朝日

日が昇る

朝目が覚めますと朝日が昇っているのを感じます。これ実は視覚がこの幻想を今作り出しました。その朝日は何万光年先にあって???違います、これは幻想ですから今ここに朝日という幻想が起こったのです。そこには距離は全くありません。そして触覚がこの体の感覚を作り出し、、あ、、この体がある!という思考が起こります、それを第7感覚が認識し、、感情が生まれます。この私が今日も居るという思考が起これば、、違和感という感情(幻想)が起こり第6感覚として認識されます。

認識

認識と幻想はセットです。幻想が起これば認識が起こり認識が起これば幻想が起こるのです。ここには時間は存在しません。これらが完全一致として起こるのです。よって「自我が思考を起こす」という主語述語の関係はこの世界では起こり得ないのです。ただ起こります、、その瞬間にただ認識されます。。ここにはタイムラグは存在しません。タイムがないのです。

悟り

悟りとはこの世界が完全一瞬一瞬の広がりであり、、何かを行う行為者は存在できるわけがなく、、ただ現象が起こりその瞬間に認識されるがある世界だという気づきです。時間が完全ない世界に何かを行為する行為者は存在できません。時間がないのですから。ここは現象が一瞬で起こり一瞬で認識される空即是色の世界です。現象の現れと認識は完全同一です。この世界で時間差で起こることはありえないのです。その気づきが起こると、、我々の本質は空であることに気づきます。

居酒屋

行けば

居酒屋に行くと、、席を用意されます。。店員からここに座ってください、というアナウンスがされます。その店員は視覚がキャッチした瞬間にこの世界に現れます。そして店員の口から「いらっしゃいませ」が聞こえますが、、その声は、、聴覚が起こることでその言葉が起こったのです。さらにその言葉を第7感覚の思考が起こることで意味に変換されます。それによって感情という第六感覚が生まれます。

自分

このやりとりに自分という存在は全くでてきません。自分という実在はここには存在しえないのです。7つの感覚以外はここには存在できません。なぜならばそれ以外は全部現れては消える幻想です。7つの感覚以外はそれによって現れ出る幻想でしかありません。思考も感情も完全に幻想でありそれらは6感、7感覚として認識されるのみです。

気づく

とんでもないことに、、ここというこの場所も視覚によって現れでた幻想であり、、この体も完全完璧に視覚によって現れでた幻想です。触れば体を感じますがそれは触覚が起こした幻想です。思考が現れては消えますがそれは第7感覚が認識する思考という幻想です。思考が第7感覚として認識されれば、、感情という幻想が現れでてそれが第6感覚として認識されます。

悟り

そうです、、我々はこの7つの感覚のみなんです。7つの感覚に支えられてあらゆる幻想が現れては消えていきます。しかしこれは幻想以上でもなく幻想以下でもない、、全部が全部幻想です。。。ここには幻想しかありませんから実在は一切存在せずあるのは7つの感覚です。これのみがあります。この7つの感覚が全現象を生み出しさらに気づくのです。

誰も居ない

五感

この世界は五感が作り出す幻想です、、五感が生まれる時、、この世界が起こり、この体が起こります。ですからこの体の中には実在としての自分は当然居ませんし、周囲の体の中にも実在としての自分は居ません。その瞬間瞬間に現れ出る幻想の中に実在の自分は居るわけがないのです。ですが行い、思考、感情は、、常に起こりますから、、それがあるように感じます。

幻想

五感によって常にこの環境という幻想、周囲という幻想、この体という幻想が起こります。この幻想の中に実在の自我は全く存在しません。自我が存在するという思考がただ起こり続け、感情が起こり続けるのです。ただそれが起こっています。そのことを虚しいと感じるのか???もし感じるならばそれが起こったのです。段々分かってきましたか????ここは五感によって幻想が起こり、そこに思考が起こり感情が起こるスペースです。そしてこのスペースこそが我々の本質です。

そろそろ

ここまでくると徐々に徐々に分かってきます。ここには五感プラス思考という第7感、さらに感情という第6感しか起こっていません。そて以外をどこを探しても見つからないのです。気づきました?????広大な世界が広がって、、いやそれ視覚のことです。爆発しようなほどの雨の音が、、いやそれ聴覚です。次から次へと思考感情の波が、、いやそれ6、7感です。本当の我々はというよりもここでは7感覚のみが常に起こる、、ただそれだけです。7感覚が常に起こるだけ、、はい、、誰も居ないのです、ここには。

悟り

悟りとは、、ここには実は誰も存在せず何もなく、、、ただ7つの感覚だけがエンドレスに起こるだけということ。このことに気づくことです。起こるすべての現象は7つの感覚に完全に依存しており、、この7つの感覚が無ければ何も起きないのです。逆に言えばただ7つの感覚だけが起こっています。そこには誰かがいるということはなく何かが在るということもありません。究極の無です、空です。

永久

今ここ

永遠とは今ここのことです。永遠と言うと人間社会ではこの時間軸が永遠に続くという意味で解釈します。この横軸の世界が長く続くことを永遠と呼びます。ですが実際には違います、、横軸に繋がる時間は存在しないのです。本当は今ここで五感がこの幻想、現象、幻を今まさにこの瞬間に生み出します。それがずっと続いているのです。この体が生まれて死ぬまでエンドレスにそれが続くのです。瞬間瞬間に五感が生み出すこの現象幻想幻を、、思考が繋いで繋いで時間に仕立て上げたのです。それを永遠と人々は呼びます。

今ここしかないならば

今ここしかない、、五感が作り出すこの現象が一瞬一瞬に現れ出る世界が、、、ただ続くならば、、ここは永遠です。この現れが消えることがあるならばここは永遠ではない、、ところがこの現象は100%続くのですからここは永遠なのです。現象は現れて消えていきます、ですが現象が消えて無くなることは絶対にない。。ゆえにここは永遠です。

五感

生まれてきてこれまで、、、五感が全く働かない瞬間があったでしょうか???ありません、、常に五感が働きます、、なぜ???それは我々の本質が空という無限の存在でありここは無限の存在の鏡に映った世界だからです。無限が鏡に写れば無限の現れが起こるのです。よってこの世界は常に現象が起こり続ける世界なのです。そして同時にここは常に気づき(五感)が起こる世界です。

悟り

悟りとはこの真実を理解することです。時間はないが瞬間瞬間に幻想の現れがエンドレスに続く世界、、それが今ここです。それを永遠と呼びます。この真実に気づく時、、不安が飛びます、この体を守るとか、この世界でどうやったら生き伸びていくのか????とか、、、、そういう次元の発想が湧いてこなくなるのです。主語がこの体でもなくこの私でもない、、ただあるがままに揺らぐ、、ただ五感が生み出すこの世界に身を任せる、、が起こります。

どうする????

温度差

分かってしまうと周囲とのコミュニケーションは不思議な感覚になります。目の前の誰かは、、この体に向かって話しかけてきますが、、その行為、映像、音はこの五感が作り出した幻想です。今この五感がまさにその現象幻を作ったのです。その幻に向かってこちらから会話が出ます、反射的に、、何も意図せずとも反射が起こります。この体の中にいるはずだった操縦席の「私」など関与せず、、反射が起こります。

何も変わりはしないが

今までもこの五感が幻想を作り出し、反射が起こってコミュニケーションが行われてきたんです。ですから何も事実は変わりません。ですがコミュニケーションが終わったっ時に何かが変わります。上記の事実の認識が起こります。コミュニケーションに囚われる誰かが発生しません、コミュニケーションに固執する誰かが現れないのです。これを解放、開放性、楽と呼びます。

困らない

真実はそうなっているから、、そういうコミュニケーションをしよう!!!ではないんです、、真実とはそもそもそうなっているよ、、というメッセージですから、、何も変わりはしないのです。そこから生まれる勘違いの思考が起こらないだけです、勘違いの思考に準ずる「違和感」という感情が起こらないのです。コミュ二ケーションは元来真実に基づき行われていたんです。そこに勘違いの思考が起こり勘違いから派生する感情が起こっていた、、その違和感を解消すべく、、新たな思考感情行動がただ起こっていたのです。

季節

五感

地球は太陽を周りそれゆえ地球には季節が起こります。ですが実際にはこの季節はここに現れる五感が作り出します。いまここで五感が季節を作るのです。もしも温度を感じる触覚がなければ、、季節は当然存在しないものでもあるし、それを感じるこの体も存在しません。五感こそが季節を作りそれを感じる体を作ったのです。季節は五感に依存しそれを感じていることになっているこの体もこの五感に依存します。

暑い

とんでもなく暑い日々、、この暑暑の日々を幻想と思える人は先ずいないでしょう。ですがこれ幻想です。五感が暑い、暑いと感じるからこそ、、「夏」というリアルな幻想を生み出せたのです。この暑さに思考が加わり「夏だ」が起こったのです。それによって感情が起こり「嬉しい」が起こります。七つの感覚がこれを可能にしたのです。これだけ暑いのが幻想?????そうです五感がリアルな幻想をしっかりと生じています。

季節

季節はこの幻想の世界をリアルな世界現実の世界に思わせる大きな要因を果たします。これだけ暑くて幻想かよ!これだけ寒くて幻想かよ!!です。違います。この暑い寒いという感覚こそが、、季節という幻想を生み出し、、様々な思考を生み出し、、、それが認識され感情が生み出されるのです。この「私」が夏を過ごすというストーリーが生まれます。幻想の中のさらなる幻想がそこに生まれます。それが良いとか悪とかじゃなく、生まれます。

メディア

私じゃない人々

メディアをつけます、TV、YOUTUBE、インターネット、、、そこには「私」じゃない人々が登場し、、「私」に向かってメセージ、エンタメ、音楽、映画、ドラマを流し続けるのです。「私」は私じゃない人々を何時間も見続けて、、この体の中の「私」という箱に収まっていきます。テレビを観ていたら万能感を感じるようになりました、、ないです、、そんなことは。メディアとはこの世界はこの体という小さい箱に収まった私と、、それ以外のその他大勢によって織りなすドラマを見せてきます。

本当は

本当は視覚がメディアを今作り出したんです、、本当は聴覚が今その音を作り出し、、、本当は思考(第七感)が今その音と映像を紡ぎ解釈、意味に変えたのです。だからメディアはこの7つの感覚に完全に依存しています。7つの感覚こそがメディアにストーリー性を持たせ意味を持たせているのです。七つの感覚こそがメディア自体を今生み出したのです。思考が言葉映像を紡ぎ認識し第六感である感情が自動的に生まれたのです。この真実に立ち返ります。

騙されない

TVを見続ければ、、私などは本当に小さい小さいこれっぽっちの人間なんだという勘違いを起こします。本当は今五感が全幻想を生み出し思考が幻想に意味を持たせ感情が湧き上がっているのです。なぜテレビを楽しむことができるのか??????五感+思考(7感覚)+感情(6感覚)が映像、音、意味つけを行い感情を楽しむという創造行為が起こっているのです。そこに気づきます、、全現象は今ここで五感によって生み出されています。

悟り

メディアが楽しいのではないのです、五感が現象化し、思考感情という感覚がそこに加わっているだけです。そこで流れる意味は「この世界と、この小さい私」というストーリーです。だからこれを認識し続ければ、、マイストーリーを信じる動きは強化されていきます。環境に受け身の私が誕生します。環境に適合していかないといけない「私」が生まれます。そこに気づいてください。

いつの間にか

私たちはいつの間にかこの幻を真実と捉え、、この体も真実と捉え、、この壮大な宇宙の中でたった一つ自由になるのがこの体であるという思い込みを始めました。たった一つ自由になるこの体には操縦席があってそこにはこの「私」が座っているというオマケ付きです。この壮大な宇宙は全くもってコントロールできないがこの体この小さい体だけはある程度自由にコントロールできそのコントロールは操縦席の「私」がやっているという思い込みです。

真実

本当は今まさにこの五感がこの世界を作っています、今まさにこの五感がこの体も作っています。一瞬一瞬この世界この体を作っているのです。だからこの世界は幻でもありこの体も幻です。今この瞬間現れては消えていく幻です。外を見てください、その瞬間に視覚が外の景色を作り上げるのです。内側を見てください、、この瞬間に視覚が部屋の世界を作り上げます。

操縦席

あれ????世界はすでにあってこの体も既にあってこの体をなんとか生き伸ばすためにこの操縦席の「私」が居ることになっていますが?????前提変わってきてませんか????その通りです。その大前提は残念ながら嘘です。この世界もこの体も一瞬一瞬この五感によって作られます。だからこの体をこの世界に適応させる必要はないし、、この世界を自分好みに変えるなんて不可能です。

意味なし

だとしたらこの何千万円で買ったマンションは誰のものですか????ストーリー上は間違いなく私のものでしょう。ですが真実では、、今五感がこのマンションを含む世界を作り出し、今五感がこの体を作り出しています。ただそれだけです。それが真実です。我々は五感が今作り出すこの幻想に大金を払って「自分」のものにします。それが悪いとか良いとかの話ではなくて、、ただそうなっているという話です。

悟り

真実と人間常識は180度異なります。真実は人間業界の常識を空気を読まずに切り裂きます。一方人間業界の常識が真実を切り裂くことはできません。切り裂くのは常に真実です。真実が人間常識を切り裂く時、見た目上はトラブルが多くなるでしょう、、ですが「違和感」というこれまで続いてきた感情(第六感覚)が消えるのは間違いありません。真実は人間常識を完膚なきまでに壊し違和感を無くします。

感覚

振り返ってみれば子供の頃は、、この世界が幻だって分かっていました。。全くもって重くないこの世界、軽さしかない世界にこの体も一緒に登場していただけという感覚があったんです。ところがいつの間にか、、この体をこのとんでもなくドライな世界で生き伸ばしていかないといけない、、、という刷り込みをされてしまった。。。そこからです、、世界から軽さ輝きが失せたんです。

あなたはこの体よ

最初の頃はこの名前はこの体という幻の呼び名でしかなかった、、だから名前を呼ばれるだけで嬉しかったんです。ところがいつの日にか、、この体はこのドライな世界を生き抜かなくてはいけないマシーンになってしまった。。なんだかとてつもない重責をこの体の中の私は背負っていたんです。いつの間にか重責を背負った私は何をしたら効率よく生きていけるのかコスパよく生きていけるのかが関心になったのです。

取引、駆け引きの世界に

いつの間にかこの私は取引駆け引きの世界に身を投じ、、、あの学校に行った方が良い、あの学部に、あの四年生に、あの就職先に、、と先に先に向けて生きるようになったんです。本当は今この五感がこの世界この体を作り出しているにも関わらず、、、そんなこととは露知らず、、先に先に関心を持っていきます。ですがこの生き方ではいつまで経っても辛いだけ、苦しだけ、ということも分かってきます。

戻る

悟りとは子供の頃のあの感覚、全ては幻でしかなく、、この世界もこの体も絶対安心の中で起こっているという感覚を思い出すことです。全ては愛の中で五感を通じて世界がこの体が起こるのです。何が起ころうと、その事実は変わることはなく、、思考でそうじゃないとイメージすることしかできません。我々は思考によって騙され、、この体はこの世界の中の小さい小さいマシーンに過ぎず、あなたはこの小さい小さいマシーンの操縦席に座っている小人で在ると教えました。そこから緊張と分離の渦に飲まれ今も苦しんでいるのです。本当は今この瞬間に五感によってこの世界この体が誕生しています。

悟り

いつか「私」は悟りを開き楽になるんだ、、、これは小さい小さいこの体の中の小さい小さい操縦席に座った小人で在る私が悟りを開くというストーリーの話です。本当はこの小さい小さい体の中に小さい小さい操縦席の私は居ません。五感によって今世界が広がりこの体も広がった、、ただそれだけ、、その真実、新事実に戻った時、、そこには私は必要ないのです。私とは操縦席に座って怯えながらハンドルを操る小人ではなく、、この世界、この体をも作り出す創造主だったのです。

過去

喋りたがらない

過去というのは、、振り返ってみて「私」はあの時こうしていた、、というイメージのことです。見かけ上の覚者が過去を振り返りたがらないのは当然で過去とは勘違いをベースにした思考でしかないからです。聞く人々は覚者の過去をヒントに自身の人生に応用しようと考えますが、、その動機は完全に的外れであり、、逆にイメージの世界を強化します。本当はただ五感だけがあって五感によってこの世界、この体が今作られます、幻想として。そのことに気づいた時、、この体の中に私が居て、、、というイメージ、幻想が全て嘘であったという気づ気を得るのです。

私が道を歩いていた途中で

私が道を歩いていた途中で突然、、世界は一つだったと気づいたんです。。この話はあっていいんです、、問題ないです。ですがこれを聞いた人々は、、、この私が悟りを開いたという新しい勘違いを覚えるでしょう。真実は五感がこの世界この体を作り出していたという気づきの中で、、ならば世界はたった一つであるという気づきに至るのです。この世界この体が今五感によって作り出されていることに気づいた時、自分が消え去り、、世界が一つに感じる、が起こるのです。

主語としての「私」

人間業界では主語としての「私」を譲る気持ちは全くありません。悟るのも「私」であり悟れないのも「私」です。ここが不幸であろうと幸福であろうと主語の「私」を手放す気はさらさらないのです。主語としての「私」を手放すぐらいならば不幸でいい、、その覚悟です。ですが真実では主語である「私」の世界は全部嘘、幻想、幻、ストーリーです。主語で在る「私」は本当は何もしていないし何も考えてもいない、、お飾り仮装人物です。