィーバーは存在しません、、ただその体が目標達成しているかいないか程度のものでしょう。。スランプの背景には体の中の自我は右往左往して、、もがく姿が必ずイメージされますが、、居ないのです、、その存在が笑。。。。。ということで全部神に丸投げです、、、どうなるかを投げるのです。

投げ続けてきた

実は実は今までも神に全部丸投げでやってきたのです。。。。自分がやってきたという思考はガンガン起こっていましたが、、残念ながらその自分が居ない以上、、、神に丸投げしか方法がないのです。つまり勘違いが起こっていただけ。。。だからこれからも神に丸投げです。スランプ、絶好調は勝手に周囲が決めること、、そこに惑わされていけません。全員が全員神に丸投げで生きているのですから、、何も不安に思う必要がないのです。

凄い答えを聞くことで解放が訪れるという夢

私は最終回答を求める

ストーリー上の私は、、いつかとんでもない答えをもらえると信じて探求の旅を続けます。あのサットサン、あの書籍、、あのメッセージ、、どこかに稲妻のようにこの私を粉々にしてくれるメッセージが隠れているはずだと。残念ながらそのようなメッセージはないのです、、なぜならば打ち砕く「私」が元々存在していないからです。つまりこの私ストーリーを終わらせようにも、、私が存在していないのです。

稲妻が落ちる「私」が居ない

私はどこに居るのでしょうか???私は想像上のイメージです、、イメージを打ち砕くこちは稲妻には不可能です。私をイメージと見抜き、、、私はイメージだから、、そもそも存在すらしていなかった、、私というイメージを照射するのは誰だ????ここに気づく必要があるのです。私というイメージを作り出す存在こそが本当の自分です。

彷徨い続けてきた「自分」を本当の自分が作り出していたというオチ

私はイメージ、幻、としては100%存在してきたのです、、ですがこれは幻であって、、実在ではないんです。だからこれを消そうにも消せない、、、むしろこれを作り出してきたのは誰だ????という根源の質問が浮かびます。これを浮かばせてきた存在それが本当の私(不変の自己)です。自分で私を作り出し、浮かび上がったイメージに沿った思考が次々に浮かんでは消えていたのです。この事実、この真実こそがイメージとしての私の終焉です。

ここじゃない

ここじゃない気がする

アルバイト、就職、サークル、、、ここじゃない気がするんです、、何かが絶対に違う気がします。ここに居ると思考が暴れまくってしまって苦しいんです。変えちゃってください、、転職、バイトチェンジ、やればいいんです。ですがどこに行っても「ここじゃない」が出るならば、、、、思考の暴れ癖があるかもしれません、、どこかに問題点を見つけ出して暴れ狂う思考があるかもしれません。そこを見抜きます、、また思考が暴れまくって、、「ここじゃない」が始まるかもよ、、です。

ここじゃないに従う時期

何か違う、何かが違う、、、こうやって人間は、、手を替え品を替えやっていきます。そういう時期は絶対にあると思います、、もしもそれが起こるならそれは必然的にそう起こっています。ですがあるとき、、俺いつまでこれをやってんだ????が起こるかもしれない。。。そうです。。。青い鳥症候群です。そのような時は真実に目覚めるチャンスです。全て空(不変の自己)から現れた現象(色)です。この今ある現象の全ては空(不変の自己)から現れでた現象(幻)です。ここに気づきます。

半端ない安堵感

もう品定めしなくていいんです、、もう粗探ししなくていいのです、、もう完全フィットを求めなくていいんです。だって全部本当の自分(空)から現れでた現象なのですから、、その一つが幻としてのこの体です。そしてこの体は幻ですからこの自分も完全幻、、つまり居ないんです。居るという思考が起こるだけです。

電車で足を踏まれる

視界の中

電車で赤の他人に足を踏まれてしまって本当に腹立たしいんです。気持ちはわかります、その通りです。ですが真実をお伝えすれば、、、その赤の他人と、、この体との境界線は実はありません。これは全部幻想幻ですからそこには境界線はないのです。境界線があると「思っている」のは思考です。真実ではこの体もあの体も同じ幻です。だから我慢しろという意味ではなく、、真実を知ると、、もうその時点で安堵なんです。安堵の中で足を踏まれるという現象が起きたのです。

子供に足を踏まれる

小学生に足を踏まれて大人は怒り狂うでしょうか????この違いはなんですか????相手の年齢と怒りの強度には何が関係しますか????つまり人間とは相手の大人度によって怒っていいかいけないかを決めているのです。だったら真実に帰りましょう、、、相手のその行動をその相手は一ミリたりともコントロールできません、、いくら意図的に見えても、、その行為そのものをコントロールできる「自己」が存在しないのです。

怒れない

真実を知ると怒れないのです。だってそこには自己が100%ないのですから、、小さい小さい子供と同じで、、、コントロール能力がないのです。。。。いやいや大人にはあるでしょ!!!!が残念ながら嘘だったんです。真実では自我はなく、、、自我があると信じる動きだけがあるのです。コントロールできていないにも関わらず、、あると信じる動きがあるのです。

事実をそのままに受け入れれば

本当はもっと

本当はもう一割給料が良ければ、、本当はもう三割売上が良ければ、、本当はもう、、本当は、、、、これ真実を知らない人の考え方です。真実では、、、全部が全部決まっています、、完全完璧な流れでそうなっています。だから本当は、、、絶対に起きえないのです。。真実を理解しますと、、、今ある現実をそう受け入れると、、真の安堵感、真の安らぎが起こります。そこに個人が介入できないし、、その個人すら居ないのです。

つまらない

そんな欲も目標もない考え方でいいんですか???そんな虚無主義で人生やっていけますか????これは考え方とか主義ではないんです。そうなっているという真実の話です。ですから概念や主義とは全く異なるものです。この真実を受け入れたらどうなるか?????それは今まで偽りの「私」が憧れ求めれきた「真の平和」が訪れるのです。これの何が問題なのでしょうか???

これまで

これまで我々は目標、課題、修正、、、次々次々と人参をぶら下げられ、、生きてきました。この人参をゲットしたら次はこの人参、次次々、、最後は悟りという人参、、、、、もうやめましょう。もういいでしょう。悟りとは、、、この現象の全てが完全完璧であり、、この体を通じた思考、感情、行動の全てが完全完璧であるという気づきです。全く完全完璧に見えなくても、、そう見えているだけです。そう見ているのはこの夢の登場人物「私」にとってです。

焦り

焦りとは????

焦りというのはそこに自由意志があって、、自由意志の使い方によってはとんでもない成果を得れると勘違いしている思考から生まれます。ですがこれ嘘です。自由意志はないし、それを使える個人も嘘です。ありません、そのようなものは。。すると焦りが消えます、、だって焦ろうと焦らまいが、、、結果は神任せだからです。いやいや焦るのだって自由意志ですよね???違います、自由意志があるいう思考が勝手に湧いたから焦るが湧いたのです。

じゃあ

我々は全く頑張らなくていいんですね??????残念、、それを決める自分が居ないんです、頑張るか頑張らないかをそもそも決めることができないのです。だからそれすらも神任せです。頑張るが湧くかもしれないし湧かないかもしれない。。。となります。そんな勝手に決まった人生って何か意味があるんですか????人生がないんです、、自分が居ないのですから。。。ただの現象です。そしてそのことが分かるととんでもない安堵が湧いてきます、平和が湧いてきます、愛が湧いてきます。

全部嘘だった

これまでの教育って全部嘘だったんです。努力、自己責任、反省、目標達成、後悔、自己義務、、、全部嘘です。だって自分すら居なく、、、自由意志もないって、、、全部上記の行為は無駄ですよ!!!!そうです、無駄なんです、、、ノンデュアリティ のメッセージが世界から全く相手にされないのはそうだからです。これまでの努力を全て無駄にします。。。ですがその瞬間にとんでもない安堵が生まれます。

思考は現実逃避

会社の中の人間関係

あの人はこうでああで、あの人の性格はこうでああで会社は今後こうなってしまうのでは???会社の後継者争いは今後もめるのでは??????そんなこと気にしていないで起こる現象を粛々と認識してください、、こう説明すれば「現実逃避だ!!!」となります。ですが逆です、逆、、、、現実に目を向けないで、、思考の中をぐるぐる巡っているだけです。思考中毒です、、現実中毒ではなく思考中毒です。現実逃避とは思考中毒のことです。

色々考えるよりも

思考の中でこの「私」を中心にしたストーリーをかき回し、ぐるぐるぐるぐる、、そしてやっぱり止めようか、やろうか、、と悩み続ける。。。この期間ひたすらに苦しい。。。苦しいんです。なぜ????「私」中毒です、、、本当は居ない存在「私」中毒です。本当は居る存在「全体」とこのギャップが苦しいのです。一つ一つの現象を「私」への影響と受け止め幻想をフル稼働する、、これが苦しいわけです。ですがこれは幻想です、、幻想中毒です。

あるがまま

あるがままをこう変えてああ変えて、、、無理です、、変えれる自分が居ないのですから。つまりあるがままをあるがままに受け入れると、、、、最高に安らぎます、、全体としてあるがままをあるがままに受け入れるのです。「意織」は常にその時に発生します。意識とは空から色が現れた瞬間起こるのです、、、つまり私?の意識は完全にこれを受け入れているのです。受け入れていないのは「私」だけです。