パニック

信じていたことが壊される

お金さえあれば、地位さえあれば、評価さえあれば、パートナーさえ居れば、家族さえ居てくれれば、、、、人にはこれさえあれば、、という心の支えがあります。この心の支えが順調に問題なく在り続けてくれればそれでいいのですが、、そうはいかない。。。そう簡単にはいかない、、のが現実です。いつかそれが崩れた時人は生きる希望を失って早死にするか、、執着縛りが消えて悟りに目覚めます。

突然の解雇

全てを捧げていた会社から突然の解雇、、人は選択に迫られます。もうやる気がしない、、あとは酒を朝から飲んで死んでいいや、、、か会社という存在に依存していた、人生とはそんなに浅いものではない。。。という気づきに至るかです。本当は分かっているのです、会社に依存するのが正しいとは限らないことは。人は信じているものが崩れる時、、失望するか解放されます。頼るというのは依存でありその時点で「苦しみ」があるのです。このメカニズムが崩れるのです。崩壊は解放です。

幻想

お金も地位も家族も評価もパートナーも、、全部が全部五感が作り出した幻想です。この幻想に依存するというのは危険なです。幻想ですから。五感があまりにもありありと幻想を創造するので我々はついこの幻想に依存します。ですがこれは勘違いです、真実とは異なります、よってこの依存は「苦しい」が最初からあります。「違和感」が最初から起こります。違和感のなかで偽りの「安心」を得ているのです。

幻想が落ちる

お金も地位も名誉も家族も全部幻想です、、幻想ですからいきなり崩れます。幻想が幻想としてそこに在り続ける方が難しいのです。だから崩れて当たり前です。そういう意味では幻想の何かにしがみつくのは最初から「苦しい」そのことを実は誰しも分かっています。そうではなくこれが幻想だ!!!と見抜くのです、所詮幻想、されど幻想。本当にこれが幻想で幻想なんだと気づくと、、全く違う視座が生まれます。この幻想であるこの体に自由意志なんてあるわけないじゃん、自由行動、自由感情あるわけないじゃん!!が起こります。

されど幻想

幻想にしがみつくのはおかしよね!でもだとしてもこの幻想って凄くない?????山は綺麗で川は美しく野原は生命で溢れている、、、この幻想って幻と呼ぶにはあまりにも壮大すぎる。。。そうですこの幻想はとんでもなく偉大壮大甘美、、、そしてこの幻想の所有者こそが私です、、そこに気づくと、、とんでもない感動が生まれます。

ケチ

損得

損得勘定、取引、駆け引き、、、、自我の動きはこれを積極的に行いますが、、この大前提には大きな勘違いがあります。大勘違いが、、自我の動きを強固にし結果的に取引、損得、駆け引きに動くのです。この自分を強く強く意織しますと、、「苦しみ」が勝手に湧くため、、その解決方法として多くを手にし少なくを手放そうとするのです。損得、駆け引きは結果引き起こったものであってそこを強引に沈めても全く意味がありません。

重要なこと

重要なことは勘違いを終わらせることです。勘違いです、無知です、、ここを終わらせることが最重要、最重要課題です。誰にとって、、「私」ではないですよ、、勘違いの動きがいまここ、あるがままで起こっており、これを終わらせることが重要なのです。

どうやって終わらせる

真実に触れるのです、それ以外にありません。思考が作り出した嘘のイメージを壊すには「本当はこうなっている」という真実に触れる以外にありません。頭でこねくり回して真実にたどり着こうとしてもその大前提が勘違いですから無理なです。天動説をベースに地動説を発見するのは無理なんです、天動説の中でしか人は思考できないからです。悟りとは勘違いの根底を壊すことであり、、根底をベースにした思考ではこれはできません。

存在

内と外

我々の本質は、、内と外両方の現れを認識する存在です。内と外の現象を起こす創造者でありかつそれを認識する存在でもあります。内と外とはこの体の皮一枚を境にそうなっていますがこの皮一枚によって何が変わるのかと言えば実は何も変わりません。ただし、、この思考はこのことを重視し「私」がやった、「私」がこの世界に影響を与えた、、という想像を起こします。ですが、、実際には、、この皮一枚によって何かが変わることは一切なく、、ただこの現象が起こるのです、、内外を問わず。

全現象

全現象は間違いなく起こっていますが、、それを認識するのは視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚という五つの感覚を通じてです。この感覚が現象を実は支えています。この感覚こそがこの現象、幻想、幻を作り出しているともいえます。見える幻想、聞こえる幻想、味わえる幻想、触れる幻想、香る幻想です。五つの幻想を五感が作り出し、、この幻想を作り出したこの体の中に自分が居るという思考(第七感)を作り出したのです。そしてそれに伴い「違和感」という感情も同時に作り出しました。

この体

この体が五感を作り出したというのは思考(第七感)であって、、五感がこの体を作り出したのです。その証拠にこの体も視覚によって存在が確立し、触覚によってこの存在が確立し、嗅覚によってこの存在が確立し、味覚によってこの存在が確立し、聴覚によってこの存在が確立します。この世界の確立と全く同じなのです。思考はこの世界が外部でこの体が内部、、そしてこの内部には「私」が存在するという概念を打ち立てたのです。その結果「違和感」が起こりその違和感解消のために新たな思考が今も起こり続けています。

悟り

悟りとはこの事実を正しく認識することです。本当は内も外もなく、、ただ五感の存在によって五感が働くベクトルに内外を設けたのです。これは思考です。五感の内が「体」五感の外が外部環境となりました。ですがこの幻想の世界はただ起こるのみ、、、内も外も実はなく、、そうあるとする思考が今も起こり続けます。そしてそれえに伴い感情が常に起こるのです。

地球

五感

地球とは全人類の五感が作り出した幻想です、人類に五感がなければ地球は存在しません。つまりこの五感こそが地球を作り出し人類を作り出したんです。これを一人の人間に当てはめれば、、五感がこの地球を作り出しこの体も作り出しました。五感がこの地球、この体の接点であり同時に創造者です。そしてそこから起こる思考が様々なストーリー、もしくは真実を指し示す指になります。ストーリーにどっぷりハマることもそこから這い出ることも、、完全に目覚めることも可能にします。

五感へ

当たり前にあるこの五感を、、この世界を認識する機能として我々は捉えます。ですが実際にはこの五感こそがこの世界を作っています。そうです我々はこの世界の王です、神です。だってこの五感が無ければ世界は存在できないのですから。ただし結局この世界を作り出しこの体を作り出し、この体の中に神が収まれば同じことです。この五感の王は、、この体の中に収まるのではなく、この世界を作りこの体を作り、、あるがままを観察するのです。

この体

この私はこの体の中の住人という小さい小さい住人なんてものではありません。この世界を作り出しこの体を作り出し全てを観察する者です。この体の中からはあらゆる思考が湧くでしょうしあらゆる感情が湧くでしょう、、、ですが我々はその思考の所有者でもなくその感情の所有者でもなく観察者です、、あの体の観察者であもありこの体の観察者でもあり、、あらゆる体の観察者、、あらゆる現象の観察者です。

競争から降りる

私と私以外

周りがこんなに頑張っているんだから「あなた」も頑張らないと、、これこの世界の常識でしょう。周囲がやっているぐらいは私も頑張んなくては生きていけない。。。みんな必死で頑張っているんだから当然、人よりも少し頑張れば人よりも少し豊かな生活ができるよ!!分かるよね???です。本当は本当は誰も頑張っていない、、ただその動きがあるだけ。。。その体には頑張る自我は存在しません。

この体で起こること

この体で起こることも周囲の体で起こることも全く同じです、、、ただ思考感情行動が起こるだけ。それをコントロールする誰かは存在せず、、その動きが起こるのみです。それはこの体で起こることも全く同じです。そういう意味では自然現象がただ起こっているのです、この体でも周囲の体でも。。そうなると、、、この体で起こる自然現象以上に周囲の自然現象を楽しんでもいいわけです。この体の自然現象が周囲の自然現象よりも優れる??必要はないのです。

全部が全部自然現象

全員が全員五感が生み出すこの世界の中で、、たった一人のこの自分が居るという錯覚の思考を生み出し(第七感)違和感という感情(第6感)に苦しんでいます。この五感が作り出したにも関わらずそのことを忘れ、、この広大な世界にたった一人自分が生き抜くというストーリーをぶち上げ、、生きています。本当はこの五感が今この世界を作り出し、、、思考がその孤独感分離感を起こすというギャグをやっています。そこに気づくのが悟りです。この五感が作ったこの世界がありこの五感がこの体を作り出し、、内外の全くない一つの世界がただある、、これだけです。

五感が無くなってしまったら

もしも五感が無くなってしまたら

朝起きて五感が無かったら、、、先ず視覚がないのですから光が全くない、ビジュアルがない、、真っ暗です。さらに聴覚がなければ、、、何も聞こえない、、完全な無音。そして触覚が無ければどこにいるか全く分からない、、、味覚、嗅覚が無ければ、、、、完全な無です。。完全な無。。。。怖いですよね????そうです怖いんです。ですがこの場合起きたという感覚すら無いのですから、、、意識が生じない。つまり死です。

五感が全てを作り出している

実は実はこの五感がこの世界を作り出しています。この五感が無ければこの世界は登場できないのです。この五感がこの世界を世界たらしめています。そうです、この世界にこの人間が居るんではなくてこの五感を所有した人間があって初めてこの世界は登場するのです。もっといえばこの人間という体は五感が作り出しています。この世界同様にこの五感が作り出したのがこの人間という存在です。

思考、感情

五感の誕生によってこの世界も誕生するのですが、、そこに思考が起こり、、この体の中に「私」を作りました。この世界の中でたった一人で生き抜く「私」の登場です。この五感がこの世界この体を作り出し、、、思考がこの体の中に「私」を作り、、この世界を生き抜くという物語を作ったのです。本当はこの五感が今ここでこの世界を作り出しています。世界が最初にあって、、、じゃないですよ。五感がこの世界を今作り出したんです。物語は完全に嘘です。嘘だから違和感が生まれているんですよ、そこに気づいてください。

何度も何度も「私」に帰る

観察

ただただ全七感だけが起こっている、、、この気づきの状態と、、、、話しかけられれば「私」に戻る感覚を繰り返します。「私」に戻っても、、、、何が起こっていたかを確認します。ああ、、ただここから「私を主語にした言葉がでたんだ」ここに戻ります。マイストーリーが起ころうと、、、いまここに異変があったのか????全くありません、、、「私を主語にした言葉が出た」ただそれだけです。そしてそれがイメージ化され「違和感」という感情が起こったのです。だから苦しくなって、、またいまここに戻ります。あるがままに戻るのです。

マイストーリー

マイストーリーがこのいまここ、あるがままをおかしくしたのでは全くありません。あるがままの中に「私を主語にした思考」が生まれた、、ただこれだけです。あるがままがあるがままではなくなることは絶対にない、いまここがいまここでなくなることは絶対にない、ただその中に「私は〇〇だ」が起こっただけです。ここに気づきます、何度も「私を主語にした物語」は起こりますがその度にそれに気づくのです。

最初は

この広大な空間の中に「私」が一人居るというイメージが拭えません。本当は見える聞こえる感じる味わえる香れる全ては感覚でしかありません。この幻想に対して起こった感覚というよりも、、感覚があるからこの幻想に実態を感じているだけです。この世界から五感が無くなったら、、何もないのです、、この五感がこの世界を100パーセント作っているという事実に気づきます。主導権は全てこの五感にありこの五感が幻想と呼ばれるこの現象を生み出すのです。

五感が幻想を作る

よく観察してみてください。視覚がカップ、椅子、机、この体を作り出しています。聴覚が音を作り出します。味覚が味を作り出します。最初にこれら幻想があって、、そこに気づくのではなく、、気づきこそが、、これらの現象、幻想、幻を作り出しています。ちっぽけなちっぽけなこの私ではなく、、、この五感こそが全幻想を作り出しています。。幻想と五感は完全に同意です。するとこの環境の中のこの小さな体の小さな私は、、、嘘です。でたらめです。全員が全員勘違いをしているから勝手にそう思い込まされています。

私の物語がガッツリあっていい

そこに気づく

私が居ようと、あなたが居ようと、私のストーリーがあろうと、あなたのストーリーがあろうと、、全くどうでもいいのです、実は。どのように起こっているかが最重要、その認識が起こった瞬間映画がガンガン上映されようと、、それが映画であることに気づきます。ここ最重要です。映画は、、この思考を通じて起こります、感情はこの思考に反映されて自動的に起こります。勝手に上映されようと上映されていることに気づくのです。

思考

思考とは今ここに起こり、それがイメージ化され、認識されます。自動的にこれが起こります。私は今強烈に腹が空いている、、これが起こればイメージ化され認識されます。これによって虚しい、悲しいなどの感情が自動的に起こるのです。これがマイストーリーです。空腹感は勝手に起こります、、五感を通じて勝手に起こります。すると思考が湧き(第七感)イメージ化され、、感情が湧きます。これが全部自動で起こるのです。我々にできることは、、そこに気づくこれだけです。

誰が気づく

マイストーリーの登場のメカニズムに気づくには誰かがこれに気づく必要があるのか???残念ながらこれに気づく誰かはいないのです。。ただ気づくのです、、私が誕生し私の物語が起こった瞬間にこれに気づくのです。その瞬間、「違和感」が消えます、違和感を消すための動きが消えます。何度も私も私の物語も起こりますが、、そこに気づきます。

悟り

悟りとは、、この私、私の物語が勝手に湧き上がった思考であることに気づくことです。この私も私の物語もそもそもあったのではなく、、思考として湧き上がったのです。そのメカニズムに気づくことです。最初から存在するモノはこの世界には一切存在しません、幻として視覚に現れ、聴覚に現れ、触覚として現れてもそれだけです。ですからこの私も例外なく幻であり、、この幻を主語にした言葉の全ては物語、つまり幻です。そこに気づきます、私が誕生した瞬間そこに気づきます。悟りを開くのに「私」を利用します、私という幻想の起き上がり、想起、に気づき悟ります。

五感

音楽

音楽が聞こえます、音という聴覚が起こります。音に乗せて言葉が起こります。「思考」という第7感が音を繋ぎ意味に変えます。リズム+言葉の意味が起こります。ミュージシャンには歴史がありその歴史に照らして今回の音楽を楽しみます、これが思考という第7感覚+感情という第6感で起こります。本当は何も起こっていないのです、ただ感覚だけが起こっています。感覚が抜け落ちた時、何も残りません。空です、無です、、そして自身が空、無であるという実感も起こりません。

物語

言葉は思考を作る土台です。言葉がなければ思考は存在できず、ゆえに人間は動物と全く同じです。言葉があるから思考が起こり五感で感じる実感に意味をつけ解釈をつけ、ストーリーに仕立てます。我々はこの五感で感じた事実をベースに思考が湧き上がり、、「この私」「この私の体」「この私の人生」という空想を作り上げているのです、現在も。ただしこの事実に気づきますと、、徐々に徐々にこの空想からリアリティが抜けます。

空想

感覚は100%事実です、、五感は100%事実です。ですがそこから湧いてくる思考(第7感)内容は嘘が多いです、、五感を土台にした空想がひたすらに広がります。事実はこの五感のみです、、、五感以外は何も起こっていません。起こっているという想像は空想です。我々人間はこの五感の上にとんでもない空想を描きそれを共有し、その空想の中で生きるというとんでもないファンタジーをつくたんです。ですがこのファンタジーを描いている期間は「苦しい」「違和感」が継続します。

過去の思い出

湧き出てくる

悟りの学びをしていくと「過去の思い出」が湧き出てきます。これってつまりストーリーに引き戻そうとする動きです。これをしっかりと自覚します。逃げないのです、全体のこの動き、ストーリーに戻す動きから逃げるのではなく立ち向かうのです。なぜこの思い出が湧くかに注目します、注力します。目的がハッキリと分かってしまうと、、逆に今悟りへのシフトが起こっていることに気づきます。加速します。

誰が????

誰がストーリーに戻そうとするんですか???誰ですか???神ですか???大いなる存在ですか?????その人たちがそっちに引っ張ろうと意図するのですか????しません、誰もそんな意図はないんです、誰もないです。生命です、生命の動きが起こるんです。ストーリーを維持しようとする動きがただ起こるのです。慣性の法則です。

その動きに気づく

ストーリーへの誘いが起こったら、、その動きに気づきます。慣性の法則が働いていることにしっかりと気づきます。その動きを読めば冷静に冷静にその動きを見切ることができます。その動き、その動きは多くの場合「思考」「感情」から起こりますから、、それを見抜くのです。過去の思い出は「思考」「感情」を通じてフラッシュバックされます。そしてそこから私の感覚が蘇りストーリーに引き戻されるのです。この動きを把握するのです。