必要ない

準備

ダーウィンの進化論は完全に嘘です、、、この体がこの環境に適するように進化を続けた、、という理論は嘘です。真実はと言えば、、、この世界には時間はなくただこの五感がこの世界この体という幻想を今作り出しています。この変わり行く世界でいかに我々は生き延びるのか?????はい間違いです、、、今五感がまさにこの世界この体を生み出しています。この幻想とはこの五感によって生み出されたものであってこの体同様世界は今後もこの五感によって生み出されていくのです。

主従関係

主従関係が完全に逆なのです、、環境があってその環境に合わせなくてはいけない体があるのではなく、、五感があってこの五感が同時にこの世界この体を作り出しています。この世界もこの体も作り出される側であり、、この体の中に私も作り出される側(幻)です。今まではこの環境の中でいかにこの体「私」が生き延びるかという前提の思考が起こり続け(第七感覚)認識され感情(第六感覚)である違和感が起こっていました。これを「苦しみ」と呼んだのです。

環境に合わせる????

この体が環境に適合していく????冗談は辞めてください。この環境も体も五感に作られた被創造物です、、被創造物はどこまでいっても被創造物なんです。環境に合わせると言いますが誰が合わせるのでしょうか????この私も被創造物ですから適合とか適応とかチャンチャラおかしな話です。チャンチャラおかしな思考が湧くことで第六感である「違和感」という感情が湧くのです。

時間空間

時間空間が無いと断言できるのは、、今まさに五感によって世界が誕生しこの体も誕生しています。この創造行為に時間は介在できません。創造行為は今この瞬間に起こるのです、横軸の時間の流れとはすでに何かがあって変わり続けるという概念です。本当はこの瞬間に五感によって六感覚によって七感覚によって世界もこの体も起こるのです。世界はそうなっています。

五感の回収

夢を見ている人は誰???

毎晩見る夢の夢を見ている人は誰でしょうか?????寝ている「自分」「私」と言いたいでしょうが、、本当は自分、私って存在していません。すると誰がこの夢、毎晩見る夢を見ているのか????となります。答えは、、夢自体が夢を見ているのです。ではこの世界、現実と呼ばれるこの世界は誰が見ているのか???分かりますよね、、現実、世界、現象自体が、、この世界を見ています。悟りを開くとはその事実に気づくことです。

五感はあるよ

毎晩見る夢でも五感ってありますよね????視覚は100%あり聴覚も100%あり味覚、嗅覚、触覚もある、、、100%あります。そしてこの世界、現実と呼ばれる世界でも五感は100%あります。そうです、、全く同じです。。五感が100%あるから毎晩見る夢が成り立つし、この現実と呼ばれる世界も五感があるから成り立つのです。この世界は世界自体が見ていて、、その視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚を感じているのは夢同様に世界そのものです。

ただし

ただしこの五感があるからこの体も登場できるわけですが、同時にこの体が五感を所有し「この体には自分が居る」という思考(七感)を起こすこともできる。思考が起これば感情という第六感が自動的に生まれます。夢も世界もこうなっています。この真実に戻る時、、、この体の中に自分が居るという思考が起こらない、、真実の上にはこの思考は昇らない、よって思考による感情(違和感)が起こらない、となります。

五感の所有者

我々は五感の所有者をこの体とする思考(第七感覚)に支えられてこの私物語を誕生させてきました。ですが夢同様に五感は体が起こすのではなく、、夢全体が五感を作り出し、、、この世界、この現実世界も全く同様になっています。世界がこの五感の所有者であり五感がこの世界の所有者です。よってこの体が五感を所有するというのは空想妄想幻であってそれに支えられた全ての物語は幻です。ゆえにこの幻が上映されている期間は違和感、苦しみが同時進行で起こるのです。

悟り

夜見る夢でもそうですが五感は100%信用できる、在ると言い切れる真実です。この真実が夢を創造するのです。この現実世界でもこの五感は在ると言い切れる真実なんです。だからこの現実世界は「在る」と言い切れるわけです。ですがこの五感の所有者はこの体ではなく、まさかのこの体の中の私ではないわけです。むしろこの体こそが五感に支えられた存在です、この私はもっと五感に支えられた存在です。というよりもこの「私」はこの体の中に収まったとされる想像物でしかありません。そこに気づきます、、私がどうやって登場したかに気づきます。私って五感どころか、、第七感である思考に支えられた存在でしかありません。

それでいい

最終回答

見かけ上の私は「悟り」という境地がこの世界にはあって、、そこに至れば、、全部がハッピーになる、、、というメッセージを得て心底安心しました。それだけで安心したんです。やっぱり!!!が起こったんです。成功者の自殺、成功者の犯罪、成功者のドラッグ中毒が指し示すのは、、普通に生きてたら幸せにはなれない、、ことの証明です。我々が考える幸福の先には幸福がないことは先人がはっきりと態度で示しているのです。だからこの人生をかけてそれを後追いするのはまっぴらごめんだ!!!がそもそもあったのです。

何かが間違っていることだけは分かっている

何かが間違っているんです、、じゃなきゃ、、年収1億円以上の人が自殺はしないでしょう、、。。。夢のような生活を手に入れた人が最終的にドラッグ中毒にはならないでしょう。だから間違っていることだけは分かっていた、、でもその間違いが何かは分からなかった。。。ここの答えを示してくれたのが釈迦でした。人間の無知が「苦しみの元」である。無知を改め知にならざれば、、、至福には至れない。。。そう断言したのが釈迦です。

止まる

もう苦しみは懲り懲りなんです、、どうすれば終われますか????どうしたら、、いいですか?????その活動を止めます、、その個人が解決しようとする動きを止めます。そして動きを止めた時に何にが残るかに気づきます、、そこにはただ五感に支えられた幻想があります。それだけが残るのです、思考の渦が終わり感情の渦が終わる。。。そこに残ったのは五感に支えられた幻想、現象だけです。そしてその時こそ「苦しみ」が終わります。「違和感」が終わります。五感に支えられた現象、幻想、幻のみになった時、、「苦しみ」が終わり感情ではない安堵が起こります、感情ではない平和が訪れます、感情ではない愛が訪れます。

五感から逃げない

思考の嘘に気づく前に

エゴは嘘です、思考も本当のあなたではありません。。。。その通り、、その通りなんです。。ですがそこから入っても恐らく気づきに入れないでしょう。今ある何かを「嘘」「幻想」と決めつけたところで我々はそれに頼って生きていくことしかできず、、よってそれでは解決できません。あなたの「刀」は幻想です、そう武士に言ってもその武士はその刀に頼って生きていくのは当然であってそのワードは気づきにはなりません。

五感が全てを作っている

見える世界もあなたも幻想?????から入るのではなく、、、事実としてこの五感がなくては、、、この見える世界見える太陽、見える机、見える椅子、、、感じるコーヒーの味、感じるラーメンの美味しさ、、感じるパスタのコシ、感じる音楽の音色、、、がなくなります。この五感がなければ世界を構成する全てが消えるんです。この事実に向き合うのです、、するとこの現実って五感に依存してるよね!!!!!になります、これが気づきです。そしてまさかのこの体も五感に依存しています、、五感が無ければこの体は見えないし、触れないし、味わえないし、聞こえもしない、、五感にこの体も依存しています。

幻想という本当の意味

覚者は「この世界は全て幻想である」こう大上段から発するわけですが、、、確かにこの五感がなかったら何もないに等しい、、ことに気づきます。何もない、、つまり幻想、、あるように見えて感じるが実際には何もない、、という本当の意味に気づくのです。この体が五感を使ってこの世界を感じているというのも後付けで、、五感があるからこの体は存在していると思考(第7感)できるのです。思考の内容、感情の内容は全て五感に支えられたアートです。

悟り

悟りとは本当のことに戻ることです。本当は五感しかなく、、その上に思考(七感)感情(六感)が乗っかっています。真実とは五感が作り出した幻想がただある、、これだけです。そこから派生した「私」「私の物語」はアート、幻想、幻です。この世界自体が幻でありその幻の上に乗っかった更なる幻が思考の内容になります。その思考の内容に準じて感情が起き上がり、、思考感情の波が起こり続けます。これを六感、七感と呼びます。1、2、3、4、5(五感)+6感覚(感情)+7感覚(思考)が起こり続ける、、これだけが起こっています。。。ここに気づくことが悟りです。

終わった

脱落

悟りとは現代社会からの脱落です。現代社会ではこの体には個人が居てこの個人がこの社会に何かしらの貢献をするという前提で動いています。多くの貢献をすれば世間では褒められ評価され、、貢献を一切しなければ卑下され疎まれる対象になります。よって個人はあらゆる方法で方向で社会への貢献を考えるのです。女性であれば綺麗にあること、しなやかであることで、包容力で、、男性であれば強くあることで、たくましくあることで、知的であることでこの世界に貢献を果たそうとするのです。ですが悟りは「その個人は居ない」という真実を突きます、個人が居ないのですから個人の貢献すらない、、となるのです。

では

では悟りとは全く何もこの社会に貢献をしないのか????厳密に言えばその通りです。ですが個人が居ない代わりにこの社会(幻想)そのものが自分だったっという完全な革命パラダイムシフトが起こります。この幻想(社会)の中にはこの体すらも含まれ、、全部が全部でこの私です。全部が全部ですから「私」という概念すらももう起こりません。五感は100%起こります、思考も感情も100%おこりますが 、、=個人と社会の確立ではないことに気づくのです。五感こそが社会、個人、この体を作り出す大元、根源だったのです。この気づきが悟りです。

そもそも

なぜみんな社会で認められたいのでしょうか???なぜ親に認められたい???なぜ男性は女性に認められたい???なぜ女性は男性に求めてもらいたい???なぜ?????それはこの体という個人の外に渇望があるからです。どうもこの体以外に漠然とした渇望があってゆえに社会に求められ認められようやく、、、お腹がいっぱいになると信じているんです。ですがこの体この個人こそが、、、嘘であり、偽りであり、錯覚なのですから、、その個人が社会に認められても、、いつか認められなくなる恐れを抱えて生きていくことになるだけです。女性であればいつか若い女性に負ける日が来る、男性であればいつか若い男に力で負ける日が来るのです、これを恐れて生きていきます。

悟り

悟りとは個人の終焉です、この体の中に個人が居てそれ以外の社会の中でサバイブするのではなく、、、この体も五感が作った幻想であり、この社会も五感が作った幻想であることを見抜くことです。全部が全部幻想であるならば、、そこには自由意思があるはずがなく自由意志を行使してきたはずの個人も幻想です。幻想とは本当は絶対にないものですから、、そこへの気づきは大きいものです。明らかにあるように見えて実際には絶対にないものが幻想と呼ばれます。そうです、我々は明らかにあるように見えて絶対にないものなのです。ですがこの幻想を100%実感する存在が100%いるのも事実です。これが我々の本質です。

サマーディ

ヨーガ

ヨーガの世界ではサマーディと言って悟りがあります。ヨーガは体から入っていき、瞑想で直接実感として空を掴んでいきます。五感をフルで活用して、、空に触れ空に成るのです。体は最初から悟っていますから、、その体に焦点を合わせていけば勝手に悟るというシナリオです。思考だけが勘違いなんです、思考の内容が勘違いです、、よって極限まで体に意識を合わせていけば勘違いの方が落ちる、、これぞヨーガの真髄です。

ただし

我々はあまりに複雑な情報社会に今入っています。体に意識を向けようとも社会生活自体が頭を中心にしています。ヨーガが終わればまたフル回転の思考仕事が待っていますから、、体に意識を向ける=悟りというのが難しい環境に居るのも確かなんです。ですから悟りを一つの方便のみで達成しなくてはいけないというルールを消します。悟りとはどこからでも到達していい、、、に変えるのです。

悟り

ヨーガにハマっている人はヨーガ以外で悟るなんて不可能、、そう信じています。ですがこの世界を作っているのがこの五感なのですから、、、この世界を限定された世界と想像する方がおかしいのです。この世界は今この瞬間に五感によって現れたんです、、完全にフレッシュな世界が今ここで現れました。この世界は過去とは全く別物の瞬間瞬間に現れ出る生命、フレッシュそのものです。フレッシュに過去の概念は通用しません。フレッシュ、生命を何かに閉じ込めるのは不可能です。ですが何かに閉じ込められた生命(フレッシュ)を思考するのは可能です。

サウナ

とんでもない暑さ

サウナって入れば分かりますが、、とんでもない熱気、とんでも湿度、、、です。これが幻想?????ありえない、、です。ですがですが幻想です、、、熱気を感じる触感が、、熱気を作り出し、、湿度を感じる触感が湿度を作り、、サウナ場というビジュアルを作り出す視覚がサウナ場という幻想を作るのです。信じられない話ですが、、サウナが最初にあってそこにこの体が行くのではないんです。五感がサウナを誕生させその中に五感がこの体を生み出すのです。

半端ないから幻想じゃない

エベレストを上るときに、、このエベレストが幻想?????何いうてんねん!!!!という話です。半端ない壮絶な環境の中で、、、「幻想?????」勘弁してくださいという話です。ですが幻想です、この寒さ、この痛さ、この空腹感、この肉体疲労、、こそがこの幻想を生み出すのです、、寒いにはこの気候があるから、苦しのはこの山があるから、空腹感はこの体があるから、、肉体疲労は、、この肉体があるから!!!となります。この五感こそがこの幻想を生み出し、、幻想を体感します。

気づく

そこに気づきますと、、この幻想は、、五感に依存し、この体もこの環境も全部五感に依存していることに気づきます。真実ではこれは空『不変の自己』です、、これしかありません、、、ですがそれだけでは、、自身が存在することすら気づけない、、ところが空は全部ですから、、自身の存在に気づく存在も居ないといけないわけです。すると空の中には空の存在に自覚的な部分もでてくる、、これが色(無限の現れ)に気づく存在の登場です。それこそが五感です。。。五感が空の現れである無限の現象に気づくのです。思考がこれは何だ???と騒ぎ出し、、これは私の鏡だという思考も起こる。。。これが(無限の現れ)が私の鏡ならば、、私は無限だ!!!という気づきが起こります。空即是色、色即是空に「気づく」が起こるのです。

悟りとは、、五感が実は幻想を生み出しこの体、この環境の産みの親であることに気づくことです。ですが五感があって次に環境、体が登場したんではありません。そこには時間も存在しないので両者はもしくは三者は同時に生まれたのです。そこにあったのです。そして最終的にはこの五感は、、体に依存もしていません。。五感とは現象と同時に生まれます、五感が現象を生み出し現象が五感を生み出しています。そこにも気づきます。

幻想

外は雨

外は雨です、、なぜ外が雨か分かるのか?????先ずは聴覚があります、、雨の音を感じます。そして曇っています、曇りを視覚が感じます。。さらに触覚があります、、湿度を感じます。この三つの感覚で雨を感じています、、さらに言えばこの三つの感覚こそがこの世界に雨を生み出したのです。この三感覚が無ければ、、雨を実感できていないのです。雨という幻想を実感できないのです。つまりこの三感覚が「雨」を作ったのです。

雨があってじゃない

雨が最初にあってそれをこの五感がキャッチしたんです!!!!ではないんです。五感が雨を作ったのです、雨が最初にあったのではない、、雨は幻想です、、幻想は幻想ゆえに、、幻想のみでは成り立たない起こらないのです。五感こそが雨を作り出しました、、だから我々は神なんです。よってこの体という幻想も当然起こり認識されるのですがこの私はこの体の中にすっぽり収まるコンパクトサイズではないんです。真実は違います。五感が無ければ雨も太陽もこの体も誕生しないのです。

感じると幻想は一つ

雨が最初になって五感で雨を感じる、、この体が感じるを作ったんだ!!!ではないんです。五感こそが雨という幻想をこの世界に誕生させたのです。この体もです。この体という幻想もこの五感が誕生させたんです。頭が混乱しますよね?????この体があって五感が進化し、外の雨を感知できるようになった!!これがダーウィンの進化論です。違います、、この五感が外部環境を認識しこの体も認識し、雨も体という幻想もこの世界に現れることが可能になったのです。

悟り

悟りとは思考が考え出したあらゆる推論をバッサバッサと切り倒し、、真実に至らせることです。悟りとは思考が作り出した推論を完膚なきまでに切り倒し真実のみを残させる行為です。悟りとは、、思考の罠を思考のイリュージョンを思考の詐欺行為を見抜き、、真実のみを顕にする行為です。

軽さ

何かを得るからじゃない

お金が手に入ったら、、安定が手に入ったら、、実績が手に入ったら、、、気分が軽くなれるんじゃないか?????というのは幻想です。手に入れば手に入るほどに、、失う怖さが起こるので、、軽く全くないわけです。有名になったら好き勝手やれる????全くの逆です、、、有名になったら一挙手一投足、、監視されます。だから何かを手に入れて幸せになるという作戦は、、、苦しい作戦なんです。

軽さとは

軽さとは「個人が何かを得る」ことで得られるものではなく、、、この個人が実は居ないという真実に触れることで起こります。「真実の理解=軽さ」です。だから何も得なくていいし、何も達成しなくていい、、何かを手に入れるから軽くなることはない、、と悟るのです。ただ真実に触れて真実に生きるのです、、すると軽くなります。

幻想

この世界は全部幻想です、その幻想を作り出すのが五感です、、この五感が無ければ幻想に気づくことはできない、=幻想も存在できない、、となります。つまり我々は生まれ持ってそこにあった五感によって幻想に気づき、この体という幻想に気づき、、そこから、、この私という第七感が起こり、、感情という第6感が起こり、、私物語が起こっているだけなのです。

悟り

真実は人を軽くします。真実は人を軽くする以上に人が居ないことを見抜き、軽さを生み出します。どこに????全体にです。人が居るという幻想が、、この世界に重さを生み出し、、この重さを払拭したくて右往左往しているのです。真実では五感が幻想を作り出し、この世界この体をも作ります、そしてこの体には「私」が居るというさらなる幻想を第七感(思考)が作り出し違和感という第六感(感情)を生むのです。この事実に触れてください、事実は軽くします。

憧れなくていい

勝手に起こった

大好きなサッカー選手、野球選手、モデル、役者、ミュージシャン、、憧れる、、同じ分野で食べているならば尚更に、、俺も私もあんな努力ができたならば。。。。。残念、、その努力は彼ら彼女らが起こしたんではないんです。勝手に起こったんです、勝手にそのような努力が起こり才能が起こったんです。誰一人その努力をコントロールできる誰かは存在しません。

じゃあどうすんの?????

努力が勝手に起こる者ならば、、、今三軍キャンプで右往左往している選手には光はないのか????ないんです、全く。。。。どうなるか、どのようにそこに至るか、、において自由意識が全くなく、自由行動も全くないのです、、ですから、、、何もできない。。。とんでもない諦めの境地を掴んでください。。すると、、憧れるとか羨ましいとか悔しいとか、、がない。。。

コントローラーを手放した

マリオカートの自動操縦モード、、勝手にマリオが動く、、実は勝手に動いていたことに気づく。ガンガンコントローラーボタンを押していたつもりが、、実は自動操縦だったという大オチ。ですがそれが人類80億人を救うのです、この事実が人類80億人を救うのです。もう誰かに憧れて頑張らなくてもいいし頑張ってもいい、、それも勝手に起こるのだから。

悟り

悟りとは個人が頑張って個人が何かを手に入れて個人が何かを手放すという個人ストーリーの終活です。何も自由がなく何も行動もできず何も決められず何も思うことも決められない、、という真実を個人に突きつけるのです。お前は実は何もしていない!!!!!です。その時、、個人は力を失います、自信を失います、、同時に、、解放されます、責任から解放されます。憧れる誰かもマウントを取れる誰かも実はいない、、この真実が個人を救います、、個人という夢物語が終わるのです。