記憶からの誘い

ふと気づくと

真実に触れ真実の理解が起こった後も「記憶からの思考」は起こります。そういえば鈴木は最近どうしているだろうか????そういえば学生時代の山田は最近何をしているのか????そういえば中学時代の田中は結婚して子供も居るのだろうか?????なぜか次から次へとエンドレスにそういった思惑が起こります。記憶が作り出した想念が起こります。その想念を問題視してはいけません、これはなぜ起こったのか????そこにはやり残した後悔、ああすべきだった無念、もう少し上手くやれたのでは???という期待が起こります。そこに気づくのです。真実の理解がまだまだであるというシンプルなメッセージです。

誘いが起こるのは理解が甘いから

そこには何も意図はないのです、記憶からの思惑には意図はありません。この世界には意図はないからです。ただ観察します、まだまだ起こってくる記憶からの思惑です。その思惑は「この私」をこの世界に再び生み出し過去から現在を駆け抜けてきた「自分」を復活させます。この復活劇にただ気づくのです。過去からの思惑は「自分」を見事に復活させたぞ!!!!です。それ以上でもそれ以下でもありません。記憶からの思惑がいかに自分を復活させるかに気づくのです。

対象が自分を復活させる

中学時代の山田が「自分」を復活させます。高校時代の鈴木が「自分」を復活させます。大学時代の田中が「自分」を復活させます。対象がこの「自分」を復活させるこの動きをただ観察します、認識します。ただ空としてここに在る時「山田」という思惑が起こり「自分」を復活させる動きが起こります。これに気づくのです。ストーリーを復活させる動きが起こることに気づきます。起こっていいのです、これは勝手に起こりますから。ただその動きに気づくのです。ストーリーが復活するということはストーリーはそれまで消えていたという事実です。だから復活こそが「ストーリー」が幻想であることを証明します。そこに気づくのです。

悟り

全ては現れては消える幻想です。突然の旧友の登場は「この自分」を再び復活させますがやがて消えます。この事実に着目します。旧友という記憶が作り出したイメージが「自分」というイメージを再び復活さえ、、現れてはまた消えます。だからこれは幻想なのです。ここに気づくのです。このことで「まだ私は悟っていない」と落ち込むのではなく幻だから復活したのだと、、その現れから悟るのです。この世界には現れてはいけない思考は存在しません、その思考がストーリーを復活させまた消えたという事実に着目するのです。その時思考は悟りに入る入り口になります。