他己責任から自己責任、自己責任から無責任

成長の過程

成功者のほとんどは自己責任です。他人のせいばかりにする人生では俺の人性は終わる、そこに気づくことで「自己責任」にシフトします。学校のせい、親のせいにしていては「受験では勝てない」ここで気づくか「会社では通用しない」ここで気づくか、、どこかで気づいていきます。自己責任ってつまり全部は自分自身にかかっていて周囲は全く関係がないということ「つまり周囲にはこちらをコントロールできる自我がない」と悟った、覚った、覚悟したのです。

正しい

その通りなんです、、周囲の活動は実は自動反射であり、、こちら『内部環境』の変化でどうにでも反応する。。だから周囲の顔色を伺っていきるのではなくただ「内部環境」「自分」を変えていけばいい、、というのが自己責任です。だから成功者は飄々としている、、周囲の反応に過敏でいる必要がないのです。周囲の反応は「株価」のように勝手に変わっていくという悟りです。

本当の悟り

本当の悟りはさらにこれを超えていきます。まさかの「自己責任すらない」です。まさかのこちらの行動も「周囲に反応しているだけ」という悟り、覚り、覚悟です。周囲もこちらに反応するだけだし、、自分も実は周囲に反応しているだけ、、という次の階段を登ります。え?????それで何か変わるんですか????大いに大いに変わりますよ、、、だって他己責任から自己責任に変えた時点で「大いに変わった」でしょ。飄々と結果を出せるようになりました。気分が「飄々」になったんです。

半端なく「飄々」

他己責任がない時点で「飄々」「気楽」になったんです。周囲には一切期待せずにこちらの「結果」に周囲は反応するだけだ!!!と悟った時点で相当な変化が起こりました。そして今回はこの「自分」すらただの反応と悟るのです。個人が作った結果に対して「反応」であることを理解します。「飄々」が「半端ない飄々」に変わります。「お気楽」が「半端ないお気楽」に変わります。

自己責任を手放して何を頑張ればいいのか?????

「こいつら反応しているだけだ!!!!」これが分かった時、、過剰な人間関係の努力が消えます。「私も周囲に反応しているだけだ」この理解が起こった時「自分を何者かにしてやろう」という過剰な努力が消えます。「自分」に対する過剰な期待過剰な不安過剰な何か、、、が消えます。それでいいのです、真実を知ってしまって変わった行動とは無駄な行動なのです。

大きく見せる????

他人を大きく気にする必要は全くなく、、さらに自分を大きく気にする必要もなくなった、、なぜならば誰も自由意志なく動いているから。。。。となります。ただの反応だけが起こり続けていたのです。周囲をこれただの反応だろ!!!と見抜くと一気に人生は楽になり、、、自分もこれただの反応だろ!!!と見抜くと一気に人生は楽になります。そして自分も実は何もしてないのならば「人生」など実はないという次の展開に進みます。

漫画

なぜ?????

我々は漫画が好きです、漫画を読んだことがない、という人は居ないでしょう。漫画ってファンタジーです、漫画って台本があるストーリーです、作り物です。なぜ?????そんな作り物に我々はワクワクドキドキできるのでしょうか?????ここ最重要ポイントです。ここ多分一番重要です。「思考の内容が正しかろうと正しくなかろうとそのままに認識される」このシステムが使われているのです。「私は地球最強の男だ」とアニメの中のキャラが語れば、、、そのままに認識されます。。。。誰が????誰ではありません、、「言葉はそのままに認識されるのです」これが使われています。音を繋いだ言葉は意味を持ち、その意味はそのままに認識されます、その内容が間違っていようとも。。。

「俺は宇宙一の格闘家だ」

漫画の中でサイヤ人が呟けば「その意味のままに認識されます」これが使われてアニメは成り立つのです。つまりアニメとは「言葉による認識」を利用したエンタメであるということです。ではこの現実はどうか?????全く同じです、この人間社会も全く同じなのです。言葉で構成された文章はそのままに「認識」されます。「その内容が間違っていようと」真実ではない内容の思考が起ころうと、そのままに認識されます。

間違った認識が起こり続けてきた

両親からの話しかけ、学校、友人、TV、、、ありとあらゆるメッセージによって我々は誤った認識が起こり続けてきました。どのような内容の言葉ですら「認識」が起こります。ですから、、「認識」を真実に戻す以外に苦しみから解放される方法はありません。お多くの方は「間違った認識」をベースに生きていますから普通に生きればそれに気づくことなく終わります。

真実の理解

思考が減る

本当は自由意志はない、いまここしか何も起こっていない、、、この真実の理解が進みますと「思考が減ります」。湧いてこなくなるのです。「例えば街で絡まれた」その時「怒りの感情が湧きます」そして多くの方はその後一週間一ヶ月とそのことでイライラします。ですが真実を知ってしまうとその思考が無駄であるというもう一つの気づきが起こります。「今ここ以外には誰もいない」そうです、もう絡んできた相手はこの世界に今存在していないのです。さらに「自由意思」がない、、そうです、、絡んできた相手の中には「自由意思」を持った自我が存在していないのです。

あのやろう!!!!

「あのやろう!!!!!、、、、、そうだ今居ないんだ、、」「なんであんな失礼なことを!!!!、、、、そうだ自由意志がないんだ」、、、、湧いてこなくなる、、、思考の嵐が。。。。なんか変な感じ。。。。徐々に徐々に思考の嵐が収まってきます。真実を知ってしまうと「思考の強制解除」が起こるのです。思考が湧いてこない、、が起こります。

実践

全ては一つ、神、オールザットワン、全ては幻、、理解には順番があります、、理解には階段があります。この理解の階段に準じて、、「思考解除」が起こっていきます。だから思考を落とす!!落とす!!!は意味がない。。これは勝手に勝手に起こるのです。プロレス中毒の人っています、、プロレスの勝敗が離れない、、ついつい考えてしまう。。。。そのような時は「プロレスの舞台裏」を見せれば終わり「台本、打ち合わせ、練習内容、プロレス興行後の打ち上げ」これを見た後に「次の試合の興味が湧いてこない」です。舞台裏を知ってしまえば、、湧きません。

真実

真実とはこの表舞台の舞台裏をありのままに理解することです。舞台裏を完全に理解した時「表舞台」に夢中になることも深刻になることもありません。それは寂しいことでしょうか????もしかしたら寂しいことでもあるかもしれません。ですが今まで探し求めていた「平和、安堵、愛」がそこにあります。本当はこれを求めていたんだ、、という感動は100%あります。

思考を落とす

思考の内容

事実だけを説明すれば「思考の内容」が苦しみを生み出しているだけです。「内容を含む思考」が湧き出すことで「苦しみ」が起こるだけ。たったこれだけのことが起こりるづけています。それだけです、だから「この間違った内容の思考」が起こらなければそれで終わりです。この際にこの「内容思考」をいじって操作してこれを止めようと多くの方は考えます。ですがこれは失敗します。この「間違った内容の思考」は「間違った認識」をベースに起こるのですから「間違った認識」を「正しい認識」に変えるこれだけでいいのです。

内容思考

内容思考は勝手に起こるモノでありここを操作する試みは失敗します。そうではなく「思考内容」こそは正しい認識の「リトマス試験紙」です。今どんな思考内容が起こるかで確認していくのです。だから思考を落とそう落とそうという考えは無駄です。むしろどのような思考が湧くかで理解の深度を確認するのです。本当に真実の理解が進んでいきますと「間違った理解」をベースにした思考が減っていきます。確実に減っていきます。

思考内容

問題なのは

問題なのは結局のところ思考の内容です。ここが問題なのです、、この内容が「真実ではない」から「違和感」が生み出され我々はこの違和感を削除しようと一生を費やします。本当は本当は「思考の内容が全部間違っている」そこに気づくまで我々が走り続け頑張り続け妬み続け怒り続け生きていきます。この姿を見て釈迦は「人生とは苦」であると断言したんです。

諸行無常

この世界はただ変化が起こるのみ、、それしかない、、これを釈迦は悟り発見しました。この内容を我々は勝手な判断でその変化を観察する「私」という存在が居ることと誤解しました。この本当の意味は「変化」のみであって観察者「私」など居ないのです。ここで大きく変わってしまうのです。

私が居るという前提の思考内容

大金持ちになろうと大成功者になろうと「私がそうなった」という概念を手放さない限りこの世界から苦しみが消えることはありません。真実を知れば「全認識を起こす私」など存在するわけがなく、、よって私は居ないと断言できます。ですから重要なこと、私の有る無しに関わっている暇があるならば真実に触れることです。真実の理解が「私の有る無し」という概念自体を落とします。

実は反応しているだけでは????

学生時代

実は実は周囲の仲間はこっちの何かに反応しているだけなのでは??????私は高校時代にこの気づきをえました。運動するのが趣味だったので体を常に常に鍛えていたのですが、、こちらの体調に応じて周囲の反応は分かりやすいぐらいに変化します。こちらの体調が優れない時、、周囲の反応も優れず、、こちらの体調が良い時周囲の反応も良い、、、ただそれだけではないか。。。

当たっていた

そしてそれは当たっていました。。。周囲の体には実はそれをコントロールする自我は存在せずそれゆえ反射しか起こっていない。だからこの体の内部環境の変化に外部環境はただ反応を起こしていたのです。どういう反応を起こすかばかり考えていました、、こういう体作り身嗜み、、をするとどう反応するか????そればかりやっていたんです。

俺様

同時にそれは自身のエゴを強化することにもなりました。周囲をスライムのようにこちらに反応するだけという気づきはこの人生ゲームもある種簡単にしてしまったのでそれを分かっていない周囲を馬鹿にする動きになりました。俺様の誕生です、第二の地獄期です。この俺様はあらゆることを達成していくのですが全く満たされない、、大きく大きく肥大化したエゴは苦しみを増産したのです。

悟るしかない

どこまで行っても全く満たされないこの人生は「この先には成功がない」という気づきに至りました。そこからが悟りの探究です。釈迦が説く「無知」です、、この無知を解消しなければ「涅槃」には辿りつかないという気づきです。そしてそれは当たってはいたものの「何が無知」なのか??????どこにも正解が載っていないのです。そこから二十年間の歳月が流れました。。。あらゆる「見かけ上の覚者」のメッセージを読み漁り日々理解が深まっています。

認識

ここを押さえれば

ここを押さえればドミノのように勘違いが倒れていきます。認識は「この現象界」では起こりません。この現象界は「認識される側」であって認識は現象界ではない「場所」で起こります。現象そのものが現象を認識することは「不可能」なのです。私の体という現象は「あらゆる全て」を認識することは不可能です。今まさにこの体が視界を認識している?????不可能です。

私は何も認識していなかった

この体がカップを認識していないのならば「私」も全く何も認識していなかったのです。認識はこの体が起こすのではなく認識だけが起こります。視界だけが起こり、熱だけが起こり、寒いという感覚だけが起こります。その感覚認識を起こすのは誰だ?????認識は空から現象が立ち上がるその時にそのまま起こるのです。この体も認識される側であり、、このカップも認識される側、、、二つが認識されて「私がカップを認識した」という思考が起こり認識されます。

私がカップを認識した

これは思考です、真実ではありません。「私はカップを認識した」この思考がただ起こったのです。そしてそれは思考という現象ゆえに認識される、、、するとその認識によって「違和感」が生まれます。なぜならばそれは真実ではないからです。これが苦しみの源です。真実ではない「思考内容、内容思考」が起こることで「違和感」が起こるという苦しみ発生メカニズムです。

空の視点

空の視点を利用した視点

この世界には2種類の視点があります。空の視点です、、これは視点という言い方も間違いで本当はこれしかありません。そしてもう一つが空の視点を利用した私の視点です。空の視点で捉えた世界を二次利用した私の視点です。この2種類です。空の視点とはこの現象は全部空から現れでた幻影でありその幻影は現れでたままに認識されます。これしか実は起こっていません。そして今もそれだけが起こっています。認識は現れでた現象そのもののままに認識が起こります。

つまり

今目の前に広がる視界という現象はそのままに認識されたのです。空からこの視界という現象が起こりそのまま認識が起こりました。「この体が」というのは一切忘れてください。現象はそのままに空から認識が起こるのです。次のこの体がこの視界の中に認識されます。空によってこの体が認識されます。すると『「この見える世界」を「この体」が見た』という「概念アイデア思考」が新たに湧くのです。これが私の視点です。

簡単

空の視点に立ち返った時世界は驚くほどにシンプルです、シンプル過ぎるから「私視点」という二次利用が可能なのです。大元がシンプル過ぎるがゆえに、、二次利用が可能だということです。我々はこの二次利用に慣れすぎていて、、二次利用の先に三次利用(私物語)を作り上げました。これによって常に常に危険に振り回される「私」が生まれ右往左往している最中です。

乱世

関係ない

世界がいかに荒れ果てようとも、いかに災難続きであろうと、、関係ありません。この現象の完璧さはそのようなものでは微塵も価値を落とさない。一瞬一瞬変わり続けるこの幻想の緻密さこそが完璧完成であって現れ出るこの現象とこの体との関係は、、勝手に解釈として現れます。我々はこの現れ出る現象とこの体の関係性ばかりを気にして生涯を終える、ただそれしかしていません。

ええじゃないかええじゃないか

空の視点に立ったっ時この現象界は完全完璧なのです。私にとって不完全不完璧なだけであって空の視点に立ちあければ全ては完全完璧です。いやいや空の視点に立とうと立たまいと、、この私がピンチならばピンチなんですよ!!!!!どうでもいいそんなこと。。。。違います、、全然違います。私の視点すらも勝手に作り上げたんです。空の視点から私の視点に強制シフトし、、そこで「てえへんだてえへんだ」と叫んでいたんです。私の視点は作り物です、、それを空の視点に戻すのです。すると「ええじゃないかえええじゃないか」になります。

どうやって戻すの????

では戻し方を解説します。「先ず大前提において私の視点は作り物であってそもそもは存在しない」ということを伝えます。この体は幻です、このカップも幻です。大前提に「幻が幻を見る」のは不可能なんです。この体という幻がこのカップという幻を認識することはできません。認識は「空」そのものからしか起こりません。つまりこの体がこのカップを認識してきた、、というのは間違いです。認識は空そのものから「幻」に対してしか起こりません。

すると

私がカップを認識してきた、、というのは勘違いで、、空から起こった認識(この体このカップ)を組み合わせて(この体である私がカップを認識した)という思考が生まれていただけだというこのが認識できます。そうです、、起こっていた現象を認識するという現象が今起こります。これによって勘違いが落ちます。私視点という概念がボコっと落ちるのです。難しいですよね?????簡単には理解できませんよ。

ストーリーの中で

悟りを活用しようとする罠

悟ると何かメリットがあるんですか??????最も多い質問疑問の一つです。悟るとどんなに私は幸福で無垢で穏やかで平和になれるんですか??????最も最も多い疑問です。答え「悟りとはその私が完全に幻であることを見抜くことです」以上。『メリット幸福平和愛を享受する「私」が幻』であることを見抜くことです。そしてその幻とはどのような幻か?????花や鳥、樹木やこの体のようにボコっと現れる幻ではなく、、思考の中でしか存在しない存在です。幻の中に現れた思考という幻の中身が「私」です。つまり幻としても登場しないのです、厳密には。

メリットを享受するも何も

あらゆる現象「木、鳥、車、家、評価、称賛」を受けるはずになっているこの「私」は思考という現象、幻の中に現れでる「内容」でしかありません。この「思考内容」は大元で認識され「私」というイメージが起こります。木、鳥、車は現象、幻想ではありますが、、五感で感じ取れる現象です。「私」とは「思考内容」ですから五感で感じ取れるものですらなくただイメージが起こるだけです。「イメージ」がこの現象界の全てを享受するというのは次元が違うのでできないのです。

全部を手に入れた私

この体のことを私と呼ぶならば、、この体は見かけ上「車、家、家族、社会的評価、称賛」を持つことはできます。見かけ上。ですがこの私はイメージですから、、「これらの物を手に入れた私」というイメージを作りあげることが限界アッパーなのです。だからその後に至福感が一生続いてなんてことは起こるわけはないのです。「これらの物を手に入れた私」というイメージが湧いた瞬間だけ「焦り」という感情が消え去り楽になりますが、、次の日にはイメージの「私」がまた残ります。これが違和感を継続させます。