目覚めって何???

個人が目覚める????

個人、私、自分、自我というのは完全に幻想です。ですからこの幻想が目覚める!!という経験を積むのは不可能です。そういう意味では「個人の目覚め」という事実は起こり得ません。ですが見た目として周囲からの観察として「個人が目覚めた」という幻影は起こり得ます。覚者と呼ばれる人々は周囲からの幻影として「悟った人」となります。ですが実際には「個人が悟りを経験した」という認識は起こりません。個人とは幻だからです。

ただし

「個人が悟った」という認識、経験は起こり得ないのですが、、「悟りが起こる」は起こり得ます、そしてそこには芋づる式に「誰か」がついてきますから、、見た目としては「誰かが悟った」が起こるのです。言葉ではこれが限界です。俺は目覚めたぞ!!!という経験は起こることは絶対にありません。目覚めは、、認識であり、、認識は「幻」には起こらないのです。認識は、、認識だけが起こるのです。認識には主語が存在しません。この世界の登場人物はすべて「幻」なので認識の主語にはなることができません。

全部が幻

悟りとは「全部が幻だった」という気づきです。この幻の中には当然この体もこの体の中の私も含まれます。ゆえに「この私が悟った」は完全に矛盾しています。「この私は幻だったぞ!!!」という気づきが悟りです。そして全部が全部幻だったぞ!!!!が悟りです。では誰がこの気づきを得たのか?????誰もいないんです。誰も存在しない中で「気づき」だけが起こるのです。というよりも今まで完全に誰もいない中で「気づき」だけが起こっていなんです。にも関わらず「私が気づいた」「私が分った」という思考がエンドレスに起こっていたのです。この思考が落ちる、この思考がもう起こらなくなることが悟りです。

シンプル過ぎる

簡単過ぎる

理屈で言えば悟りとはノンデュアリティとは簡単過ぎるのです。全部が幻想であり生命であり色であり認識される対象であり空「不変の自己」の投影です。終わり。ですがこれを実感するとなると大変、難しい、超ハードル高し、です。理屈は超簡単、実感は超難しい。ですから悟りとは実感の世界です。武道、花道、茶道、、、全く同じです。見ただけでは簡単に見える、だが実感は半端なく難しい。

迷走から瞑想になる

超簡単にコツを伝えれば悟りとは日常生活が「迷走」から「瞑想」になっちゃうことです。多くの人は間違った思考を真実と教わってそれを一生懸命信じて「迷走」します。ですが悟りはその間違いを完全否定しもう一度真実の視点で毎日を観察しましょう!というメッセージです。真実というフィルターで毎日を観察すると次第に「瞑想」になり、、神の視点が定まり定着しそのまま人間から神になっちゃいまっせ、、です。

人間が神になる?????

そんなことが可能なのか??????可能です!!!!なぜ?????だって我々は人間には元々なれていないのですから。我々は人間になった「つもり」でこれまで生きてきただけですから。人間になった「つもり」を辞めたら何になるんですか?????神しかないのです。神しか選択肢はありません。神一択です。

実感

とはいえ、、それを実感するのは大変なんです。あまりにも長い期間人間になり切って生きてきましたから、、いきなり明日から「神です」は不可能です。でもそこしか選択肢はありません。人間としての我々はどこまで行っても「幸福」にはなれません。人間として幸福になることが不可能な以上、、、そこに戻る以外の選択肢がないのです。だから「実感」が起こるまでやるしかありません、というか今までもそこに向かって努力をしてきたんです、、実は。そしてこれらからもそこに向かっての努力しか起こりません。だから安心して安心して「迷走」しどこかでそれが「瞑想」になり、、真実に辿り着く以外ないのです。そういう意味では全員が100%着実に山に登っています。誰一人遠り道をせず抜け道もなく最短距離を歩んでいます。

騙される

自我

悟りの世界で「自我の説明」ほどやっかいな分野はありません。あるけどない、ないけどある、、意味不明、言語不能、認識不能なジャンルの一つです。ですが逆に言えばここが分かってしまえば「ゴール」です。目の前のリンゴ、これは100%あるように「見えます」「香ります」「触れます」「味わえます」「食べれば音がします」しかし幻想です。完全な幻です。イリュージョンです。これが真実です、完璧な真実です。ここを踏ん張らないと自我は理解できません。

あるけどない

クラスメイトに「私ってどんな人????」と聞けば50人中50人が「〇〇な人」と回答をくれるでしょう。つまり「ある」んです。自我は、、100%あるわけです。ですが幻です。幻とはあるように100%見えるが100%ないのです。「私って緊張しいで寂しがりやで実は見栄っ張りで少々ずる賢いとこあります」こんな風に感じる「自我」は100%あるんです、、ですが100%幻なんです。この世界の現象とは100%あるように感じれる幻で構成されているのです、その一つが自我です。

幻はハッピーにはなれない

自我は100%あるように感じることができる幻です。この幻の特徴は「感じる」ことができません。「感じられる」ことはできますが「感じる」ことができないのです。この違いは分かるでしょうか?????ここ分っちゃったらゴールです。「 I FEEL HAPPY 」この文章は嘘です、間違いです。主語としての「私」はハッピーを感じることは出来ません。私とは、、周囲から感じられるものだからです。

私は金メダルとを取って一生幸せになります

無理です、私には幸福を感じる機能はありません。よってこの目標設定は破綻します、絶望に繋がります。一生幸せになれる「自分」は存在しないのです。自分とは「感じられる」幻の存在であって自分が「感じる」は不可能なのです。どこまでいっても自分は幻であり、、認識される対象でしかないのです。そしてこの世界の登場人物、登場物質、登場風景の全ては全く同じで「認識される側」です。この体も「認識される側」です。この思考も「認識される側」この感情もこの行動も「認識される側」なのです。

とんでもない幻

全幻

全幻は自我によって認識されてはいません。全幻想は自我によって認識されず起こったスペースによって認識されます。この見える世界この聞こえる世界この触れる世界この味わえる世界この香える世界は起こった瞬間にスペースによって認識されます。ところがこの認識を自我という幻が行なっているという間違った認識が起こり、これが夢物語、私物語、マイストーリーと呼ばれます。ですが実際にはこの認識は自我とは全く関係なくただ起こるのです。

自我

自我とはどこまでもあるように見えるし感じるし実際に幻として存在します。だから多くの人はあの人はキャラが立つ、キャラが立たない、、あの人は良い人だ、あの人は悪い人だ、、と常に自我は評価の対象になるのです。人間によっては自我は完全に存在する対象です。ですがこの自我は幻想です。コーヒーカップと全く同じです。あるように見えるし感じるし触れるし、、ですが幻です。自我も完全にあるように感じれる間違いのない幻です。

悟り

自我を無くそう、なくそうという動きは目の前のコーヒーカップを無くそう無くそうとするのと同じぐらいに馬鹿げています。目の前のコーヒーカップは無くそうという動きで無くなりますか????絶対に絶対に無くならないのです。自我も同じです、無くそう無くそうとして無くなるわけがない。。。。幻想とはないけども100%あるように見える感じる存在なのです。それは無いように感じるは不可能です。在るように感じるから幻想なのです。

ハッピー

私は今ハッピーです。これは嘘です、これは不可能です。。。私とは幻想であってハッピーになることはできません。私はどこまでもあるように感じる存在ですが幻です。ハッピーにもアンハッピーにもなれないのです。ですが100%ハッピーという感情は起こりますし感じます、、これは事実です。ですがこれは私が感じてはいないのです。私は感じることだけは不可能なのです。私を感じることは可能です。ハッピーを感じることはできます。ですが私はハッピーを感じることはできません。

なければ

脳という幻がなければ人間活動が起こらないのは間違いのない事実です。今ここで、、頭をどこかに打ち付けて脳がダメージを受ければ物が見えない、耳が聞こえない、味がしない、香りがしない、、は起き得るのです。おそれは100%事実です。ですが同時に全ての認識は空から色が現象化する際に起きます。脳が壊れれば見えない、聞こえない、味わえない、匂えないが起きますが、同時に認識は空即是色で起こるのです。人間は脳こそが認識を起こしていると信じていますが、、脳が認識を起こしては100%おりません。その違いに気づく必要があります。

脳が全部やっている?????

全く違います、脳が壊れれば視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の全てが壊れるでしょう。それは事実です。ですが同時にだから全五感、全認識は脳が起こしているというのは間違いです、嘘です。全認識は空即是色で起こります。脳がなければこの認識は100%起こりませんが認識は空即是色で起こるのです。つまり脳という幻想は五感に限りなく影響を与えるが認識は脳という幻想ではなく空即是色で起こるということです。

お水

目の前にお水という幻想があります。100%の事実としてお水という幻想があります。この幻想を飲みます、飲んだ時に喉をそれが通る感覚が起こります。この幻想としての水が無ければこの体験は100%起こらないのです。お水は100%幻想です、ですがこの幻想が無ければ飲むという経験が起こらないのは100%事実です。経験は100%事実ですが同時にお水は100%幻想なのです。これがパラドックスです。

幻の意味

この世界

この世界では一般的に幻とは「見える」けど実在しないものを言います。見えるけど本当はない。これが幻です。ところがこれだけを幻と認識していますと、、この世界の真理を理解できません。この世界とは全部が幻です、、目の前の机これが幻なんです。この机、見えるし「手で触れて」触れるし「鼻を近づけて」嗅げるし「舐めれば」味わえるし「叩けば」聞こえるという幻です。この世界ではそれらは「実在」と呼んできたのですが、、見えて触れて味わえて嗅げる『幻』なんです。見えるけど『ない』という幻ではなく見えるし聞こえるし触れるし味わえる「幻」です。

この自分

この体が「見えるし触れるし味わえるし嗅げるし聞こえる」幻なのですからこの体の中の自我も「あるように絶対的に感じれる」幻です。この世界は、、あるように感じることができる「幻」なのです。だから外を歩けば幻の太陽幻の雨幻の人間幻の道路が広がるのです。にも関わらず絶対に的にある自分が絶対的にある体に住み生きるというストーリーを描くことことから「違和感」が起こるのです。

なぜ幻がこの世界を構築しているのか???なぜ????なぜ幻の世界が必要なのでしょうか?????逆に言えばもしもこの世界が全く存在していなかったらこの幻が存在していなかったら、、、幻に気づくという現象が起こりません。私たちは当たり前のようにこの幻を「認識」していますが、、もしも私が「この幻の全て」ならば、、、この幻に「気づく」は絶対に絶対に起こり得ないのです。私は「この幻のすべて」ではないから、この幻に「今」気づいています。

では何????

では「この幻のすべて」でない私は一体全体何ものなんでしょうか??????「この幻のすべて」以外の存在です。「この幻のすべて」ではない存在です。「この幻のすべて」とは全く異なる存在の全てですそれを「空」と呼びます。「この幻のすべて」を認識できるということは私は「この幻のすべて」ではなく、、「空」なんです。「空」だから「この幻のすべて」に気付けるのです。そして「この幻のすべて」があるから「空」という自覚が生じるのであって「この幻のすべて」が存在しなかったら「空」の自覚を持てない。。「空」の自覚を持てないならば「空」は存在しないことになるので「この幻のすべて」は「空」の一部であり「この幻のすべて」は「空」に絶対的に存在していないといけない部分です。

だから何だ????

幻想幻想って

これは五感で感じる幻想です、、、幻想?????幻、、、、もしかしたらそうなのかもしれません。ですがそてが分かって何かメリットあるんですか????何か得でもするんでしょうか?????します、、大ありです、、なぜ?????我々はこの世界を完璧なリアリティ、現実と信じることで、、、苦しんでいるんです。この体も超現実だし、、だからこの超リアルな世界でこの超リアルな体をなんとかして維持しなければならない。だってみんな一生懸命この体とこの体の中の「私」を維持している、、だから私も一生懸命にやるしかない。。たまにどうでも良くなるけど。。。やっぱり死ぬのは怖いから。。。が本音です。もしもこれが100%幻想だと「実感」できた時、、終わるんです、この脅迫観念が。

脅迫観念

我々はなぜ働くのか???なぜ受験勉強をしたのか???なぜ就活をしたのか????なぜ婚活をしたのか????なぜ出世競争をしているのか??楽しいから?????違います。この強迫観念、この世界、この体はマジリアルで、、、生き伸ばせなくてはならない!!!!!という強迫観念が朝から晩までこびりついているからです。頭にこの強迫観念がこびりつき、結果そういう活動をしています。地獄です。逆に言えばこの脅迫観念さえなければ、、楽勝。

まさか

まさかこの体が無くなっちゃったら、、自分って消えて無くなると思ってますか?????残念!!!!自分て何でしょうか??????自分って、、意識のことです、、意識が無かったら「生きてる」って実感ゼロです。そうです「意識」こそが自分のことです。この意識を、、、自分って思ってます。。この意識、、、この体の中にはないです。。。この意識は「体」という幻の中には存在しません。意識は、、、幻ではないからです。意識だけは、、幻ではなく、、幻に「気づく」ことです。幻に「気づく」現象を「意識」と呼びます。

この五感で認識(気づく)できる幻は消えることは絶対にありません。一生この幻は「有り」続けます。そしてこの幻が永遠ならば「気づき」も永遠です。。。「気づき」が永遠ならば「意識」も永遠です。そうです、、、、我々は永遠の存在なのです。この幻を生み出している存在それが「空」です。この幻とは「空」の投影です。「空」が存在し続ける限り、、「幻」もまた存在し続けます。「空」とは時間の中には存在しません、、空こそが時間の産みの親です。だから空が消えてなくなることはないのです。空が消えてなくなるには「時間」が必要ですが、、空が「時間」すら作ったのです。

7つの感覚が起こる鏡

視覚のみ

我々がこの世界で使う鏡には「視覚」のみが起こります。この体だけが、、鏡には映し出されるので、、そこには視覚だけ、映像のみが鏡に映し出されるのです。これがこの世界での投影の一つです。ですが動画のビデオで撮影すれば、、声、画像という二つが投影されます。視覚、聴覚が鏡には反映されます。声というのは組み合わせることで意味を持ちます。この意味とは思考となる、意味ある思考として認識が起こるので、、これを視覚、聴覚、、、、第7感覚として表し、、、動画ではこの三つが起こります。投影によって。鏡では視覚という感覚のみが、動画になると視覚、聴覚、第七感(思考認識)が起こるのです。

そして

この世界は、、空の鏡です。。この空の鏡には「視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、感情認識、思考認識」という7つの感覚が起こるのです。7つの感覚が起こる投影です。鏡では視覚にみが投影されました。動画によって3つの感覚(視覚、聴覚、思考認識)が起こるようになりました。この現実(空の鏡)では7つの感覚が起こります。7つの感覚が起こる鏡です、投影です。

鏡に写った姿

鏡に映った姿を見て、、あれは「投影」ですよ、幻ですよ、、と伝えれば大人は「知ってます」と答えます。動画に映った姿を見せて「あれは投影です」と伝えれば「知っています」と答えます。この現実は「空の鏡に映った姿です」と伝えた時だけ、、「え_?????」となります。投影とはどこまでもあるように見える感じるが、幻という意味です。この世界はどこまでもあるように見えるし感じるが幻です。

7つの認識で確認できる幻

鏡に映った幻は「視覚」で確認できる幻です。この世界は「7つの感覚」で認識できる幻です。目の前の机は「7つの感覚」で認識できる幻です。厳密に説明すれば「五感」で認識でき、そこに思考が起こり、感情が起こる、、これによって「机がある」という認識が起こるのです。鏡に映った「この体」を見て(視覚)「私が居る」という思考が起こり、認識が起こるのです。目の前の机は「見えて聞こえて触れて味わえて嗅げて」認識が起こり「この机がある」という思考が起こり、その思考が認識されるが起こります。

悟り

悟りとは真実をありのままに見ることです。「見性」と禅では呼びます。これは空の鏡に映った姿であり、、5つの感覚で認識が起こり、、「思考」が起こり「感情」が起こるのです。逆に言えばこれしか起こっていません。この世界とは五つの感覚による認識と、思考と感情のみしか起こらない「世界??」です。「世界」に???を付けたのは、、「世界」は存在せず、、『五つの感覚+思考認識+感情認識=世界』です。世界とは何ですか???と聞かれれば「五つの感覚」+「思考認識」+「感情認識」以上です。。。終わりです。これしか起こっていません。これだけが起こり続けるのです。

見える幻、聞こえる幻、嗅げる幻、触れる幻、味わえる幻

鏡にには「見える幻」だけが起こります。この世界は見える、聞こえる、嗅げる、触れる、味わえるという五つの幻が登場します。五つの幻がウヨウヨしているのです。この五つの幻がウヨウヨしているので、、、「この幻は100%存在する」という思考という幻が起こりそれが認識され、、「怖い」という感情という幻が起こりそれが認識されます。釈迦は悟り「五つのこの感覚は幻だ」と実感しました。「この幻は100%存在する」という思考をぶっ壊したのです。

空即是色、色即是空

空からあらゆる現象(幻)が出現します。景色(幻)が現れ、音(幻)が現れ、味(幻)が現れ、熱(幻)が現れ、香(幻)が現れ(空即是色)、、消えていきます(色即是空)。。。ただこれが起こっています。現れた(空即是色)現象(幻)の全ては認識され(気づかれ)消えていきます(色即是空)、、、7つの認識が起こるここは世界です。7つという数字は、、、勝手に思考が作ったものであり、本当は分類などできませんから、、、認識がただ起こるこの世界となります。「空即是色、色即是空、認識」これがただエンドレスに起こります。

神の視点

ただ起こる

神の視点とは、全五感の感覚がただ起こり、思考がただ起こり、感情がただ起こり、行動がただ起こり、視界がただ起こり、触感がただ起こり、味覚がただ起こり、嗅覚がただ起こる、、、それだけ、、、それ以上は何もないという立ち位置に居ることです。全五感が起こっても、だからこの体があってこの私が居るというストーリーに入らない。思考とは、、五感が生み出した感覚を通じて編み出されたストーリーです。

思考

思考は、、五感が生み出した感覚を通じてこの体があってこの体が体以外を認識し、、この体がこの外部環境をサバイブするというストーリーを作り上げますが、、実際には、、それは思考の産物です。ただ五感だけがあります。それだけです。そこから私を作り上げ私以外を作り上げる思考が起こります。ただ五感だけがあるというのが真実です。

悟り

悟りとはただ五感だけがあることに気づくことです。そこからあらゆる思考が今までは湧いていましたがこれはストーリーを作り上げるシステムです。本当はただ五感だけがありそれ以上は何も起こっていません。五感があって幻想がある、、それだけです。ただ幻想があり五感があるという視座に落ち着く時真の安らぎ平和安堵が広がります。

体と体以外

全体

我々はこの体が宇宙空間の中にポツンと閉じ込められた物体であると真剣に信じています。ですが実際は見える世界の中の一部に過ぎません。?????そうです。、見える世界の中の一部です。つまり見えない世界はこの世には存在しておらず見える世界だけが今存在しているのです、その中でこの体が含まれるということです。この体は幻想として100%存在し、、この見える世界も幻想として100%存在します。この体という幻想を自由意志100%で動かす場合残る現象が外部環境になります。

この体

この体を主体として残る環境を客体として活動をしなければならない時もあります。ですがそれはあくまでもそう思考しての活動になります。実際には全部幻想であり、その幻想の中で五感という感覚が起こるのです。そして思考感情が起こり人間活動が行われます。全ては幻想ですから本当は五感しか起こっていません。ですがこの体を主体する活動が起こることも事実です。

マリオカート

マリオカート中はマリオに成り切らなくてはゲームはクリアできまません。ですから徹底的にマリオになりきります。ですがゲームが終わればマリオではなく全体に戻ります。五感は五感がただあるのみです。五感があるからこのマリオがあるという感覚を得ることはできますが、、五感は実は五感でしかありません。人間も五感があるから人間というボディが100%あるように感じますが、実際にはこれは幻です。五感があるからこの体があって体以外があるように感じることができますがこれは思考が為せる技です。本当は五感だけがあってあとは全部幻です。