エックハルトトール

上位0.001%の頭脳が悟ってしまった

奇跡が起こってしまったんです。奇跡が、、人間業界上位0.01%の頭脳の持ち主が悟ってしまったんです。そのままいけば東大のもっと上の大学の教授になる予定だった人が突然悟ってしまった。その時、悟りの説明は前代未聞、革命です。知的に知的にエゴを解体していきます。エゴ最大の強敵がまさにこの地球に現れてしまったんです、それがエックハルトトールです。

悟り

エックハルトトールの書籍は「悟り」に関する書籍です。一般で言うスピリチュアルではありません。スピリチュアルとは個人という存在が居てその個人が実は魂の存在だったと知り、その魂が輪廻転生を繰り返し、前世、今世、来世、、、来来世と渡っていくというストーリーの話です。エックハルトはその奇跡的な頭脳で「今しかない」と断言します。江原裕之氏が腰を抜かすような発言「今しかない」です。それを言われちゃうと困っちゃうんですが、、です。

エゴとペインボディ

エックハルトの凄さ、それはエゴの徹底的な解明とそれを維持する動き「ペインボディ」の発見です。人間にはエゴとペインボディという不幸保持装置が備わっていてこれが相互に存在を維持させています。このシステムがあまりに緻密、狡猾なためそのシステムの存在に誰もが気付かなかったのです。それをエックハルトは悟り露わにしました。この発見の一番の功績はそれを誰もが今「見つける」ことができるのです。悟りの学びにおいて最も重要なことそれは「今それを実感できる」という点です、「実感ない学び」は「概念」です、「実感ある学び」は「気づき」です。エックハルトはその「気づき」を人類に促す方法を発見したのです。

「何でも起こる」が分かると「何でも起こる」

幻想じゃん!!!

これって全部幻想じゃん!!!!この気づきが起こると、何でも起こります。幻想って分かっちゃうと「幻想じゃん!!!!」が起こりまくるんです。幻想じゃん!!!!ていう体験が起こるんです。面白いですよね!!!!無限の体験が起こるんです。だから「幻想じゃん!!!!」という体験も当然起こります。だから無限なです。

現実じゃん!!!!!

この世界って間違いなく現実、物質ですよね!!!!!!って思っていると「まさに現実!!!!!」が起こります。世知辛い重い重い現実!!!!!が起こるんです。満員電車、ブラック労働、休日出勤、夫婦不仲、不登校、給料引き下げ、、、、、、全部起こります。だってここは無限の体験が起こる場所ですから!!!!

幻想かも????

「現実じゃん!!!!!はもう十分!!!!」が起これば「幻想かも?????という書籍への興味」が起こり「本当に幻想かも!!!!」が起こり「まさに幻想!!!!」が起こります。「究極の勘違い」から「究極」への強制帰還が起こります。だから「まさに現実!!!!」は全然問題ありません、ここに辟易しないと「幻想かも?????」に興味が湧かない、、、

なぜ苦しみなんていう意味不明な感情を神は作ったんでしょうか????最初から作らなければ誰も困らないのに

困る自分が居ない

人間は日々苦しんでいます、生まれて四年後には幼稚園に通い、小学校に通い、中学校に通い、高校に通い、会社に通い、、ずっと何かを強要されて生きていきます。苦しむために生まれてきたのか?????です。最初からこんな面倒な生物作らなければ良いじゃん!!!!ですよね!!違います、完全に違うんです。この世界は無限が鏡に移った姿なんです、無限が鏡の前に立って「俺って無限じゃん!!!」を認識する世界なんです。だからこの今の感情はその一部です。無限だから「苦しい」も起こります。

いやいや

私は自分のことを無限だなんて一ミリも思えていませんけど!!!!!そうです、、その感情がまさに無限の一つとして今現れたんです。私は無限だ!!!!も起こるでしょう。私は非力だ!!!も起こります。私は日本一ビッグだ!!!!も起こります。全部起こります、起こらない現象はないのです。これこそが無限の無限体験です。そして「その認識」だけが起こっているんです。

全感情が起こるから無限

ここは無限の鏡に移った姿です。ここは無限の体験が起こるのです。だから全部が起こります、最上級の苦しみも最上級の喜びも、最上級の悲しみも最上級の安らぎも、、全部起こります。そしてその動きをコントロールできる「誰か」は存在しません。完全全自動全反射で起こり続けます。ジェットコースターに乗っているように全部体験させられるのです。

開き直り

だから何が起こっても良いのです。人生最大の大失敗を起こしても、、起こされたんです。結婚式当日に「どうしても結婚したくない」が起こってドタキャンも起こります。葬式の最中に「どうしても笑いが止まらない」が起こるんです。なんでも起こります、だってここは無限のよる無限の体験が起こる場所です。そしてそのことに本当の意味で気づきますと「究極の安らぎ」が起こります。全部お任せ全部無責任、全部やらされ放題の気楽さです。

全てが一つなら「学校で学ぶ」必要ってあるんですか???

あります

全部が全部一つで私が全知識ならば「学校で学ぶ」って完全無意味ですよね?????そうです究極的には完全にそうです、その通りです。ですがですが、、その「全ては一つ」という実感は今湧かないはずです、今湧いていないはずです、、今全ては一つという実感が湧いていないならば、、今できることを学ぶしかありません。悟りの書籍に書いてあることをスラスラ学べないにも関わらず「全ては一つ」だから学ばないというのは完全に思考です。

階段がある

分離は完全に錯覚、この世界は幻想、時間も空間もない、色即是空、空即是色、、これらの究極のメッセージは段階式に理解できます。今直ぐにこれを理解するのは不可能な人も当然居ます。だから今入ってくるメッセージを学ぶ必要があります。今です、今入ってくるメッセージが重要なメッセージなんです。どうせ幻想なんだから「勉強しても意味ないじゃん」は恐らく進みが遅くなるはずです。

ただし

究極的なことを言ってしまえば「悟りへの進み」をコントロールできる自分は存在しません。だから何一つ心配せず何も恐れず起こる学びに委ねていきます。「どうせ全てが幻想だから何一つ学ばないようにしよう!!!」が勝手に起こるならば起こったんです。「コツコツ学んでいる暇があるならインドのグルに直で会あおう」が起こったならばそれが起こったのです。だから何一つその選択を迷う必要がありません。そして迷ったとしても迷うがただ起こったのです。

今奇跡が起こっている

顔なし

この世界、今この体が存在するこの世界で道を歩く時私の「顔」が存在していません。顔は全く現象化されていないのです。にも関わらず「誰も驚かない」という事件が起こっています。実際に事実として顔が現象化されて居ないにも関わらず「驚かれる」という事実が起こらないのです。これは奇跡です。滅茶苦茶ですよね?????何を言っているんだ?????という話ですよね????でもそうなんです。

相手から見れば

いやいや相手から見ればしっかり顔があるからそうなんじゃないですか??????分からないんです、、はっきり言ってそういう世界が存在するかどうかは全く分かりません。。第三者から見た世界が本当に存在するかを証明できないのです。だからそれは推測の域を出ないんです。真実、事実は、、今この顔が現象化されていないにも関わらず「道を歩いても誰も驚かない」という現象が起こっています。

電話

電話をすれば相手の声がします、当たり前です、当たり前過ぎます、ですが真実では相手の体はこの世界に登場していません。これが真実です。相手の体が現象化していないにも関わらずしっかりと会話が成立します。これが奇跡です、半端ない奇跡です。でも我々は相手の体は現象化しているはずだ!!!!と思って生きています。それは思考です、概念です、想像です。今とんでもない「奇跡」が起こっています、この奇跡に感動しないで「売り上げ目標達成」に感動しているんです、、これで不幸にならない方がおかしいのです。

騙された

我々は嘘を信じ嘘を信じ切ると「大人」と呼ばれます。これが現実だから、、と嘘を信じ切ったことで「大人」になるのです。「電話先にはしっかりと相手が居て話をしているんだ」という嘘を真実と思い込むことが「大人」と呼ばれているという真実、事実に気づいた時何かが変わります。180度認識が変わります。普段行くファミレスが行けばしっかりあることに驚くのです。10年ぶりに友人に会ってもその友人が存在することに驚きます。会話が成立することに心底驚きます。

怒り

簡単

あの人を悟らせたくなかったらどうするか????簡単です。、最もその人が怒るポイントを定期的に思い出させてあげればいいのです。「10年前の事件」これがその人の怒りポイントならばそれを定期的に思い出させる。。その事件はありありと「自分」と「相手」を復活させます。だからストーリーに引き戻せるのです。ですが同時にこの作戦には弱点があります、、、「自分」が復活したこの劇をしっかりと観察されてしまうことです。怒りを起こす「事件」が自分を復活させ相手を復活させたというこの事実に気づかれてしまうと「悟り」です。

焼き直し

感情を引き起こす「事件」が起こることで何度も「自分」が現れその度にストーリーが復活する。このワンパターンにいい加減気づくのです。あの時俺は、、、の使い古しパターンに気づきます。あの事件は厄介だたなーという記憶がガツンと復活した時「自分」が起こりストーリーが復活するというこのパターンに気づくのです。自我が形成されストーリーが復活するこの流れに気づきます。そういえばこいうやってストーリーは起こるんだっけ????と気づきます。その時全ては幻であるという悟りが起こります。

悟り

「怒り」「悲しみ」「憂い」あらゆる感情が起爆剤になって「記憶が作り出した思惑」が起こりますが、、ここが超ポイント、、ストーリーは記憶をベースに起こるのです。記憶こそが土台になってこれが起こります。逆に言えば記憶をベースにしなければストーリーに誘うことはできません。その仕組みを俯瞰します。「また今記憶をベースにした思惑が湧いたぞ」です。これを理解することが悟りです。

記憶からの誘い

ふと気づくと

真実に触れ真実の理解が起こった後も「記憶からの思考」は起こります。そういえば鈴木は最近どうしているだろうか????そういえば学生時代の山田は最近何をしているのか????そういえば中学時代の田中は結婚して子供も居るのだろうか?????なぜか次から次へとエンドレスにそういった思惑が起こります。記憶が作り出した想念が起こります。その想念を問題視してはいけません、これはなぜ起こったのか????そこにはやり残した後悔、ああすべきだった無念、もう少し上手くやれたのでは???という期待が起こります。そこに気づくのです。真実の理解がまだまだであるというシンプルなメッセージです。

誘いが起こるのは理解が甘いから

そこには何も意図はないのです、記憶からの思惑には意図はありません。この世界には意図はないからです。ただ観察します、まだまだ起こってくる記憶からの思惑です。その思惑は「この私」をこの世界に再び生み出し過去から現在を駆け抜けてきた「自分」を復活させます。この復活劇にただ気づくのです。過去からの思惑は「自分」を見事に復活させたぞ!!!!です。それ以上でもそれ以下でもありません。記憶からの思惑がいかに自分を復活させるかに気づくのです。

対象が自分を復活させる

中学時代の山田が「自分」を復活させます。高校時代の鈴木が「自分」を復活させます。大学時代の田中が「自分」を復活させます。対象がこの「自分」を復活させるこの動きをただ観察します、認識します。ただ空としてここに在る時「山田」という思惑が起こり「自分」を復活させる動きが起こります。これに気づくのです。ストーリーを復活させる動きが起こることに気づきます。起こっていいのです、これは勝手に起こりますから。ただその動きに気づくのです。ストーリーが復活するということはストーリーはそれまで消えていたという事実です。だから復活こそが「ストーリー」が幻想であることを証明します。そこに気づくのです。

悟り

全ては現れては消える幻想です。突然の旧友の登場は「この自分」を再び復活させますがやがて消えます。この事実に着目します。旧友という記憶が作り出したイメージが「自分」というイメージを再び復活さえ、、現れてはまた消えます。だからこれは幻想なのです。ここに気づくのです。このことで「まだ私は悟っていない」と落ち込むのではなく幻だから復活したのだと、、その現れから悟るのです。この世界には現れてはいけない思考は存在しません、その思考がストーリーを復活させまた消えたという事実に着目するのです。その時思考は悟りに入る入り口になります。

顕現と非顕現に境はあるのか???

ない

どこからが不変の自己でどこからが変の自己でしょうか????どこからが空でどこからが色なのか????空と色には明確な境目はあるのでしょうか????ないのです。この世界には明確な境目はありえずよって色とは空の一部であり空とは色の一部です。空という言葉、色という言葉は根源の様子を現す方便でしかありません。空と呼ばれる「何か」はないし「色」と呼ばれる「何か」はないのです。根源の現れに循環に「空と色」という言葉を当てはめただけです。

色即是空、空即是色

この言葉は動きの二つに分けた方便です。方便ですか最後はこれを超えないといけません。超越しないといけないのです。色即是空、空即是色も方便だな、、、という気づきに至るのです。その時完全に分離から解放されます。ただ生命の動きだけが残ります。そこには一切の比較優劣良否成否がなくなります。ただの生命の循環に比較が起こったらおかしいのです。そして仮に比較という概念が起こってもそれすらも生命の現れでしかありません。そこを見抜きます。

比較分離があってもいい

この世界に比較分離という概念が生まれてもそれも生命の現れです。それを楽しみます。誰かが誰かを徹底的に比較分離していようとも、それも生命の現れです。それすらも非難の対象ではないのです。世界にはまだ差別や貧困があって、、、あるでしょう、、ですがそれが生命の現れなのです。それも非難の対象ではないのです。ただそれを受け入れるのです。それが起こったんだなと。

悟り

悟りとは「全境目」がないことを理解することです。この色の世界には実は境目はないことを、そして色が現れでる空と色にも境目はない。非顕現と顕現の間には境目がないのです。全境目がないことを完全に理解した時に「自己意識」というのは存続できるのでしょうか????できません。その時自己意識から解放されます。守りに守ってきた自己を手放せるのです。境目が全くないこの世界に世界と分離した自己は存在できません。あるのは全部思い込みです。思い込みだったんです。

熟睡時に「空」という自覚はあるか???

ない

熟睡時は「現象=意織」が消え去ります。この時完全な空です。不二、非二元です。ですがその時に一元という自覚を持つことはできるでしょうか????できません。そうです一元という自覚は自覚し得ないのです。ではそこから目が覚めたその瞬間「一元だった」という実感が起こります、この瞬間のみそれを実感できます。そうですこの世界が表れでない限り「一元だった」という自覚が起こらないのです。我々の本質は「一元である」という自覚はこの世界の現れによって起こるのです。

だとすれば

この世界は確実に「一元の」の投影です、「一元」の投影が「二元」であるわけがないのです。なぜならば一元は100%一元であり一元の投影が二元だったらおかしいわけです。ここからこの世界は二元風世界であって二元的世界であって実際は一元であるという自覚が生まれるのです。そしてこの世界ではそれでも二元を実感できます。この体を実感できます。この体がこのコーヒーを飲むを実感できるのです。二元性の世界を実感できる世界だが100パーセント実際は一元であるということです。ですが一を実感はできない、、一であるという実感は嘘です。熟睡時「一元」という自覚は起こりません。だから実感としては非二元なんです、「二元ではない」は実感できます。ですが一元という自覚は起こりません。

私は空だ!!!!

空という言葉も面白い、一ではない、神ではない、、空です。カラです。色(現象)ではない=カラ、です。そうです現象ではないという実感こそが空の実感です。現象ではないという実感が非現象の実感です。幻想ではないという実感が非幻想の実感を生み出します。非幻想の実感が「気づく」という実感を生み出し、幻想に気づくという実感を生み出します。非幻想が幻想に気づくという実感が生まれます。この実感が空即是色の実感です。

解釈を超えた視点

悟り

悟りとは解釈を超えた視点を持つことです。解釈を超えた視点は解釈を超えた経験を起こします。これが悟った人生です。解釈を超えた視点とは何か?真実です。多くの方は解釈を通した世界を生き経験を積んでいます。これはストーリーです。解釈を超えた視点を持つとストーリーが終わり「本当の人生」がスタートします。例えばあなたが「ニューヨークのビルオーナー」だという親の嘘を信じて生きていれば「ストーリー」を生きているのは容易に分かりますよね????そうです多くの方は「自分は信じる」人生を生きているんです。親によって刷り込まれた「嘘」を信じてストーリーを生きているのです。悟りとは全解釈、全思い込みを削ぎ落とし「ストーリー」ではない人生に目覚めることです。

自由意志も物質世界も自分も幻

真実とは思い込みではなく事実一点です。ではその真実を伝えます。「自由意志もこの物質世界もこの私も幻想」これだけです。この世界は100%あるように見えるが100%幻想です。この物質世界は幻想です、そしてこの自由意志も幻想、この体も幻想です、、さらにこの体の中の自分も幻想です。100%あるように感じるが、ないのです。100%あるように感じるならば「在る」でいいじゃないか!!!!!違います、ないんです幻想として100%あるんです。

その時

その時真の自分が見えてきます、、真の自分が露わにあります。これがこれが全部幻想ならば、、、本当の自分はどこに居るのか?????という真の問いが生まれます。。。この問いが現れるのです。。これまではこの問いは全く現れてきませんでした。ですが生まれます。そしてその答えとは「この幻全てを生み出す存在こそが真の私」です。これを仏教では「空」と表現します。そして幻を「色」と表現します。ではこの幻は空の投影ならば「色」も全部空の一部です。そしてこの幻の存在「色」がなければ「本当の自分は誰だ????」という疑問が生まれません。つまり「色」があるから空が現れるのです。色と空は一つでありこれは相互互助組合です。二つないと成立しないのです。つまり空と色は完全に一つであり、、今まさにそれが起こっています。