消えて無くなる

死んだ後の子供が心配で、死んだ後の妻の行く末だけが心配なんです。大丈夫、大丈夫、、この体が死にたえば、、、この世界は完全に消えてなくなりますから。マジスカ??????この体が無くなったって、、この地球には残り80億人の人が居ますよ。。。居ません、、、この体が死に絶えれば、、、「この世界」自体が消滅します。だから残された子供たち、妻、会社、、、、何もかも心配しなくて大丈夫です。

その証拠に

その証拠にこの世界とは「いまここ」だけです。私の世界とは「いまここ」だけ。ここに見えない地球の裏側のブラジル人は存在しません。「いまここ」にこの体しか存在しないのならばこの世界には「この体」しか存在しません。だからこの体が死に絶えればそのまま「いまここ」が消えるのです。終わり。「いまここ」に妻、子供、会社が登場しなくなって終わるのです。

何それ?????

そうです、、我々が生きている世界は実は超シンプル、超簡単、超質素です。「いまここ」しかないのです。「いまここ」以外何も起こっていないしこの体が死に絶えれば「いまここ」すら消えてなくなる。。この幻想の地球世界はこの体が消えれば「ジエンド」終わるのです。自分が死んだ後の地球が心配?????残念、消えます、一瞬で。

悟り

悟りとは「真実」に戻ることです。「この体が死んだ後も地球は残るはず」という「思考」は幻想です。実はこの体もこの世界も幻想で、、この体が死んだあとの世界とは、、幻想の上に乗っかったさらなる幻想です。真実ではこの体という幻想が消えればこの地球という幻想も消えるのです。この体は100パーセント幻想ですが、、徐々に徐々に幻想として衰えていき必ず息絶えます。その時この体ありきのこの地球という幻想もそのまま消えます。

大阪旅行

新幹線

大阪に行くために新幹線に乗って東京から移動します。窓の景色がとんでもないスピードで変わります。新幹線が高速で移動します。これ本当はただ「景色」だけが動いています。よーく注意深く観察してください、、一ミリもこの新幹線は動かず「景色」だけが動いています。動いているように感じているだけで実際には「景色」だけが変わっているんです。この「景色」が急速に変わることを人間業界では「動く」と表現するのです。

大阪駅に着く

大阪駅に着きました、、駅のホームを出て駅の外に大阪の景色が広がります。2時間の移動の末、大阪の景色を見ることができました。実はこれいまここの「景色」だけが「大阪」と呼ばれる景色に変わっただけです。「東京」と呼ばれる景色が「大阪」と呼ばれる景色に変わったんです。これを人間業界では「二時間移動の末大阪に着いた」と表現します。真実では「景色」が変わり続け「東京」と呼ばれる景色から「大阪」と呼ばれる景色に変わったんです。

この体

じゃあこの体は何をしているんですか?????この体は確実に動いていますよね?????違います、この体も景色の一部です、、この体という景色は常に常にこの景色の中心に現れては消えるだけです。でも移動中の足の感覚はありますよ!!!!そうです、、その感覚だけが起こり続け、、その感覚を「移動」と人間業界が決めたんです。「足の感覚」が起こり続けること「景色」が変わり続けることを「移動」と決めたんです。本当はただ「いまここ」の景色が変わり「いまここ」で足の感覚が起こり続けただけなのです。

悟り

実はどっちでもいいのです、、起こっていることは何も変わらないのですから。「いまここ」の景色だけが変わりそれしか起こっていないという真実があり、、一方で、、、「東京から大阪までの大移動をした」という真実に上乗せした「思考」が起こっただけ。この思考以外は何も変わりはしないのです。悟ると何か変化はありますか?????何もありません、、ただ真実に上乗せした「思考」が消えます、感情が消えます、それが異常に楽だ、、というのみです。

当たり前

そこが盲点

今目の前にコーヒーカップがあります。目を閉じます、コーヒーカップが消えます。この事実、この事実だけで実はこの世界が幻想であることを証明しちゃいました。コーヒーカップが突然消えたのです。それを人間業界では「目を閉じたから」と決めたんです、そういうことにしたんです。ですが事実ではただ「コーヒーカップが消えた」んです。このことを目を閉じたから、、、としたのが人間業界なんです。ですがこの「目を閉じたから」というのが後付け解釈で、それを証明することは絶対に絶対にできません。コヒーカップが幻想だから「消えた」んです。

電車

電車に乗れば窓からの風景がエンドレスに変わり続けます。毎秒どころか一瞬一瞬変わります。これただ景色という幻想が変わっているだけです。電車が動いているのではなくただ景色が変わっているのです。このことを人間業界では「電車が動く」と決めたんです。景色が急速に変わるから「電車が動く」んだと決めたんです。事実ではただ景色が急速に変わっているだけです。人類80億人が「景色が動く」ではなく「電車が動く」と決めたことから「景色だけが変わっているんです」と言うと「変人」扱いされます。後付けで決めた「電車が動く」が真実で「景色が変わるだけ」は間違いとされたんです。

悟り

悟りとは「真実から生まれた歪んだ解釈」を真実に戻す作業です。人間業界が決めた「決め事」は実はただの解釈、思考、概念ですよ、、というアンチテーゼです。あまりにも「嘘」が定着に定着を重ねてしまったことから「真実」を伝えると「何言ってんの?????」と足蹴にされますが、、真実は真実だからしょうがないのです。本当は「今ここ」しかなく、、ここで起こることが全てなんです。コーヒーカップが突然消える、景色が急速に変わる、TVに夢中になるとこの体すら消える、、いまここで起こることが全てです。そこに後付けで「目を閉じたから」「電車が動いたから」「耳が音を拾ったから」と解釈を加えているのです。この解釈は全部嘘です。作り話です。

いつの間にか

人間の面白いところは「真実」ではなく「作り話」を完全に真実と取り間違え、、深刻に深刻に現象を捉えるというところまでいってしまうところです。昨日はこんな事件が、災害が、経済破綻が、国政ミスが、、、とですが真実では「今目の前」で起こることが全てです。。本当に今目の前で「事件」が起こっていますか?????本当に災害、医療破綻、食糧不足、電気不足、水不足、屋根が無い、、が起こっていますか?????多分起こっていないはず。。。これが真実です。真実に戻った時、、実は平和な日々が続いていることに気づきます。あるいは深刻に深刻に考えて解釈して、、焦って動いている「自分」しかそこには居ないことに気づきます。

ズルッ

奥さんに食べさせてもらってますから

このようなことを飲み屋で中年男性が語れば「ズルッ」と思われます。「ムカつく」「癪に障る」です。なぜ??????何も悪いことしてませんけど!!!!です。なぜ周囲の男性は「ズルイ!!!」と思うのでしょうか?????なぜ?????社会という枠に収まるという行為をしていないからです。それはしないといけない話でしょ!!!!です。「言ってはいけない!!」話なんです、奥さんに食わせてもらってまして、、って。

自我

奥さんに食わせてもらう中年男性は何も法律上問題ない行動をしています。。ですが「ズルイ!!!!」と思われます、、ズルイということは、、何か悪手をしているということになります。ですがそうではない、、「社会にみんなが収まる」という大前提で世間は動き、そこは暗黙の了解、、そうしないと「幸せになれない」と信じて生きている人々にとって「聞きたくない真実」なわけです。

重要

本当は本当はどこかで「働かないと幸せにはなれない」は嘘だということを気づいているんです。どこかでそれは嘘でみんなでその嘘にしがみ付いているのです。だから空気を読まずに「働かなくても幸せ」をやっちゃうとその他男性から嫌われるのです。その他男性は嫌うことでその男性を「居ない」ことにしたいのです。

悟り

自我とは「嘘を信じる動き」です。「この体の中に主体としての自分が居る」も嘘、「その自分は生き抜くための必要存在である」も嘘です。この嘘を嘘と見抜かれる状況を自我は嫌います。本当は嫌うことができる自我はいないのですが、、嫌うという動きが起こります。一般的に嫌われる行動とは「自我による真実の隠蔽工作」を暴く動きなのです。「奥さんに食べさせて貰ってますから」に動く思考感情とは「自我による真実の隠蔽工作」の動きです。悟りとは「自我による真実の隠蔽工作」に気づくことです。

適応

社会

合わせる合わせる合わせる、、この合わせるいう能力を幼少期に築ける子供は社会にすんなりと溶け込み、、それができないと問題児と呼ばれます。アメリカンスクールなどに通わせれば純日本企業に勤めるのが難しくなるように、幼少期の環境は実は大きく影響します。幼少期にこの合わせる能力を身につけなかった場合、社会には馴染みにくいのですが、、同時に自我、エゴの発達が小さいため悟りには非常に好転しやすくなります。

自我

自我とは社会に合わせたキャラです、社会が求めるキャラになり切るのが自我です。自我とは幻でありしかし確実に内外から感じることができる幻想です。この自我を形成できる力があるかないかは幼少期の鍛えられ方がものを言います。自我形成が順調に働く=幸せではなく、、便利であるということです。しかし自我形成は「苦しみ」形成ですからこれは諸刃の剣なのです。

完成

私は社会に迷惑さえかけなければ満足、私はお給料さえしっかり貰えれば大丈夫、私は犯罪さえ犯さない企業に勤めれれば満足です。。これ謙虚でしょうか????謙虚じゃないですよ。これ傲慢です。自我形成は完璧ですが、傲慢なんです。なぜか?????本当の私は神だからです。神が一歯車で結構です、という発言をするのは本来の力を過小評価する傲慢さです。ですがこれが社会では上手くいくコツです。

悟り

悟りとは自我形成が順調に行くことが素晴らしいことでもなく、かといって自我形成が順調にいかなかったのが素晴らしいということでもない、、これに気づくことです。自我形成は全てタマタマです、全て自然現象です、その時の環境によってどのような自我が形成されるかは運です。良いとか悪いはないのです。そこを俯瞰できるようになりますと、、全てを許せます。その自我形成に合った行動を取れるようになります。

意味はない

この世界

この世界は神が退屈を凌ぐために生まれた、この世界は神は孤独を感じるために作られた、この世界は神が愛を再確認するために作った、、、あらゆる理由が述べられていますが「答え」を言いましょう。。意味はありません。というよりも「この見える聞こえる世界」が無ければ「無限の自分=空」は存在できない、、ということです。空とは全部ですから、、全部であることを自覚する全部もそこには含まれる、、以上です。空の中に、自分は無限であるという自覚が無ければ、、、全部が全部では無くなってしまうのです。全部とは全可能性を含むということです。「無限という自覚のない無限」も存在し「無限という自覚のある無限」も存在しその合わせたのが空です。

色とはつまり「無限の存在でることを自覚する無限」であり、、これも空の一部です。空とはつまり無限の存在であることを自覚しない無限です。その中に「無限の存在であることを自覚する無限」が含まれます。自覚とは全くもって形のない「もの」でありこれが空に含まれるのです。だから空とは一切の物理的要素が排された存在です。よってこの色の世界、現象の世界、気づきの世界は、、幻影と呼ばれます。100%物質に見えて物質ではないからです。

悟り

この世界には意味があるのではないのか?????これは自我が考える発想です。なぜならば自我は「時間」の中でしか存在できないので、、スタートがあれば結果があると信じています。この世界が誕生したからには理由があると、、ところがこの世界を作り出す大元(空)には時間が存在しないため、、最初から完成されているわけです。つまり何も起こり得ないし起こらない。起こるには時間が必要ですがその時間がない存在によってこの色の世界はただ現れ出ているのです。この理解が悟りです。色の世界には時間があるように感じるが、、色を作り出す「空」には時間が存在しないため、、色の作り出す目的も存在しない、、となります。ただし色がなければ空は空ではありえないので色は空の一部であり全部でもあります。

思考と意識は違う

普段

何かに集中している時、、「思考」ではなく「意識」の状態になります。1日に何度も集中状態を作れますと「意識」こそが「自分」であるという気づきを得ることができます。「集中」という状態を知らない人は「自分」とは「思考」であると考えます。よってこの動き回る思考を「自分」と勘違いし続けるのです。すると「自分」=「意識」という感覚が無いため「自分」を維持するために考え続けるというループに入るのです。

「自分=思考」

「自分=思考」という概念は起こすことができますがこれは真実ではありません、結果この概念の認識の後には「違和感」が湧きます。これが「苦しみ」となります。何かに集中することができる人は「自分=意識、思考」とという認識を持てるので進んで「集中」状態に入ろうとします。つまり仕事に集中、趣味に集中することで「自分=意識」に入り、、苦しみから解放されるのです。ですが常に集中状態に入るのは難しいため「自分=意識」、「自分=思考」を行ったり来たりするわけです。こえが限界です。

思考は自分ではない

思考とは意識が作り出す幻影です、思考は自分の一部であって本質は意識です。ですから思考は自分ではないと理解し自分を意識であるという感覚を掴むことが重要になります。意識は常にありゆえに意識こそが自分なのです。思考は自分ではないという気づきは、、思考の連鎖を止めます、、さらに思考の内容に関心が薄くなります。

悟り

悟りとは「自分=意識」であって「自分=思考」という概念を捨てることです。思考がなくても意識は存在できますが意識がなければ思考は存在できません。意識こそが自分なのです。ではこの意識は人間全員が持っているわけですが「私の意識」と「あなたの意識」に明確な区分はあるのでしょうか?????「私の意識」と「あの人の意識」には明確な区分があるのか?????ないのです。全く無いのです。意識には種類がないのです。意識とは全人間が全く同じものを所有しています。つまり我々は完全に同一のものを「自分」と呼んでいるのです。「全ては一つ」というのはこういうことです。

視点

この世界

この世界は実はここしかありません。生まれてから死ぬまでここだけを経験し続けます。ここだけです。本当はここだけでありそして「今」しか存在しないのですが我々はこの場所この今であらゆる思考を起こし続け、あらゆる視点を持ち続け、、ここにとんでもないストーリーをぶち上げるのです。本当はこれだけがあって他には何もないのですがそこに「この体」「この自分」「このあなた」「私の過去」「私の未来」を作るのです。ここに世界一のマジシャンが居て、、ミラクルを作り続けます。

マジック

マジックのプロは、、どうやって素人を騙すのか?????視点です、、視点を操るのです、、視点を操ることで、、、、、騙すのです、、さも体が真っ二つに切れるかのような経験を見せます。右手の動きに注目させて、、左手でアクションを起こすのです。ではマジックのプロはマジックのプロによって騙せるか?????騙せません。動きの全てを見切ったマジシャンは他のマジシャンの動きによって騙されないのです。マジシャンにはしっかりとこれが嘘であることが見えます。

視点

視点を変えるとこの世界の真実が真実のままに経験できます。経験とは実は視点なのです、、なぜならばここには実は真実しか存在しないのですから、、ここで起こせるのは勘違いか、、真実をそのまま経験するかの二択しかないのです。勘違いの経験か、、勘違いのない経験しか起こせません。勘違いとはまさに間違った視点でこれを見ることなのです。ただそれだけです。見かけ上の覚者とはいまここでどのような「勘違い」が起こっているかを言葉を使って説明します。そして聞いた人間はえ????そうなの?????と全く新しい視点でこのマジックを見るのです、するとあら不思議、、本当だ!!!!私騙されてた!!!!が起こります。

悟り

悟りとは間違った視点から正しい視点に戻すことです。マジシャンの手の動きにスッカリと騙されていたことに気づき、、手の動き以外に視点を修正することです。マジシャンは何も変わらずこれまでと同じ動きをします、ですが見る人間が視点を変えることでそれがマジックであると見抜けるのです。全く新しい経験が今起こったのです。悟りとは正しい視点、真実を見抜く視点で改めて「今ここ」を眺めることです。その時、あれ????今までと何も変わっていないはずなのに、、全く違った姿が見えるぞ!!!が起きます。

ドッグパーク

微笑ましい

ドッグパーク、ドッグランに行きますと、、みんな人間が笑顔でワンちゃんたちの様子を眺めています。どの犬も愛おしく感じるため、、そこには競争がありません。みんな楽しそう、、犬には俺の方が優れている、俺の方が愛されている、俺の方が高い価値が付いている、、という自我は希薄なため、、人間はただただその様子ジャレ合う様子を楽しめれます。

人間社会

では会社に行って、、あらゆる人間が集まって仕事をする場所で、、あの笑顔は起こるでしょうか????残念ながら人間は「優劣」「善悪」「良否」を勝手につけて、、この「自分」をそのレースに押し込めます。そして「自分」が上位に位置する時喜び、下位に甘んじれば悲しむのです。この「自分」には自由意志があり周囲の人間にも自由意志がありその自由意思をいかに上手に使っているかで判断判断を繰り返すのです。

ない

本当は本当は自由意志などないのです。だから実は人間も犬と全く同じです。あり得るのは「自由意思」があるという思い込み、これだけです。これだけが犬と人間の違いなのです。つまり自由意志がないという点は全く同じ、、「自由意志がある」という思い込みも「自由意志」ではなく勝手に起こっているのです。それが分かった時職場がドッグランになります。だって一人も自由意志なく動いているし、自由意志なく思考し、自由意志なく感情を味わい、自由意志なく動いているのです。

悟り

悟りとは犬も人間も実は全く同じであることに気づくことです。犬は無邪気だが人間は邪気の塊である、、ではないんです。犬にも自由意志がないように人間にも全く自由意志がないのです。つまり完全自動運転、自動反射、、微笑ましい、可愛い存在なんです。そのことが分かった時ここが天国になります。自我にとっては天国では断じてありません、そうではなく「自我」というものが勘違いの可愛い存在と見抜けるのです。

自分と仲良くする

自分を上手くやる

多くの方は「自分を上手くやろう」とします。自分をこの環境の中で上手くやっていかそうとします。ですがこの試みは常に試行錯誤、常に競争、常に優劣、常に四苦八苦です。周囲は皆ライバルになり人生をかけた競争を生きることになります。上手く行っている時と上手く行っていない時は半々ありそのどちらかを行ったり来たりするのです。これが死ぬまで続きます。

自分と仲良くする

自分と仲良くする、、自分と仲良くする「存在」とは誰ですか????そうです「自分」と仲良くする「存在」存在と称することができない誰かが本当の自分です。この存在としてこの見かけ上の体の「自分」と仲良くします。どうやって??????どうしたら「自分」と仲良くできるんですか????簡単です「自分」を見抜くのです。この偽りの「自分」とは何も自由意志も持たず何も自由感情を持たず何も自由行動を持たない完全なピエロです。このピエロが周囲から称賛されれば飛び跳ねて喜び非難されれば小さく小さく落ち込みます。とてもとても可愛いピエロです。

周囲

「偽りの自分」の存在を見抜けるようになりますと、、まさかの「周囲の人間」も見抜けるようになります。自由意志がなく自由感情もない自由行動もないこの存在を「自分」と称して生きています。そして称賛されれば飛び跳ねて喜び非難されればガッツリ落ち込みます。そんなピエロのような存在が愛おしいのです。何も実はしていないのに「喜び」「悲しむ」のです。最高に面白いわけです。

悟り

悟りとは「自分をコントロール」しようとする無理ゲーを無理ゲーと見抜くことです。自分とは何一つコントロールできない「ピエロ」であることを見抜きます。そして周囲も完全なピエロです。その時、、、一人もピエロとしては成功者も存在せず失敗者も存在しない、、、なぜならばピエロは常に常にこの勘違いによって不安で不安でしょうがないからです。そこを見抜きます、勘違いという大土台の上で安泰は絶対に絶対に起こり得ないわけですから。そこに気づくと全員が全員愛おしく感じます。これが悟りです。